(第36回) “敵に塩”の舞台、千国街道の塩っぷり
塩はおもしろい。その使い方によっていろんな意味を持ってしまう。以前、懇意にしてもらっていた某イタリアンの巨匠シェフは、塩の使い方が豪快で有名だった。いくらイタリアンは、「塩で素材のうまみを引き出す」からといって、加減に容赦(迷い)がない。その「使いっぷり」を傍で見ていた、共通の友人であるリリー・フランキー氏は、シェフの出身地になぞらえ、「彼の塩の使い方は、イタリアンのそれではなく東北地方のそれだ」とからかった。
塩とは人の勢いや格を表すもの。否応なしに男の塩は「物語」を伴う。
「敵に塩を送る」。これは有名な故事である。戦国時代、上杉謙信が塩不足に悩む宿敵、甲斐の武田信玄に塩を送り届けたとされる逸話である。
甲斐国は海に面していない。東海地方より塩を入れていたものの、敵方、今川氏からの禁輸政策を受け、生活に支障が出始めた。そこで、日本海側、越後を収める宿敵・上杉謙信が、あえてその苦境に手を差し伸べたという話である。故事としては一般的だが、残念ながら史実としては確認されていない。
この「敵に塩」の舞台とされたのが、千国(ちくに)街道である。
千国街道は、越後の糸魚川から白馬岳麓の千国、大町、池田、穂高を経て信濃の松本に至る道である。古くから「塩の道」として重要視され、内陸部で不足しがちな塩だけでなく、日本海側からの海産物、内陸・松本の木綿、たばこなどが輸送された。
中世において、近江から美濃、信濃、上野、下野、出羽と続く「東山道」が重要視されていた。現在の「山深い」東山道は裏街道的な印象があるが、中世までは日本の立派な表街道であり、千国街道を始めとして、信濃の道はさまざまな物資の仲介国として重要な役割を果たしていた。
通常は牛や馬で輸送するが、街道が雪に埋もれる冬の間は、それらが使えない。何十キロもの荷物を背負った「歩荷(ボッカ)」と呼ばれる人足たちの手で、少しずつ物資を運び続けた。馬の背などで運んできた物資を、馬から降ろして小さくし、人の背中に縄でくくりつけることを「かるう」という。
峠道の麓に、「軽」の付く地名がある。岐阜県の白川街道にある軽岡峠、中山道・碓氷峠麓の軽井沢など。人が荷をかるうんで越えた場所の名残である。千国街道では、日本海側、新潟県糸魚川市の集落「根知谷」にその言葉が残っている。
千国街道を辿る旅をしたのは、もう何年も前のことだ。昨年、同じ「塩」をテーマに、宮城の鹽竈神社を訪れたが、信濃の塩は、「そこで生産ができない」だけに、思いが深い。
千国街道の周囲はとにかく山深い。本来人間が入るベきではない土地に無理矢理押し入ったような歴史が、どこか張り詰めた空気の中にうっすらと漂う。
千国街道を北上し、新潟県糸魚川市に入る。街道の旧宿場町・山口には簡素な「塩の道資料館」がある。歩荷の装備や村々から集められた生活資料などが、おばあちゃんひとりが「店番」をする館内に、ところ狭ましと陳列されていた。ここは観光スポットとしても深すぎる。そう思った。
塩は人間の身体に欠かせないものだ。この事実が道を生み出し、現代に通ずる「流通技術」の基礎を作った。だが、塩は時として忘れられる。民俗学者の宮本常一は「エネルギーを生み出す食物には霊が宿る。だが、神に祀られることがないことからもわかるように、塩には霊がない。そのことが、塩に対する人々の無関心さの原因となっている」と、記す(『塩の道』講談社学術文庫)。
塩に華やかさや優雅さはない。だが、東北の塩、越後の塩、長野の塩、イタリアの塩など、塩にはその背景から生まれくる物語がある。塩は「相手」に作用し、不安定な行末の輪郭を決める。
山あいの道を辿ると、塩の「道筋」が見える。
〜2021年7月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂
穂高、安曇野、大町と進む。青木湖を越え、飯森周辺にある千国街道の碑
西洋風マネキンに着せて生々しくなってしまった資料館の「歩荷(ボッカ)」