(第2回) 竜飛岬で『津軽海峡冬景色』を唸る
初夏の津軽。竜飛岬先端から津軽海峡を眺める。
作詞家の阿久悠氏が以前どこかで、「昨今の歌は、歌詞が飛んでいない」と言っていた。冒頭三行で聞き手の気持ちを、日常の位置からどこか遠いところへ連れて行ってあげることが重要だと、そんな主旨のことを語っていた。そのときに例にあげていたのが、この『津軽海峡冬景色』である。
「上野発の夜行列車 おりた時から 青森駅は 雪の中」
たしかにこの歌は、この短い冒頭部分で、見事に私たちを、日常生活から冬の津軽へと誘ってくれる。
「北」「無口」「海鳴り」「連絡船」「ひとり」「かもめ」
一番の歌詞のなかだけでも、こんなフレーズが踊る。
厳冬の海には、(女の)激情と行き場のない悲哀がよく似合う。そんな「雰囲気」が、この歌を通じて強調されてきたように思う。
そもそも津軽海峡に対して、人はどのような思いを持っているのであろうか。
津軽海峡は、本州の最北端に位置し、対岸の北海道との接点となる宿命の地だ。津軽半島の付け根に当たる青森港と北海道の函館港は、青函連絡船で結ばれ、多くの人の人生がこの海峡を行き来した。
津軽半島の先端部の三厩(みんまや)地区(現在の外ヶ浜町)は、昭和36(1961)年から始まった「青函トンネル」建設の基地として輝きを見せていた。三厩の先にある竜飛岬の灯台周辺に立ち、崖上から海峡を眺めると、まるで、未来に向かって進む、本州という巨大な戦艦の舳先に立ったような力強い興奮を、いまでも味わうことができる。
他の地域の人には「北の果て」というなにやら「寒々しそうな」イメージが強い。だが、時代を遡ってみると、この津軽地域自体はけっして貧しい地域ではない。鰺ヶ沢、深浦などの日本海側の漁港は北前船の寄港地として栄え、内陸の弘前城を中心とした地域は、東北地方北端の要所として隆盛を誇った。また、北の玄関口、軍事上の要衝としても位置づけられ、青森港周辺は、太平洋戦争では空襲にさらされることになった。
津軽は、冬は積雪が多いことで知られる。夏が短い分だけ、夏祭りなどで垣間見られるこの地の「激情」は、興味深い。青森のねぶた祭り、五所川原の立佞武多(たちねぷた)。幸運にもそのクライマックスに出会うと、まるで異国にでもいるような開放的エネルギーを感じる。
津軽はけっして「暗い」イメージではない。どちらかというと、「度を越した」激情の郷(くに)だ。それは、寒さや地理的終焉を感じる空気のなかで生まれた、その土地の「意地」のようなものなのか。
この歌の主人公は、青函連絡船に乗り本州を後にする。曇ったガラス越しに見る竜飛岬は、船内からの景色だ。風の音と絶え間ない波の揺れが、主人公の感情を掻き立てる。
果てを越え、行き着くところまで行く。それはけっして絶望の物語ではない。むしろ、明るい未来を探し出す「新生」の物語だ。それは、長い間、何度もこの海峡を渡ってきた多くの人たちが、ちゃんとわかっていることだ。
〜2016年9月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂
『津軽海峡冬景色』の歌碑。
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