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赤ひげ先生20

月初めの夜勤ではレセプトチェックもやった。 夜中にシンと静まり返った事務室で、二階に寝ている患者さんの物音に聞き耳をたてながらカチャカチャとパソコンに向かう。 
事務専門に勤めている人からすれば信じられないと言われるだろうが、医師法に抵触しない範囲であれば赤ひげ病院は私がやりたいと思えば色々なことをやらせてもらえた。
今思えば若かったあのころが懐かしい。

今までレセプトでしか知らなかった医療の現場に立ち会うことができたあの8年間は、私の人生の財産だ。 だからこそ、今でも鮮明にあの頃のことを思い出すことができる。

私は肺癌だった伯母が自宅で家族に見守られて亡くなるその最後の一息までを見届けてエンゼルケアをして明け方お医者様を迎えた。
2年前には認知症で子供のようになった母が、痩せさらばえて最後の息を引き取るのを妹と看取ることもできた。
母と叔母、二人の姉妹は人の何倍もの人生を生き抜いて、その言葉の通り最後に息を引きとって(吸って)人生を終えた。
死はその人が生きた証なのだ。
だから私も、やがてくる死に向かって今を生きていきたいと思っている。

死ぬことと生きることはおんなじだ。
死を知ることで、生きることのかけがえのなさが本当にわかる。

最近赤ひげ先生もお年を召して少し丸くなったようで、若い男性の看護士さん、ずっと勤めているベテランの看護婦さん、夜勤専門の看護婦さんもいて看護スタッフは潤沢に回っている。
もちろんあの補助看さんもバリバリ働いている。
そうして地域の灯台のように、70歳半ばを過ぎた今も赤ひげ先生は診療を続けている。
難病や特別な救急を除いて日本の医療の大半は、こうした地域医療によって支えられている。
私も地域の先生に支えてもらいながら、自分自身の体を管理する主体者であり続けたいと思っている。


思い出のページをめくるように、次つぎとうかぶ記憶を綴ってきたが、この話しは全て本当にあったということをもう一度書き記して、長い間読んでくださった方に感謝をして終わりにしたい。
有難うございました。


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