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【木工】価値あるモノとは

 その水屋箪笥と初めて対面したのは、もう10年ひと昔前のことである。
 私の住んでいる町は歴史のある町で観光地にもなっており、そういう土地柄か古道具屋が多い。地元といっても、ご多分に漏れず近すぎて意外と知らないことは多く、その日も妻と何を買うわけでもなしに観光地見物をし、中心部に近い古道具屋へ入った。
 古道具屋というのはどこも同じく、古民家の薄暗い空間にモノがあふれ返っており、まるで江戸時代版×ン×ホ×テのようである。いつものようにまず私は大工道具を一通り確認するのが常だ。この町は家具などの木工業も盛んなため、掘り出しものの大工道具が見つかることもあり、そういう意味でも古道具屋巡りはなかなか楽しいものなのだ。ただ、刃物関係はサビが深く使いものにならないことが殆どで、これはと思って手に取ると、がっかりさせられることが多い。これは鋼の宿命なのだが、一部の特殊な例を除いて過去の大工道具を知る上で大きな障壁になっている。「鬼滅の刃」で、からくり人形からサビだらけの刀が出てきて、三日三晩命を懸けて研ぎあげるシーンがあったが、現実問題そういうものは研いだとしても錆が奥まで入り込んでおり、元の性能を発揮することは不可能であろう。特に大工道具は美術品ではないので、大事に保管され後世に残ることなど稀なのだ。
 一通り見終わると、一段上がった座敷の奥に押し込まれている水屋箪笥を見つけた。
 他の箪笥やら長持やらが前に立ちはだかっていて全貌がよく分からないのだが、部分的に普通の水屋箪笥とは造りが違うので、おやと立ち止まったことをよく覚えている。
 
 それから数年後、私たちは近場で引っ越しをすることになり、食器棚を新調することにした。
 私は無垢材で家具を作る仕事をしているので、職業柄やっぱりハリボテの家具は敬遠したい。さりとて無垢の食器棚を新たに誂えるとなると、残念ながらそんな甲斐性はない。そんなの自分で作ればいいじゃないかと思われるかもしれないのだが、これもなかなか出来ない。やるやると言いつつ何年も放ったらかしにしている案件がいくつかある。まあ、やる気の問題といえばそうなのだが、結果として完成しないのであれば考えるだけ無駄だ。
 そこで、水屋箪笥を古道具屋で探すことにした。
 木工的視点からも、無垢材が木組みで構成されているほか、金物様式、設計、経年変化など、どれを取っても興味深い。中古だから値段も安い。万が一、呪いとかがかかっていて、夜中にヘンな音がするとか、ビョーキにでもなったりしたら、なに、バラして新年のどんど焼きに黙ってくべりゃそれで終いだ(ダメですよダメダメ)。無垢材は新建材とかと違って、最後に捨てる時まで後腐れがない。埋め立てるより方法がないのと、燃やせば灰になるだけの違いは大きい。
 そしてすぐに思い出したのが、例の奥に押し込まれていた水屋箪笥だ。
 早速件の古道具屋に向かうと、それは未だ同じ場所に鎮座していた。
 数年前に見たときは買うつもりなどなかったのだが、改めて見ると実によく出来た水屋箪笥である。
 大きさは上下二段で一間×一間。よくありがちなゴツさがなく、瀟洒で品が良い。
 普通水屋といえば、太い部材が横通しでこれでもかと主張しているものだが、こちらは精巧な留組で組まれており、まことに品が良い。金物も装飾が控えめで落ち着いている。そして一番気に入ったのは、右下が鍵のついた扉となっており、開くと中に桐でできた抽斗が3杯収まっている。つまり、この水屋箪笥は帳場箪笥という帳簿や金品を収納する箪笥とのハイブリッドなのだ。変わり種といえばそうなのだが、スペースの余裕がない現代人?からすれば遊び心があって楽しい。ついでに抽斗は何と大小合計18杯もついている。

 

水屋箪笥内の帳場箪笥的要素部分。これで鍵があれば言うことはないのだが。


扉を開くと中には桐の抽斗が3杯。特にカラクリなどは無い。

 だが、恐る恐る値段を聞いて愕然とした。20万円。
 それはそうだ。これだけ手の込んだものなのだから、その値付けは至極真っ当だ。他の有象無象(失礼)も10万~12万くらいはするので納得はしたものの、さすがに20万を払うことは叶わず、さりとて気に入ったものがありながら、そうでないものに10万払うのもくやしくて、結局上下2段だった水屋を1段だけで独立させ、カウンター的に使えるように改造した4万円くらいのものを買った。気に入ったものが高価で買えない場合、中間ではなく最低ランクで済ますという心理はここ近年の市場にもよく表れている。私もその一人だ。

 それから5年ほど、その改造カウンター水屋を使っていた。いかにも改造しました風なそれは決して悪いものではなく、キッチンの一角で大活躍していた。しかし、次第に食器が増えてゆくと、そもそも半身であるそれには収まりきらなくなっていった。
 妻の提案で、その改造水屋は衣類の収納に回して、フルサイズ、と言うべきか、普通サイズの水屋を手に入れようということになり、ふたたび古道具屋めぐりの旅に出ることになった。
 あれから5年もたっているのだから、品揃えもいくらか変わっているだろうとふんでいた。だがやはりあの一目惚れした水屋の印象が強く、どれだけの店を周ってみても、どれもこれも同じようで今一つ心を惹かれるものは無かった。そして最後に、あの水屋があった店に入った。
 そこには、記憶の中の画像とピタリ同じ配置、同じ姿で未だ売れずに鎮座しているそれがあったのだ。これは間違いなく我が家に収まるべくして存在するモノに違いなかった。私も妻も覚悟はできている。

「あの、これいくらですか」
わざとらしく聞くと、店の女主人は少し考えた末に、
「5万円でいいよ」
「へ?5万円」

 ここは平常心だ。前20万って言われたんだけど、とかもうノドの上の方まで出かかっているのだけどぐっとこらえて言ってはならない。逆に「高!」とか言えばいいのだろうが、残念ながらそこまで世渡り上手ではない。
 住所を書いたり、納品日の相談をしたりする最中、気持ちがフワフワして前20万って言われたとか言いそうになる自分を抑えて店から出たときには、清々しい気持ちで満たされていた。安く買ったということもあるのだが、10年越しで気になっていたことが解消されたことが大きかった。

 

三方が交差する木組み。職人の矜持とも言える見せ場である。

 以来、我が家のキッチンにはその水屋箪笥が佇んでいる。
 アラを探せば、樅の裏板が割れまくっているとか、信じられないことに抽斗の上摺桟がないとか、まああるにはあるのだが、別にそんなことで大勢に影響はないというくらいのお気に入りだ。
 木工的観点で見ると、留組の部分は通しの二枚ほぞになっており、機械ではなく手加工であることが見て取れる。非常に丁寧に仕上げられており、職人の意気込みが伝わってくる。材料は框が檜で羽目板は樅。この材料の選択も品の良さを醸し出している。だが、こういう様式のものはお目にかかったことがないので、それが一体何なのか、道楽者の特注品なのか、書物でもネット検索でも判らず、謎だった。

 それが最近になって判った。
 あの三十夜にわたって踊り続けることで有名な、郡上八幡に遊びに行ったとき、たまたま古道具屋があったので吸い込まれるように入った。
 何と、そこに置いてある水屋の多くが、我が家にあるものと同じ造りだったのだ。
 よく見ると、それらは大きさや構成こそ違うものの、明らかに同じ職人、あるいは同じ工房で造られたものであることは疑いようがなかった。恐らく、郡上八幡の様式というよりは、個人が伝統的な水屋をリデザインして造っていたものなのではないかと思う。思うというのは、特にそれ以上の詮索をしようとは思っていないということだ。私は家具の歴史の研究家ではないし、一職人の素晴らしい仕事が確認できたということ、それで十分だと思っている。
 モノは正直だ。図面通りに造ったモノだとしても、人となりが良くも悪くもそのまま出てしまうのが木工だ。そして、この水屋は美術品でも工芸品でもなく、いわゆる用の美を備えた民芸品であるということ。前述したように、至らないところもあった。だが、その一方で職人の技と思いは確実に私の心に刺さった。同じ仕事をするもの同士にしか解らない、モノを介して時空を超えた会話が確実に、そこにあったのだ。
 
 つまりこの水屋箪笥は、私にとって価値ある一品なのである。

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