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ツキモノ


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 怕美中の学内で密かに噂になっている『風連寺の"首家"』付近で、また新たな"怪異目撃情報"があったらしい。あそこのお寺さん関連の怪異情報を耳にするのはこれで三度目のことになる。
 今回受け取った情報を大雑把にまとめると、怕美中二年の男子生徒が塾の帰りに風連寺のすぐ側にある"あの道"を通った際、なんだか首家の正面にある墓地のほうから誰かに見られているような気がしたので怯えながらもチラリと墓のほうへ視線を遣ってみると、中でも一際大きな墓石の陰から薄気味悪い女の顔が"横向きに"にゅうっと現れ、ニタアッと口の端を釣り上げながら彼を見つめ、すぐにまた、墓石の裏に引っ込んで行った──という話だった。いかんせんこの話は又聞きの情報なので、多かれ少なかれ、事実とは異なる部分があるかもしれないが、まあ、それは些細なことだ。
 しかし、ゆえに細かい状況や時間帯などについても一切、何一つとして情報を得られなかった。塾の帰り──それも夜もだいぶん深まった時間だったということだったので、早くて夜九時過ぎ、遅くても十一時過ぎくらいの間に起こった事だったのだろうということは推測出来るが、それ以上の事は、やはり判らない。
 それでも、確かに言える事がたった一つだけある。これだけは確かだと言えることが、たったひとつだけある。
 それは、過去あった三件の目撃情報──風連寺関連で僕が耳にしたことがある三つの怪異情報と、今回の目撃情報の内容が殆ど完全に、綺麗に一致するという事だ。
 ……いや、目撃情報とは言っても、実際のところ最初の一件に関しては、それがいつ頃にあった話なのかも、誰が言い出した話なのかも全く判らない、いわゆる世間で言うところの"都市伝説"や、"学校の怪談"という類のものだったらしく、一説では、あの道は昔から極端に街灯が少ないため、夜に子供が一人歩きをするには危険すぎると判断したどこかの親御さんが、子供たちを近寄らせないために恐ろしい怪談を創作し、噂を広めたものだという話もあったらしい。
 結局、風連寺の怪異に関する噂は「そんな与太話を信じるやつがどこに居るのだ」という事になり、時間が経つに連れ、真偽が明らかにならないまま次第に風化して行ったそうなのだけれど……それがつい一年ほど前、突如として現れた「風連寺の怪異をこの目で見た」という目撃者の登場により、目撃談の登場により、噂が再び息を吹き返したのだった。
 そう、一年前。
 一年前と言えば、ちょうど風連寺の寺院墓地近くにある木製アパートの一室が『首家』と呼ばれ始めた時期だった。より正確を期した言いかたをするならば、"あの部屋が『首家』と呼ばれるようになる原因を作った人間が引越しをしてきた時期"が、その一年前であったということになる。
 風連寺の首家──。
 一部の間では『首家』ではなく『顔窓』と呼ばれているようだけれど、大半の怕美中生があの家を『首家』と呼んでいる。まあ、どちらにしても気持ちの悪いネーミングではある。誰がそんな絶妙な禍々しさを放つ命名をしたのかは知らないが、きっとあの部屋に名を付けた御仁も、あの角部屋の出窓にズラリと並べられた"あれら"を初めて目にしたときは、僕のように、僕同様、さぞかし背筋を凍らせたものだろう。
 ボロ屋と言って差し支えないような古い木造建築のアパートに、その目の前に広がる寺院墓地。線香の薫る畑、狭い小道。そして、出窓に陳列された様々な骨格の"頭部"──。
 頭部。頭部。頭部。頭部。頭部。頭部。
 生首、生首、生首、生首、生首、生首。
 それら全てが意図的に、故意的に、作為的に──眼前に広がる墓地を見つめるようにして並べられ、飾られている。誰が何を言うまでもなく、それは戦慄に値する光景であり、喩え誰かに恐ろしい呼び名を付けられたとしても文句は言えないであろうというような、悪趣味極まりないインテリアだった。
 ……まあ、全部マネキンの頭部なのだけれど、けれどそれは実際、「だからなんだ」と言う話でもある。無論、それが人間のナマの生首──実物の頭部だったら、当然恐ろしいどころの話では済まされないのだけれど、けれども、マネキンだから恐ろしくないという話しにはならないだろう。見るからに狂気の沙汰で、明らかに正気の沙汰ではない。
 首家に住んでいるのは、あるいは精神異常者で、あるいは猟奇殺人犯で、あるいは気狂いで、あるいは嗜虐性の高い変態である──という噂は、瞬く間に広まっていった。
 その噂の風が猛烈に吹き荒れる中で起きたのが二件目の事件……と言うか、風連寺の怪異騒動だった。
 首家の狂気、風連寺の怪異──二つの噂の風は、伝わるうちに互いに混ざり合い、いつの間にか、新たな噂を生み出していった。
 風連寺に出る幽霊は、首家に棲まう殺人鬼に惨殺された女の幽霊である──と。  

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 放課後、今回の件に関する情報を提供をしてくれたクラスメイトの北条莉久に感謝の言葉を告げるついでに「調査が終わり次第報告をする」という約束をして、僕は帰路に着いた。
 莉久は僕の幼稚園来の幼なじみで、親同士の親交も深く、学内で奇人変人扱いを受けている僕に対しても何の色眼鏡もなしに(彼女は眼鏡をかけているけれど)話しかけてきてくれる奇特な女子だ。
 彼女のおかげで僕は、この怕美中のなかでもギリギリ孤立しないで済んでいる。有難い話だ。危うく、無頼を気取った痛いオカルトマニアになってしまうところだった。
 そして何よりも、何よりも助かっているのは彼女の情報収集能力の高さだ。彼女のコミュニケーション能力の高さや顔の広さは、人見知りであり対人関係に於けるスキルが絶無である"怪異研究部"の部長である僕にとって貴重な情報源になっている。
「なんか、ハサミが落ちてたって話も聞いたことがあるよ。ほら、あそこってお墓とお墓の間に道路があるじゃない? そこの隅っこ……話を聞くに、たぶん排水溝の付近じゃないかと思うんだけど、見るからに使い古されたハサミが落ちてたことがあるんだって。ねえ、オバケンの部長としてはこれ、どう思う?」
 ハサミ──か。
 ああ、そう言えばハサミを使って首を切る犯人が出てくる推理小説があったような気がする。内容は殆ど覚えていないけれど、あれはかなり大きなハサミだったのだっけ?
「オバケンじゃない、怪異研究部」
 言いつつ僕はウウンと唸る。別に僕は探偵ごっこをしたいわけじゃあないので、首家に棲まう者については正直なところどうでも良いのだけれど、実際、怪異目撃者の証言で『胴体を見た』と言っているものがひとつも無いことを思うと、やはりなにか、首家と風連寺の怪異に密接な関係があるのではないかと考えてしまうのは確かだ。そうでなくともあの雰囲気、あの立地の位置関係だ。
 けれど──。
「いや、僕は関係ないと思うなあ。仮に首家の主が真実、悪逆非道な猟奇殺人犯だったとして、その殺人鬼がハサミなんていうわかりやすい凶器を道端に捨て置くとは思えないし、風連寺の怪異の件と照らし合わせてみても、一件目との時系列が全然合わない。一件目の目撃談がいつ頃から語られていたものであるかは判らないけれど、少なくとも五年以上前から語られていた筈なんだから。それに何より、この辺りでそんな殺人だとか失踪事件があったという話は聴いたことがないからね。完全に別件だと思うよ」
「あれ、一件目の怪異情報はデマなんじゃないの? 確か隆人自身が言ってた話だった気がするけれど……例のごとく私の記憶違いだっけ?」
 莉久は小首を傾げながら脳内をまさぐるように眼鏡のつるの下からこめかみをグリグリとマッサージし始める。物忘れが多いのは彼女の唯一の欠点だ──いや、それすらも茶目っ気として昇華させてしまっているところがあるので、欠点とは言いづらいのだけれど。
「いいや、その記憶は概ね正しいよ。僕が僕の親父から『一件目の話はデマである』という話を聞いて、僕が莉久にそれを伝えた。けれども、それはあくまで可能性の話であって、真偽は未だ定かじゃあないんだよ。と言うのも、二件目に続いて三件目の目撃情報──しかも証言が完全一致する目撃情報が飛び込んで来ているんだよ? にも関わらず、一件目だけが嘘であるって可能性は、むしろ低いような気がするんだ」
 そう、一件目の目撃談は事実であったと考えて良いだろうと僕は思っている。怪異は間違いなくそこにある。だからこそ、怪異研究部の部長である僕の食指がこうも動いたのだ。
 こうなってしまうと自制が効かなくなってしまうのは我ながら悪い癖であると自覚しているけれど、悪い癖というのは自制出来ないからこそ悪い癖たり得るのだから、付き合っていくしかない。諦めも時には肝心である。
「ふーん、そっかあ。じゃあ本当に怪異研究部の出番と言うか、その研究活動とやらに精を出せるって話なんだね。まあ、部員が居るわけじゃないし隆人ひとりがひとりで精を出すだけなんだけど」
「余計な一言だとわかっているくせに敢えて余計なことを言うんじゃない」
 言うと、莉久はケタケタと笑った。
 そう、怪異研究部は学校非公認の部活なのだ。ゆえに、部員も居なければ顧問も居ない。つまり、単なる僕の趣味なのである。しかし、部活動というのは言ってしまえば学業の合間に勤しむ趣味的な活動のことを指すものなのだから、そこへ行くと我が怪異研究部も立派な部活だと言ってしまって差し支えないのではあるまいかということで、二年前の秋頃──僕がまだ、怕美中に入学してから半年と少しほどしか経っていなかった時分だ。担任の教師に「怪異研究部を学校公認の部活動にしてはいただけないだろうか」という旨の相談をしたことがあった。まあ、すげなく断られてしまったわけだけれど……曰く「活動内容が不明瞭すぎるから無理だ」ということだった。
 怪異にまつわる活動なのだから、その内容が不明瞭極まりないものになってしまうのは当然のことであり、他に類例を見ない部活動(大学にはオカルト研究会などもあるそうだが)であることは確かなのだが、しかしそれでも、怪異研究や新聞作成というこの部活動の部活内容は、紛うことなく文化的な活動であることに変わりはないだろうという主張も、悲しいかな、担任教師の胸に届くことはなかったようだった。
 その後も、部活内容をまとめた資料や個人的なフィールドワークで得た情報など、様々な飛び道具を持参し何度も掛け合ってみたけれど、それもやはり無意味だった。
「仮に部活動を立ち上げたとしても、入部希望者なんて出てこないだろうしねえ。と言うか、私たちもう卒業だし」
 卒業──。
「在学中になにか一旗揚げられていれば、あるいは可能性もないではなかったんだろうけれど、今までの活動で目立った成果はあげられてないしねえ。雑木林の清掃をしたときは褒められたんだっけ? あっ、ちなみに私はちゃんと県大会で章もらったからね、怕美の楽部は伝統あるから」
 そう言って莉久は胸を張った。冬用制服の胸元につけられた深紅のリボンが昇降口に吹き込む冷たい風にふわりと揺れ、僕は露骨に彼女の胸元から目を逸らす。
 一旗揚げる、ね。
 何をすれば一旗揚げたことになるのかすらわからないのに、どう揚げろと言うのだろう。お祓いでもして人命救助をすれば良かったのだろうか?
「そもそも、隆人が部活を立ち上げたかった理由って何だったんだっけ? なんか、ずっと前に教えてくれた気もするけど忘れちゃった」
 ペロッと舌を出す莉久に呆れながら「だから──」と僕は語り出す。僕が在学中にどうしても怪異研究部を学校公認の部活にしたかったその理由を。
「だから、証が欲しかったんだって。僕はここに居たっていう証明を何かの形として遺しておきたかった──で、それはやはり、『怪異研究部の実在』であるべきだと思ってね」
 莉久に──他ならぬ彼女に訊かれたからというのもあるけれど、若干以上に青臭い言い回しをしてしまったような気がする。彼女に『ダサい男』と思われたくない一心だったけれど、これは逆効果だったかもしれない。
 とは言えもちろん、その言葉自体は本心だった。怪異研究部を正式な部活動として学校に認定させ、僕の居場所はここにあったと証明したかった。ただ、正直な告白をすれば、初めはそんな殊勝な理由じゃあなかった。単に、僕だけではフィールドワークの行動範囲が限られてしまうから、顧問が居ればあるいは車で遠くまで連れて行ってくれるのではないかと期待してのことだった。
 けれどもやっぱり、卒業が近づくに連れて意識が変わってきた。恋人はおろか、友人も、部活動も──いわゆる青春と呼ぶべき"学生生活"を何一つ、一切せずに、僕は中学校を卒業してしまうのだろうかという言いようのない不安が、日を追う毎に僕の意識を支配し始めた。
「要するに、怪異研究部は僕の暗い学生生活の象徴なんだよ。だからこそ、僕はその存在を、怪異研究部という部活動の存在を『実在のもの』として成立させたかったんだ」
 鼻までかかった長い前髪で目を隠すようにつまみながら、僕はそんな台詞を吐いた。  

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 帰宅後、僕は今晩行うフィールドワークに備え軽く仮眠を摂ることにした。無論これは、日中の授業で居眠りが出来なかったから眠かった──などというようなつまらない理由からではなく、そう、あくまでもこれは僕なりの怪異対策であり、言ってしまえばこの睡眠は、この手の研究や調査をする者から見れば当然の下準備なのである。
 いわゆる、体力作りだ。
 僕はこれまで、十把一絡げに『怪異』と語ってきたが、その怪異というものにもいくつかの種類がある。いや、怪異自体──怪異そのものにと言うよりも、"障り"のほうにこそ、様種類があると言ったほうが、いくらか正鵠を射ているのかもしれない。
 怪異は怪異。
 障りとは、また違うものだ。
 目撃するだけで祟られてしまうような怪異だってもちろんあるし、何かしらの条件が揃った時点から突如として発動する障りだってある。体力の衰えた人間や小さな子供しか呪えない下級怪異だって居るし、人から睡眠を剥奪してしまうような恐ろしい怪異だって居る。幸いなことに、僕はこの身この目でそれらの危険な怪異と行き遭ったことがない種類の素人だが、それでも、最低限の自己防衛を怠るほど愚かなド素人でもない。
 まあこれは、逆に言えば僕には"眠る"という最低限講じられる対策くらいしか出来ることがないという話でもあるのだけれど……しかしそれでも、何もしないよりかは多少、いくらかはマシだろう。
 それに、過度に怖がりすぎるのもそれはそれで逆効果になってしまう可能性だってあるのだ。過度に警戒するあまり──過度に対策を講じてしまったばかりに、ふだんは大人しい筈の怪異にいらぬ刺激を与えてしまい、害意を感じ取った彼らが牙を剥いて襲いかかってくるという展開になる可能性だって大いにあるわけで──そういう意味で言っても、このような調査に乗り出す場合、僕のような素人は『十分な睡眠をとり、身体のコンディションを万全に整えておく』というくらいのスタンスでいるほうが、案外丁度いいのかもしれないと、まあ、そういうことだ。
 そもそもの話になってしまうけれど、風連寺の首家にまつわる怪異だって、それが悪性の、つまりは攻撃性のある怪異であるという根拠はどこにもないのだ。首家や墓という"場"そのものの不穏さは確かに否めないけれど、だからと言って、そこに在る怪異が必ずしも危険なものであるとは限らないのだから、もちろんある程度の用心をするに越したことはないけれど、やはり、やり過ぎは良くない。素人が玄人の真似事をすると失敗するというのは、つまりそういうことなのだろう。
 いや、三件の目撃談を聞く限り、風連寺の怪異は明らかに危険度の高いものであることは確かなのだけれど……。
 危険──か。
 まあなんにしても、ここまで来て「危険だから」と引き返すようなメンタルを、ここで止まれるような立派な自制心を僕は持ち合わせていないので、僕は当然のように、危険を省みることなく現場へと赴く準備を着々と進めていくわけだが。
 そうでなければ、卒業間際だと言うのに怕美中の学内で孤立ギリギリの生活など送っていないだろう。
 怪異があればそこに奔る。
 それが僕、岡山隆人という人間の"性"であり、どうしようもなくどうしようもない悪癖なのだから。
 そういうわけで、仮眠と言うには十分すぎるほどに睡眠を摂ったのち、冷たいシャワーで身体を綺麗に流し終えた僕は、ひっそりと静まり返る台所で一人、作り置きのカレーを温め、食べることにした(親父はどうやら夜勤らしい)。
 食は生者の特権であり、また、睡眠と同様に亡者に対する際には必ず行っておくべき行動のひとつだ。何事も身体が資本であるということなのだろう。
 そう言えば、意外なことに香辛料は怪異──幽霊の類に対して有効なのだという話をどこかで聞いたことがある。幽霊は匂いの強いものに敏感で、香辛料の匂いを嗅ぐと噎せかえって逃げてゆくのだとかなんとか……。正直、かなり眉唾物の話ではあるのだけれど、あれは実際どうなのだろう。
 むかしから日本には"香切り"という退魔法があり、要するにそれは『お香を焚いて魔を祓う』というものらしいのだが、つまりはそれと同じようなことなのだろうか。
「…………」
 そこまで考えて、スプーンを静かに置く。
 お香を焚くことで魔を祓うという話自体が自家撞着と言うか、矛盾していることに気付いたからだ。だって、それが本当ならば、仏壇にあげる線香はどうなるのだ──という話だろう。いくら仏壇にあげる線香が良い香りのするものであるとしても、「だから大丈夫」と言われてしまうと納得しかねるものがある。
 まあ、線香に魔を祓う能力も備わっているというのであれば、今から向かう風連寺の怪異に襲われた際の対抗手段として二、三本持っていくことも吝かではないのだけれど。
 僕はそんなことを頭の隅で考えながら静かに自室へと戻り、出来る限りの装備(塩や御守り程度のものだけれど)を整え終えると、再びモゾモゾと布団に潜り込んだ。
「あと一時間くらいかな」
 手首に巻いたデジタル時計のバックライトを点け、時刻を確認する。
 午後七時半──。
 目撃情報から推察できる怪異との遭遇時間はおおよそ九時から十一時──風連寺までは僕の家から自転車で十五分もかからず行けるので、今から行ってしまっても全く問題はないのだけれど、ただ、いくら怪異研究部の部長である僕でも、さすがに他人の墓前で何時間も怪異を待ち呆けを食らってしまうのは御免蒙りたいところだ。
 怪異の出現というものには基本的に法則や条件があって、例えば着ている服や時間帯などなのだが──あとはそう、合言葉のようなものにや、人間の行動に反応して出現する怪異もある。『トイレの花子さん』や『もったいないお化け』という怪異を例にあげるのがわかりやすいかもしれない。法に縛られることはないけれど、法則にはきつく縛りあげられているもの──それが怪異であり、世間で言うところのオバケなのだ。
 風連寺の怪異がどんな法則に則り……あるいは縛られてそこに存在しているのかは、まだ全然、僕の知るところではないのだけれど、仮にそれが"時間"に縛られたものであるとすれば、一時間も早く現場に到着するのはどう考えても無駄なことになってしまうし、逆に、時間に縛られていなかったとするならば、僕が何時に到着しようと他の条件を満たしていれば問題なく怪異は現れる筈なのだから、まあ、どちらにしても焦ることはないだろう。
 僕は布団のなかでゆっくりと目を閉じ、足の爪先から順に身体の隅々にまで意識を向け、頭の中を、心の内を無にしていく。
 精神統一作業。
 怪異の噂が発生する頻度から見て、恐らくこれが、怕美中怪異研究部としての最後の活動になるであろう。厳密には記事作成などの工程が残っているけれど、実地のフィールドワークに関して言えば、恐らくこれがの本当に最後だろう。
 最後の、最期の部活動──。
 僕は閉じていた眼をキッと見開き、布団を跳ね除けた。目の前に広がる闇のなかに、これまで怪異研究部で行ってきた活動の記憶が蘇ってくる。どれもこれも、僕から言わせれば失敗ばかりの部活動だった。暗い──昏い思い出ばかりだった。
 デジタル時計が午後八時半を指す。
 予め準備していた部活道具が仕舞い込んである使い古した学生鞄を肩にかけ、僕は高鳴る胸の鼓動を抑えるように呟く。
「行こう」
 いざ、風連寺へ。  

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 結論から言おう。
 僕は怪異に遭遇した。
 風連寺の怪異は本当に存在したのだ。
 けれど、僕は尻尾を撒いて退散してきた。あれだけ「最後の部活動だ!」などと大袈裟な身振りで家を飛び出したのにも関わらず、実際この目で怪異を目撃した途端逃げ帰って来るなんてあまりにも、あまりにも情けない話だけれど──それでも、"アレ"は駄目だ。明らかな、明確な悪意。僕のような素人の──何の装備も準備もない素人の手に負えるような怪異では絶対になかった。
 僕が"アレ"と遭遇したのは、風連寺の寺院墓地に到着してすぐ、数分後のことだった。
 昼間に莉久も言っていたよう、風連寺の寺院墓地の敷地というのは車道を挟んで東と西の二箇所に土地が分かれているのだけれど、墓地を裂くように通っているその車道は、軽自動車がギリギリ一台通れるくらいの広さで、自転車を停められるようなスペースが殆どない。ゆえに、僕は風連寺のすぐそばにある児童公園にいったん自転車を停めてから徒歩で現場へと向かうことにしたのだが……既にその時点から、何かがおかしかった。
 これは、今にして思えば僕の気分──過敏になった意識が引き起こした錯覚のようなものだったのかもしれないけれど、自転車を停めた児童公園から風連寺の墓地まで歩いていく道中ずっと、『ナニカ』が背後からズルズルとつけてきているような──物陰からなにか『ヨクナイモノ』がジイッとこちらを覗いているような──そんな薄気味の悪い、どろりとした感覚が身体中にべっとり絡み付いてきていた。
 暗闇も凍りつくほど寒々しい冬の夜だというのに、僕の着ていた服の内側は、その生地が張り付くほどびっしょりと冷や汗に濡れていて、それがより一層、街灯も疎らなこの風連寺周辺にまとわりつく不穏な空気を加速させていくようだった。
 背後や物陰をちらりちらりと伺いながらも、僕は現場である寺院墓地の間を通る車道へと辿り着き、奥に寺の本堂が見える西側の墓地を睥睨するように眺めた。辺りに充満した暗闇の中に見える数々の墓石や卒塔婆は、たしかに一種のおどろおどろしさのようなものを醸し出しているのだけれど、しかしそれは、どこの墓地も同じであろうと言うようなごく一般的なもので、いわゆる怪異的な禍々しさからは縁遠い存在のものであるように僕には見えた。むしろ、墓地の奥に見えている本堂の灯りから、ある種の神々しさ(寺ということを考えて言うならば「清浄さ」だろうか)まで感じていたほどだ。
 結局、西側の墓地にはどこにも怪しさや異質さを感じることなく、僕は意を決して件の目撃情報があったほうへ──つまりは東の墓地のほうへと振り返った。学生鞄のなかに仕舞い込んだ塩を取り出しながら、振り返った。
 まず初めに目を引くのは、やはりと言うか、当然、首家だった
 建てられてから何年経っているのだろうと思えるほど劣化した木造の小さなアパートの一室。その出窓には、部屋の奥から漏れ出す蛍光灯の逆光に照らされながら無感情に墓地を見詰める頭部の群れ──。
 これまで熟視したことはなかったけれど、改めて矯めつ眇めつまじまじと眺めてみると、どうもその性別や形、頭部の並べかたなどに"こだわり"のようなものはないようで、それら頭部群は、規則的に一定の間隔で陳列されていると言うよりもどこか『適当に置かれている』と思えるような並びかたをしていた。唯一共通しているのは、その全てが窓の外を向いているという点のみ。
 新たな発見──ではあったけれども、逆に言えば「それがどうした?」というようなつまらない発見でもあった。首家の主の偏執性を少しばかり否定したところで、それは僕の行う部活動、怪異研究部には何の利益もない。
 僕はふっと首家から目を背け、冬夜の寒さに白い溜息を漏らした。その瞬間の、その刹那の、それは出来事だった。
 首家のすぐ目の前──。
 出窓に並べられた頭部の群れが無機質な冷たい視線を送っている先に見える大きな──さぞかし名のある人物や、あるいは家系の墓であろう大きな墓石の陰で"ナニカ"が動いたような気がした──。
 目の端で捉えてしまったそんな異変に全身を氷のように硬直させつつ、僕は恐怖と期待が綯い交ぜになった暴れる心臓の鼓動を抑えるよう、闇夜のなかでゆっくりと息を吸い込んだ。
 身体が震えを止める方法を忘れてしまったようにガクガクと震え、耳鳴りが警鐘のように鳴り続けている。
 それでも僕は、"それ"を見た。
 深淵を覗き込むように。
 "それ"を、見据えた。
 墓石の陰から頭をにゅうっと"横向き"に出しては隠れ、出しては隠れ、出しては隠れ──という動作を何度も、何度も何度も何度も──それこそ、"非現実的"な速度で何度も繰り返す女の顔。
 その不気味で不可解な動きは徐々に速度を上げていき、僕が自分の置かれている状況と悲鳴を同時に飲み込んだときには既に「ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ」という擬音が聴こえてきそうなほどにまで加速していて、その異様な──戦慄すべき光景は、怪異研究部部長としての本能よりも"人間"としての生存本能を激しく喚起させた。
 逃げろ。
 これは、"駄目"だ──と。
 塩で対処出来るようなものじゃあない。
 僕は後ろ足を半歩下げ、首家に背を向けて走った。脱兎のごとく、猛然と、がむしゃらに走った。
 背後を確認する余裕すらない。
 パニック。
 自転車を停めてある公園にまで辿り着き、僕はそこに留まることもなく愛車に跨り再び逃げた。とにかく明るいほうへ、"人"を求めるように逃げた──。
 自宅に到着してからも、気が気じゃあなかった。あの女の影が、今にも部屋の窓を覗くのではないか──室内の物陰から突として"にゅうっ"と現れ、あの不気味な動きを始めるのではないか、と。
「へえ、逃げ帰って来たなんて言うから一体どんなことがあったのかと思ったけれど……それはそれは、随分怖い目に遭ったんだねえ。でもその後なにかがあったとか、そういう、なんて言うの? "祟り"とかがあったわけじゃないんでしょう?」
 翌日の学校。調査報告と言うか、僕の情けない退散報告を聞いた莉久は、眉を顰めつつそう言った。
 そう、その後に何かがあったということはなかった。僕が本物の怪異を見て、驚き、逃げ帰って来たというだけの話だ。
「でも、だとしたらオバケンの部長としては万々歳なんじゃないの? 本当にオバケが居たわけなんだから。今までの活動から見たら一番……かはわからないけれど、それでもオバケがン"らしい"活動だったんじゃ?」
「まあ、良いように言えばそうなんだけれど、尻尾を撒いて逃げたなんてことはレポートには書けないからなあ……」
 そう言いつつ、僕は『怪異レポート』と呼ばれる僕独自の研究ファイルを取り出そうと学生鞄をまさぐる。
「…………」
「どしたの?」
「無い……」
 ん? と首を捻る莉久。
 僕は昨晩の怪異遭遇事件のときよりも青ざめた顔で叫び声をあげた。放課後の教室──どころか学年全室にまで響き渡るような、それは絶叫だった。
「レポートをどこかに落としてきた!」
 考えられる場所は一箇所しかない。家を出る前には鞄のなかに仕舞ってあるのを確認しているのだから間違いない。
 風連寺の寺院墓地だ。
 僕としたことが、塩を取り出す際に鞄を閉め忘れたのだろう……必死の逃走だったとは言え、迂闊にもほどがある。
「じゃあまた行かなきゃだねえ。時間が出現の条件かもしれないんだったら、危ない目に遭うまえに今日は早めに行って帰ってきちゃったほうがいいんじゃない?」
 まだ午後四時──いくら日が落ちるのが早い冬とは言え、夕方の範疇を超えてはいない。僕は莉久の言葉にうんと頷き、急ぎ足で家に帰ることにした。
 そこで問題は発生した。
 自転車を取りに家へ帰るとすぐ、夜勤明けから寝て起きたばかりであろう親父に引き止められてしまったのだ。親父はとにかく話が長い。それが高圧的で配慮に欠ける話であったならば、あるいは僕にも突き返す余地があるのだけれど、そういう訳でもなく、ただただ良い父で、ただただ長いのだ。
 普段ならば楽しく──と言うか、まあ、楽しく会話をするのだが、今はそれどころではないので何とか早く話を切り上げようとしたのだけれど、結局、親父との雑談が終わったのは夕方五時過ぎだった。その際に、念のためではあるが祖父母の仏壇にあった青い線香を数本拝借することにした(昨日は持っていくのを忘れていた)。有効かどうかは定かではないが、"香切り"のためだ。
 僕は家を飛び出し、自転車に跨るとすぐにペダルを回し始めた。真冬の五時はやはり十分暗かった。辺りには夜の空気が漂い始めていて、僕は肩を落とし溜息を吐いた。
 昨夜の映像が目の裏に浮かぶ。
 頭をぶんぶんと振り、僕は風連寺までの道を再び自転車で駆けた。幸い、昨夜のような気味悪い雰囲気や、絡み付くような悪寒、感覚はない。あるのは少し早い夜だけだ。
 ややあって、僕は件の児童公園に到着した。
 ここに怪異レポートが落ちていてくれれば願ったり叶ったりだったのだけれど、なかなかそう上手くは行かない。
 時間もないので再度自転車に跨り、僕は風連寺を目指すことにした。今日はレポートを見つければ帰れるので、公園に自転車を置いていく必要はないだろうという判断だった。
 寺院墓地の間に通る道へ辿り着き、なるべく首家の前にある大きな墓石のほうを見ないようレポートを探す。
「あった!」
 幸運にも、怪異レポートは道の端──排水溝の付近に落ちていてくれた。やはり僕の推測通り、走った際に鞄から飛び出てしまったのだろう。
 僕の三年間──中学校生活の中でおこなってきた怪異研究部としての活動が仔細に記録されている大切なレポート。
 パラパラとページを捲り、破損や汚れがないことを確認してから僕はレポートを鞄に仕舞い込み、「閉めた」と声出し確認をしながら鞄の留め金具をカチッと嵌めた。
 そのとき──。
 見ないよう注意していた大きな墓石ではなく、その少し手前にある小さな墓石──目を背けていた先の墓石の陰から、"ナニカ"がこちらをジイッと覗き込んでいるのを、あろうことか、また横目で視認してしまった。
 そのうえ、人間の反射とは不思議なもので、不可解なものや不自然なものが目の端に入れば否応なくそちらに目を向けてしまうものなのだろう。僕は反射的に"ソレ"のほうへ顔をバッと向けてしまった。
「…………」
 昨晩とは打って変わって──と、これはそう言うべきだろう。"ソレ"は昨日のような激烈なピストン運動をすることなく、ただただジイッとこちらを見つめ、ニタアッと口の端を釣り上げていた。暗いとは言えどまだ六時にもなっていない夕刻の時分だ、昨日の遭遇時よりもハッキリと、あの女の顔が見える。
「………………」
 一度あったことに二度驚くのは三流のすることだと誰かが言っていたような気がするけれど、僕は自分が思っていたよりもずっと冷静に女の顔を見れていた。
「……………………」
 すると、女はヒュッと墓石の裏に顔を隠し、それっきり出てこなくなった。
「人間、だったよな……?」  

 ■■■  

 果たして、それは人間の女性だった。
 レポートにまとめる情報収集──としては、なかなかつまらないものになってしまいそうだったけれど、それでも、風連寺の首家にまつわる怪異情報を総括するためには事情を聴取せねばならなかった。
 僕は震える足で墓地の敷地に入り、女性のいる墓石付近まで近寄っていく。
 すると、やはりそこには人間の女性──怪異でもなんでもない、ただの人間の女性が隠れていて、それは怪異研究部部長にとっては酷く拍子抜けするような事実でありながらも、紛れもない事実で、僕は胸を撫で下ろすと同時に肩を落とすことになった。
「こ、こんなところで何をしているんですか? 危ないですよ、女性がこんな、こんな暗い場所で──」
「…………」
 化粧っ気のない、長い黒髪の女性。見たところ大学生くらいだろうか、ジーンズに、着膨れしたダウンジャケット。
「あの、すみません──」
「何してると思う?」
 僕の言葉を遮るように、威圧的な響きのある低い声で彼女は初めての言葉を発した。
「わ、わかりませんけれどその、貴女がこの街……と言うか、僕の学校で噂になっているんです。怕美中学という学校なんですけれど、曰く『風連寺には女の幽霊が出る』と。だからその、僕はそれを調査していて……」
 敵意や害意がない証明として、僕はそんな説明を交えながら彼女に問いかける。
「だからその、少しお話をお伺い出来ればな……と」
 言ったところで、彼女は僕の胸元を強引にグイッと引っ張り「静かにして!」と墓石の裏に連れ込んだ。
 足音。
 寺の住職が見回りに来たのだろうかと考えたけれど、しかし、それはどうやら違うようだった。僕を墓石の裏に連れ込んだその女性は、その場でニヤアッとした表情を作り墓石の陰からそおっと顔を覗かせる。なにか、誰かを見ているのだ。僕もそれに倣い、こっそりと顔を覗かせると、坊主は坊主でも坊主頭の、何やらパンクなファッションをした背の高い二十代後半くらいの女性が、僕の自転車が置いてある場所に向かってザッ、ザッ、と歩いてきていた。
「おい」
 坊主頭の女性が声を発した。口調こそ乱暴ではあるけれど、そこには怒りのようなものは感じられない。
「おい、華乃子ちゃん。アタシはアンタのそういう行為を咎めるつもりは一切ないっつったけど、観客増やされんのは困るんだよ。こちとら見世物やってるわけじゃあないんだ。どういうつもりかは知らないけれど、もう一人の子は別にアタシのファンってわけでもないんだろう?」
 出てきなよ──と、坊主頭の女性は僕を呼びつけた。僕はわけもわからないままにおずおずと墓石の裏から身体を出し、彼女の元へと向かう。
「へえ、怕美中の学生か。不良だなあ、こんな時間に墓で女と逢瀬なんて。まあ何にしてもやめてくれよな、その手の"客"は華乃子ちゃんひとりで十分だ」
「その、ちょっと状況が飲み込めていないのですが、どういうことなんでしょうか……? 僕はついさっきここに落し物を取りに来て、その華乃子さん、でしたっけ? にあそこへ連れ込まれただけなんです。えっと──」
「凛だよ。神木凛さん。凛ちゃんでいいよ」
 僕が彼女の名前を訊くべきか否か迷っていると、彼女はまるで心が読めるのだろうかと思えるような速さで自らの名を名乗った。
「なるほどねえ、そういうことならまあいっか。お前、良い形してるし。オッケー! 助けてやるから、お姉さんの家に来なさい! 少年、このチャリ、少年のだろ?」
 華乃子ちゃんは早く帰りな、親が心配するぜ──と、神木凛さんは華乃子さんを気にかけているのかいないのかという素振りで、僕の許可を得ることもなく僕の自転車に跨った。
 背後から、華乃子と呼ばれる女性の唸り声──のようなものが聴こえたけれど、僕はそれどころではなかった。
「ちょっと、神木さん!」
 悠々と僕の自転車を漕いでいく彼女のあとを、僕は戸惑いながら追っていく。高身長でスタイルのいい女性がシティサイクルに乗っている姿というのは物珍しい気もするが、それが妙に様になっている。
「ちょっとまだ細かな事情が掴めてるわけじゃあないんでね、とりあえず華乃子ちゃんから離れさせてもらった。あんまりコミュニケーションの取れるタイプの娘じゃねえからなあ」
 などと言いつつ、神木さんは自転車を停めた。
 風連寺の寺院墓地──つまりは僕がいたあの場所から数十メートルほど離れたボロアパートのまえに、彼女は自転車を停めた。
 首家のまえに、停めた。
 近くで見ると、より生々しい。
「ちょっと色々とゴロゴロしてっけど、上がってけよ。茶くらいなら出してやるからさ」
「え、あの……神木さん」
「凛ちゃんだって言ってんだろ。少年、お前アレだぜ、大人の言うことってのはちゃんと聞いとくもんだぜ」
 睨みを効かされた。
「……凛ちゃん」
「おー、すげーな少年! 年上の女をちゃん付けで呼べるとはなあ! へえ、随分と遊んでんだ最近の若いやつってのは。羨ましい限りだねえ全くさあ」
「…………」
「冗談だよ冗談。で、なに? 女の家に上がるのは嫌だってか? まあ思春期はそうだよなあ。ドキドキしちゃってる感じか? ん?」
 見た目通りと言うかなんと言うか、少し僕とはかけ離れた世界で生きているタイプの人間だと素直に思った。一方的にズイズイと距離を詰めてくる感じ──莉久なんかとは気が合いそうなお姉さんだ。まあ苦手ではないけれど、さりとて、得意でもないタイプ。まあ、嫌味がないよう声のトーンを意図的に調整しているところを見ると、意外と心根は優しい人なのかもしれないけれど……。
「なんだよ、冗談だってば」
「いえ、あの凛ちゃん……さん。もしかしてなんですけれど、凛ちゃんさんの家ってこの──」
 首家なんですか? と、僕は彼女に尋ねようとしたのだけれど、その質問の仕方は流石に失礼だと即座に思い直し、言葉を変えた。
「この角部屋だったりしますか?」
「そうだけど、なんでわかったんだ? あ、お前もしかして本当は本当にアタシのファンだったりする? だとすりゃ面倒なもん拾っちまったなー。アタシ、ファンは喰いたくねえタイプの女だからなー。なんつって」
 答えつつ冗談のように言う凛さん。
 やはりこの人が、神木凛さんが、首家の主だった。あの不気味な、不可解な、不自然な窓辺を作った張本人。風連寺関連の噂を激化させた原因を作り出した人物──。
「しかしまったく──」
 凛さんは玄関の前に辿り着き、鍵を探るっているのだろう。黒いレザーパンツのポケットをごそごそとまさぐりながら忙しなく言う。
「アイツも物好きっつーか、懲りねえっつーか。ほら、居ただろ、さっきの"ジェーディー"。須藤華乃子ちゃんっつーんだけどさ、あの子はアタシのいわゆるファンなんだよ。……ファンっつーか、まあ世間で言うところのストーカーってやつなんだけどな」
「ストーカーって……」
「アタシはその言いかたが気に入ってねーからファンって言ってるんだけどな。いや、前はアタシ東京に住んでてさ、一年前くらいにこっちに引っ越してきたんだよ」
「知っています」
「なんで知ってんだよ。お前マジで冗談じゃなく華乃子ちゃんと同じ種類の人間か?」
 迂闊にも変な相槌を打ってしまった僕に向けてキッときつい視線を送る凛さん。坊主頭が様になるほど凛々しい、端整な顔立ちの女性なので、凄むと凄みが凄い。
「いえ、あの……学内で噂になっていたので、それで知っていただけなんです。あの、そこの出窓が──」
「ああ、なるほど。やっぱ噂になっちゃってるんだ、あそこの窓。いい加減置き場所を考えねーとなあ。んで、その一年前にちょっと仕事で関わってな──ま、入りなよ」
 言って、凛さんは玄関の扉を開けた。
 言われるがままに彼女の家に着いてきてしまったけれど、果たして良かったのだろうか。見たところ悪い人ではなさそうだけれど、しかし、そうでなくても初対面の人の家に、それも女性の家に上がるというのは常識的に考えてアリなのだろうか……。しかし、置き場所を考えなければとは一体どういうことなのだろう……などと、そんなことを頭で考えながら、僕は開け放たれた扉の中をチラリと覗き見る。
「えっ──」
 僕は思わず声を上げてしまった。
 玄関を開けてすぐの廊下──そして、その先に見えるリビングらしき部屋のなかに無造作に積まれた無数の頭部。
 マネキンの、頭部──。
「凛さん、これって……」
「ああ、だからゴロゴロしてるって言ったじゃん」
「い、言いましたけれど、でもこんな量……これ、なんなんですか。り、凛さん、貴女は何なんですか……何者なんですか……」
 もはや戦慄を隠そうとも思わなかった。
 動揺を隠そうとも思えなかった。
 そんな僕を振り返りつつ、凛さんはキョトンとした顔で答える。僕の問いに、町中の戦慄に、答える。
「んん? ああ、アタシ美容師だから」  

 ■■■  

「首家? 猟奇殺人犯? 精神異常者? おいおい、それは噂にしても酷すぎるだろ。アタシは人を生かすための職業──いや、活かすための職業に就いてるんだぜ。まあ、ぶっちゃけ今は休業中なんだけど。
 ああ、そうそう。少年の言う通り、東京で働いてたんだよ。美容の専門学校卒業してさ、それなりに名前のある美容サロンで働いてた。正味三年くらいかな。でも、そこのレベルの低さに失望しちまったんだよなー。
 いや、レベルが低いって言っちまうとそこの店の人らに失礼かな。美容師としての腕は確かな連中だったよ。アタシが失望したのは、モチベーションと言うか、メンタルの部分でな。なんか流行りの髪型だとか、有名人のあの子の髪型だとか奇抜な色だとか、色々言ってワーワーやってたけれど、それって本当にそいつに似合う髪型なのか? って疑問がどうしても拭いされなかったわけ。
 もちろん、客が望む髪型や髪色、スタイルっつーもんを作ってやるのが美容師がすべき最重要の仕事であることは理解していたさ。要望を突っぱねてまで"そいつに似合う髪型"に仕上げるっつーのは、美容師側のエゴでしかない。でも、アタシはもっと客に──人間に向き合いたかったんだよ。自分に似合う髪型がわからないと言い、ヘアカタログに載ってる適当なスタイルを選んじまうようなやつらに『お前にはこれが一番似合うんだぜ』って髪型を作ってやりたかった。
 だから店をやめた。
 サロンに居てもアタシがしたいことは出来ないし、アタシが欲する腕ってやつも上がっていかない。だから、東京からこっちに帰ってきて、ひとりで技を磨きながら個人でやっていこうと思ってな。
 でもまあ、そんなの中々上手くいかないわな。法的なもんをクリアしていても、こういう商売ってのは客がいなきゃ話にならないし、結局は評判が全てだ。まあ、いわゆる"噂"ってやつだな。……ったく、それが殺人鬼だとか異常者って噂されちまってるんだもんな。商売あがったりだぜ本当に。
 まあ、だからこのマネキンたちはその練習台なんだよ。テレビとかで見たことあんだろ? 美容師がマネキン相手に髪の毛切る練習してるの。アレだよ。
 人の顔の形って本当に三者三様、千者千様でさ。大まかに言えば丸顔とか面長とか云々ってあるけれど、同じ顔の形してるやつなんて一人も居ねーんだよ。だからアタシは様々な形の、様々な骨格のマネキンを集めて、"その骨格に似合う究極の髪型"ってもんを研究してたってわけ。
 あまりにも数が増えすぎたから仕方なく窓辺とかに押しやってたんだけど、知らん人から見たら何事だって話だよな、確かに。
 ん? 華乃子ちゃんのことが気になるのか? まあアイツ顔は可愛いからな。
 だから、華乃子ちゃんはアタシの客だよ。こっちに来てから何人目かなあ、モデルになってもらったんだ。ナンパしてな。なんかこう、勿体ねえなあって思ったんだよ。
 で、その時にいま少年に話してるみてーなことをアイツにも話したんだよ。事情説明ってやつだな。それで、切らせてもらった。そしたらなんか知らねーけど、華乃子ちゃんアタシに惚れちまったみたいでさ。そっからはもうほぼ毎日あれだ。
 厄介だよなあ、恋心って。
 え? 迷惑?
 いや、別にアタシは華乃子ちゃんに迷惑なんてかけられてねーよ。何かしてくるようなら一回ぶっ飛ばしてやらなきゃならねえけれども、アイツは何もしてこないしな。
 ただあそこで──風連寺の墓のなかで隠れてアタシの帰りを待ってるだけ。たまに差し入れとか置いてあるけどな。それに関しちゃ迷惑どころかありがたい話だよ。アタシ金ねーしな、大人なのに。
 もちろん、ストーカー行為自体を肯定しているわけじゃあないさ。普通に犯罪だし。他のやつがストーカー被害に遭っているのを蹴散らしたことだってあったよ。柔道黒帯なんだぜこれでも。でも、アタシには華乃子ちゃんの気持ちを否定することは出来なかったってわけ。ウケるよな。
 何かを好きになって、それを見ていたい、触れたい、近付きたい、役に立ちたい──他人にどう思われようが、どう見られようが、何を言われようが、狂ったように、それこそ、取り憑かれたようにそれを追いかけ続けちまう気持ちが、アタシには痛いほど、苦しいほどわかっちまうんだ。
 好きって気持ちは止まらねえ。
 止めたくても止まらねえんだよ。
 要するにアタシも華乃子ちゃんと同じなんだ。馬鹿みたいに髪の毛切り続けて、やりすぎて身体壊したこともあった。けれどもやめられなかった。自分を止められなかった。むかしアタシの髪を切ってくれたカリスマ美容師に憧れて、その人が死んじまった今でもこうして追いかけ続けてる。
 華乃子ちゃんはアタシなんだよ。
 だから、アタシのことくらい追いかけさせてやろうって──そう思ったんだよ。まあ、こんな風に言っちまうと、なんだか超絶ナルシストっぽくて嫌なんだけどな。ちなみに追いかけられても追いつかれる気は更々ない。
 ああ、あのひょこひょこスタイルについては気持ち悪いってアタシも思うよ。あと笑いかたも。なんか目が悪いらしくてな、遠目からだとアタシかどうか判別出来ないらしくてさ、ニヤニヤしながら見てたら別のやつだったってこともあるらしい。
 少年、お前もそうだったんじゃねえの?
 やっぱりな。
 まあ、そういうわけだよ。
 で? お前をここに連れてきた理由が知りたいんだろ? まあ、ここまで話せばなんとなーく察しはついてると思うけれど、モデルになって欲しいんだよ。
 いや、いたいけな中学生を華乃子ちゃんの狂気から救うためってのもあったけれど、そんなことより珍しい顔の形してるからな、お前。小さくて、細くて、顎なんかも引き締まってる。顔のバランス的なもん考えたらデコがちっとばかし広めだけれど、なんのことはない。そういうのは思い切って出しちまって良いんだ。隠すから余計に広く見える。髪の毛の隙間に見えるデコってすげえ広く見えるんだぜ? だから、そのお茶菓子喰い終わったらさ」
 凛さんは言った。
 長い話を終えて僕が唖然とする中。
 爛々と目を輝かせながら。
 取り憑かれたように。
 言った──。
「アタシに髪の毛、切らせてよ」  

 ■■■  

 結局──風連寺の噂も、首家の噂も、どちらも人間の仕業と言うか、本当にただの噂に過ぎない、勘違いのようなものだったらしい。
 安堵と落胆の感情が同時に押し寄せる。
 僕の怕美中学での学生生活──怪異研究部の部活動はいとも容易く、呆気なく、人知れず、終わりを告げた。
 まあ、現実なんてそんなものだろうと思う反面、ここまで奔走してきた割に何もなかった学校生活だったな、割に合わないな──と諦めきれない気持ちもやはり存在していて、まるで心が深い濃霧の中にひとり彷徨っているような、そんな釈然としない、煮え切らない気分に襲われながらも、僕は彼女の話を聞き終えた。
「おっ、食べ終わったな。めんどくせーかもしれないけれど一回髪の毛洗ってきてくれるか? その間にアタシは用意しておくからさ。そこの洗面所、蛇口伸びるから。シャンプーは風呂の中にあるの適当に使ってくれて構わないから」
 凛さんに言われ、僕は洗面所へと向かい髪を洗った。流石にお店とは違うので、凛さんが洗ってくれるということはないらしい。
「そこ、下着とかも干してあるんだから、あんまりジロジロ見んなよー。気持ちはわかるけど、女が普段使いしてる下着なんてそんなにいいもんじゃあねえからなー」
 これはセクハラだと言っても良いのではないだろうか? 僕がその気になって訴えれば、青少年保護育成条例に引っ掛かり自治体が動くのではないか──などとつまらないことを考えながら凛さんの元へと戻る。
「はっ。辛気臭いツラしてんなあ少年。思春期らしい悩みでもあるのか? 美容師ってのは話が上手くないと出来ない商売なんだ。髪切るついでに話聞いてやるから、ここ座りな」
 どこに売っているんだと思えるほど古いパイプ椅子をバシバシと叩き、散髪用のケープをバサッと広げる凛さんの顔は、先程までの『いかつい綺麗なお姉さん』ではなく、プロの、職業人のそれへと変貌していた。
 僕は思わず息を飲み、彼女が仕事にかける情熱に、その熱さに震えた。
「アタシばっかり喋っててもコミュニケーションにはならねえからなあ……次は少年、お前の話を聞かせてくれよ。カウンセリングタイムだ」
「僕の話って言われましても──」
 僕は椅子に腰をかけ、溜息と気付かれぬよう、細く長く息を吐いた。
「とりあえず髪の毛乾かすから、静かにしてろ」
 横暴すぎる。
 ドライヤーのスイッチが入り、轟音と共に気持ちの良い暖かい風が首元に吹き始めた。凛さんの細い指が僕の頭を撫でる。
「とりあえず、名前からだな」
 耳元で鳴る轟音に紛れて凛さんの凛々しい声が聞こえ、僕は慌てて「す、すみません、岡山です」と名乗った。そう言えば、名乗るタイミングを逃したまま忘れていた。
「下は?」
「隆人です」
「へえ、いい名前じゃねえか。高い人って感じ? まあアタシは人の名前覚えるの苦手だからどうでもいいんだけどな」
「…………」
 凛さんは自身を会話上手と言っていたけれど、この人、誰にでもこんな暴力的な会話をする人なのだろうか。だとしたら会話が上手とは言えないのではないだろうか……。
「で、少年。お前がそんな辛気臭いツラしてる理由は結局何なんだよ」
 パチン、とドライヤーの電源を切り、凛さんはおもむろに問い掛けてきた。脈絡がないと言うより、とにかく押せ押せのトークを持ちかけてくる人だ。
「いえ、別に大したことではないんです──」
「大したことを聞きたいとは、アタシは言ってないよ。まあいいや、とりあえず始めるぜ」
 お前に一番似合う髪型にしてやるよ──と、そう言って凛さんがハサミと剃刀を取り出したその瞬間、僕は莉久が言っていた話を思い出した。
 路上に落ちていたハサミ──。
 なるほど。やっと得心が行った。
 僕が怪異レポートを落としたように、凛さんも商売道具であるハサミを落としてしまったということだったのだろう。いや、細かいことを言えば『そんなもの落とすか?』という話なのだけれど、それで全ての辻褄が合うのだから、きっとそういうことなのだろう。もしかしたら、彼女が自らの手で投げ捨てたものかもしれない。ここまで努力を、鍛錬を重ねている人だ。時には挫折を経験することもあるだろう。
 記憶の一致による僕の感動など知りもせず、凛さんは髪の毛を切り始めた。仕上がりは全て彼女に委ねているので、最終的にどんな形になるのかは全く判らないのだけれど、どうやらバッサリと行くようだ。まあ、この部屋を──首だらけのこの部屋を見る限り、彼女の腕は確かなものなのだろうという確信があるおかげか不思議と不安はない。
 髪に剃刀の刃が触れる感触が心地良い。
「……僕、怕美中で怪異研究部っていう部活をやっていたんです。厳密には部活動ではないんですけれど、まあ、もどきみたいなものをやっていたんです」
 凛さんに改めて促されることもなく、僕は話し始めた。適当な話をして別の話題を振ることも出来なくはなかっただろうけれど、何故だろう。髪を梳かれる心地良さからだろうか──それとも、背後に立つ彼女の無言の圧力に押されてだろうか。
 わからなかった。
 けれど、僕は語った。
 語らずにはいられなかった。
 後腐れのない人間関係だからこそ──相手は商売、こちらは客という関係だからこそ、美容師にはなんでも話せてしまうという話は、どうやら本当のようだ。
 僕は、僕の中学での生活を、怪異研究部での活動を──雑木林の穴蔵の話を、さっちゃん池の話を、商店街の悪魔の話を、地蔵トンネル失踪事件の話を、そして、風連寺の首家の話を。凛さんに話した。
 こと細かに、なるべく懇切丁寧に。
 すると。
「へえ、怪異研究部ねえ。面白いことしてたんだなあ、お前。いいじゃん、アタシは好きだぜ、そういう馬鹿みてーな若さ」
 と、彼女は言った。それが、僕の気持ちを斟酌して出た優しい言葉でないことはすぐにわかった。なぜなら、背後を振り向いた僕の目に映った凛さんの瞳が、キラキラと揺れていたから──。
「まあでも、学校に認められないのは仕方ないわな。学校だって言ってしまえば客商売だ。親御さんらに不審がられるような部活動は認可出来ないだろうさ。見たことないだろ? 散髪部なんて」
「ええ、まあそうですよね。いえ、僕だってわかってはいるんです。わかってはいるんですけどね。でも、何も結果らしい結果は残せなかった。僕はこの目で怪異を目撃することが出来なかったんです。結局、怪異研究部の部活動は」
「『無駄なことだった』ってか?」
「…………」
「少年、お前あれだな。頭良さそうなツラして色々考えてるフリしてるくせにスゲー馬鹿なのな」
 あからさまに俯く僕の髪の毛を優しく撫でるように切りながら、彼女は続ける。
「お前さては結果が全てって思ってるタチだな? いいか、あれは途中で諦めたやつの言い訳だ。結果まで辿り着けなかったやつらの負け惜しみ。挫折したまま立ち上がれなくなったやつらの捨て台詞だ。結果なんてのは死ぬまでわかんねーんだよ。極論かもしれないけれども、これは実際にそうなんだよ。特にお前がやってきた活動みたいなもんはそうだ。誰が評価してくれるわけでもない。褒められるわけでもないものは特にそうなんだよ。結果なんて最後までわかんねえ」
 話が進むごとに、僕の頭でパチパチと動くハサミの速度が上がっていく。まるで口とハサミが連動しているように。
「お前が怪異研究部の設立を成し遂げられなかったのは残念かもしれねーけど、それでお前の"好き"が終わるわけじゃねえんだろ? 色んなところ駆け回ったんだよな、春夏秋冬。それこそ、何かに取り憑かれたようにさ。だったらこれからもそれを続ければいいだろうが。違うか? 学校に認められなかったから何だよ。人に褒められなかったから何だよ。誰かに認められなきゃ価値を見い出せないようなつまらないもんを追っかけて、お前はそんな馬鹿みたいなことやってたのか? 違うだろ、たぶん」
「…………」
「要するに、お前はアタシとか──アタシから言わせれば華乃子ちゃんもそうだけど、そういう『好き』を止められないやつらと全く同じなんだよ。だからアタシはお前の、隆人の部活を認めるぜ。怪異研究部、いいじゃねえか。同級のつまんねーやつらに白い目で見られても気にすんな。全然暗い学校生活なんかじゃあねえじゃん。友達が居ないことなんて気にすんな。噂が出るたび街を奔走して、失敗して、怒られて、それでも好きで、なのに認めてもらえなくて、悔しくて、やけくそになってまた走って、それでも失敗してって。なあ少年、知ってるか? そういう若気の至りを、無茶を、無鉄砲を、アタシたちみたいな大人は──」
 凛さんは僕の前髪を──最後に残った一本の長い前髪をパチンッと勢いよく切り、ケープを大胆に取り外した。マネキンの頭部だらけの部屋に、僕の細かい髪の毛が舞い上がり、重力に逆らうことなくサラサラと落ちていく。霧が晴れるように、視界から黒が消えていき、彼女は散髪終了の合図を告げた。
「青春って言うんだぜ──」  

 ■■■  

 随分と短くなった髪の毛に少しばかりの照れを感じつつ、僕は凛さんの部屋の掃除を終わらせた。無料で切ってやった上に相談まで乗ってやったんだから片付けくらいして行けとのことで、僕は僕の髪の毛をちりとりに集め、それをひとつまみしてみた。
「なんだよ、名残惜しそうな顔しやがって。埋葬でもしようってのか? まあ、それもありかもな。土に埋めて線香でも立ててやりゃ、お前の中学時代の青春も天高く登れるだろうよ」
 ハッハッハ、と揶揄うように笑う凛さんに「それ、いいですね。丁度いま線香持ってるんです」と言うと、彼女は怪訝な顔をして僕の顔を見つめた。
「いえ、その、風連寺に来るからって持ってきていたんです。どうやらそういうのの対策にもなるとかならないとかで。結局使わなかったので、どうしようと思っていたところなんですよ」
 言うと、凛さんはわかったようなわからないような顔をして「行く?」と親指を立てながら顎をしゃくった。
 僕は凛さんに着いてきてもらい、風連寺の寺院墓地のすぐ横にある畑の角──ギリギリ敷地外であろう場所に自分の髪の毛を埋葬し、線香を立てた。ライターは持ってくるのを忘れていたので、凛さんに貸してもらった。
「なんらかの儀式みてえだな……これ」
「いいじゃないですか。怪異研究部"らしい"と言えばらしいでしょう」
「まあ、少年がそれでいいならアタシは別に言うことはないんだけれど……切ってやったやつの髪の毛に掌を合わせんのはこれが最初で最後になるだろうな」
 僕はハハッと笑い、彼女にお礼の言葉を告げた。
 完全にとは言えないけれど、身も心も、スッキリさせてもらったような気がする。冷たい風が、少し頭皮に染みる。
 ふたりで自転車置き場へと向かいながら僕は「そう言えば凛さん。あの窓辺──出窓の首なんですけれど、あれってどうして外を向いているんですか?」と、ずっと疑問に思っていたことを口にした。凛さんは「少年、お前、自分がアタシの立場だったら、自分が寝てる方向にマネキンの顔向けとくか?」と端的に答えた。単純に、気味が悪いから──とのことだった。
 僕が愛車に跨り改めてお礼を言うと、凛さんは「そのうちこの辺で店やるだろうからさ。まあ店じゃなくともアタシの噂聞きつけて思い出したら、また来なよ。そんときのお前に一番似合う髪型に、また切ってやるから」と微笑み、僕を見送ってくれた。
 そうして、僕の青春の一ページは今度こそ静かに幕を閉じた。何も成し遂げられず、何も残せず、さりとて、何の意味もなかったわけでもない、暗くて深い、青春の一ページ。
 さあ、次のページでは何を語ろう。
 誰と出会い、何を話し、何をしよう。
 出来ればそれが、不思議な、胸踊る怪異のような存在だったら、これ以上のことはないのだけれど──。  

 ■■■  

 あれから三年の時が経った。
 僕は風連寺騒動のあとすぐ、めでたく無事に怕美中学を卒業し、近くの県立高校に入学することになった。やはりと言うかなんと言うか、最後まで怪異研究部を学校公認の部活動にするという目標は達成出来ないままだったのだけれど、まあ、高校でもその活動は続けられたので良しとすることにした。
 そう。
 高校生活三年間も、僕は走り続けた。
 怪異を求め、あちこちを駆け巡った。
 まあ、それはまた別の話──。
 ……しかし、これは僕にしても以外だったのだけれど、僕がこっそりと学校に──図書室の本の裏に遺した研究日誌、通称怪異レポートは、後日怕美中の生徒に偶然発見され、なにやら『学校の怪談』的な"噂"として広まっているらしいとのことだった。
 これも、奇しくも同じ高校に進学した幼なじみ、北条莉久から聞いた話なのだけれど、曰く「怕美中にはむかし、怪異研究部なる部活動があり、その部長の怨霊が今もなお校内に彷徨っていて、成仏出来る日を待っている」という噂なのだそうだ……。
 日付を書かなかったのも要因の一つなのだろうけれど、まさか怪異研究部やその部長である僕自身が、僕の求める"怪異情報そのもの"になろうとは思いもしなかった。
 そんな面黒い噂を耳にしてノスタルジーに駆られた僕は、再び風連寺の寺院墓地を訪れた。夕方の五時過ぎ。これと言った理由はなかったけれど、なんとなく、思い出の地巡り──というやつだった。
 凛さんの家、首家の首家たる所以でもある出窓には、もう首はなかった。反省したのだろう。
 それでも、彼女がまだあの家に住んでいるのはすぐにわかった。呼び鈴を押すまでもなかった。なぜなら、須藤華乃子さん──あの怪異騒動の現況である彼女が、また墓石の裏からこちらを見つめていたからだ。まだ彼女は、凛さんへの感情を捨てきれないらしい。
「華乃子さん、ですよね。お久しぶりです。僕のこと覚えていますか?」
 僕がそう言うと、彼女はこくりと頷きながら如何にも恨めしそうな顔で「忘れるわけないでしょ、私を差し置いて凛様に切ってもらった君のことを。日付までハッキリと、こと細かに覚えているわよ」と毒づいた。
 苦みに愛想を含めたような笑いを僕は漏らし「ですよね」と言いつつ、彼女にあの時訊けなかったことを尋ねた。
「華乃子さん、あの日の前日もあの大きな墓石の裏に居たじゃあないですか。僕も動転していたので見間違いかもしれないんですけれど、あの尋常じゃない動きって一体どうやってやっていたんですか?」
 言うと、彼女は不思議そうな顔で僕の顔を見て、少し考えるようにしてからこう答えた。
「あの日の前日、私ここに来てないよ」
「えっ」
「来てない。来れなかった。親に止められて」
 にわかには信じられなかった。
 凛さんと出会ったあの日の前日、華乃子さんは寺院墓地に来ていなかっただって? そんな話は信じられない。当然だ。ならば、あのとき僕が見た高速で動くおぞましい顔の女は一体なんだったと言うのだ。僕は再度彼女に記憶の最確認をし、答えを待つ。
「やっぱり来てない。忘れるわけないんだって。前の日に来れなかったから凛様を君に取られたんだって思ったんだから。来てない。来てないよ。」
 華乃子さんの証言が変わることはなかった。
 そう言えば、あのとき、あの晩、あんなにも暗かったのに僕はどうして"アレ"の顔があんなにハッキリ見えたんだ。どうして僕は、あれほど取り乱したんだ。それは"アレ"を見た瞬間に生命の危機を感じたからではなかったのか。
 それに、忘れていることがあるだろう。
 一件目の目撃談──そうだ。華乃子さんが怪異の正体であったとするならば、時系列が合わなくなるじゃあないか。だって彼女は、凛さんがここに引っ越してきてから、ストーキングを始めたのだから。彼女の噂が、そんなに前から流れているはずがないのだ。
 じゃあ……あの日僕が見た光景は。
 あの日見た異様な女の姿は。
 紛れもなく。
 紛れもない──。  

               END.

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