熱を捨てるという贅沢
(2600文字くらい)
昨日、広葉樹の森を歩いていて、またこの表現を思い出してしまった。
私は、本はせいぜい月1冊読めばいいくらいの、読書家でもなんでもない普通の人間なのだが、妙に気になる表現があると意外としつこく覚えている。
この華麗な病気という言い回し、三島由紀夫らしいよなあと思いながら、目の前の紅葉を見ていると、本当に病気にかかっているのではないかと思えてくるから不思議だ。そして病気だと思えば、紅葉に良いも悪いもなくなってしまう。別に、そんなに真っ赤っかでなくともよいではないか。毎年その年なりの病気であるのならば。
落葉広葉樹は進化の過程において、1シーズン限りで葉っぱを使い捨てにする選択をした。
照葉樹や針葉樹と比べると、その葉は薄くていかにも耐久性がなさそうだ。
だが地面を見れば、その落ち葉にふわりと包まれたドングリは気持ちがよさそうだ。何と完成された機構なのかと思う。森がこうして循環してゆく中に、何か無駄とかそういうものが存在するのか、疑問に思えてくる。
人間は、そこから燃料を頂戴してくるのだ。
ところ変わって。
朝晩が冷えてきたので、今年の4月に割った薪が乾いているかどうかの確認も含めて、薪ストーブに火を入れた。
薪ストーブは贅沢品だと思う。
もちろん生活のために、冬を越すために、止むにやまれず薪を燃やしている方もみえると思うので一概には言えないのだが、それでも一般的な家庭で薪ストーブで暖を取ることは、今風に言って「豊かな暮らし」だと思う。
そう思う1つ目の理由は、薪ストーブに費やす時間的、精神的な余裕が、普段の生活の中で、まがりなりにも捻出できる状況にあるということだ。
これが鬼残業の末、さっさと飯食って寝たいのに、寒い外から薪を運んできて、付くとも付かぬとも分からぬ焚き付けに、マッチ棒のか細い火で立ち向かう戦いに明け暮れることなど、どうして出来ようか。
薪ストーブは手間がかかる。
まず、イニシャルコストが相当にかかる。
それに加えて薪を調達する手間、灰の処理とか煙突掃除、ストーブ本体のメンテナンスなど、その手間を考えれば、ボタン1つで化石燃料を燃やした方がよっぽどコスパタイパ的には見合うと思う。仮に薪がタダで手に入ったとしてもだ。
それでもなお薪ストーブを使い続ける2つ目の理由は、無駄の上に成立する暖かさが、何にも代えがたいものだからと思う。
飛騨の冬は寒い。
一日中外仕事をして帰ってきた日など、暖を取るのは紛う方なく歓びである。寒いせいで楽しみが一つ増えるという何とも不思議な瞬間でもある。
薪ストーブの、この何とも言えない安堵感の正体は、要するに薪が生み出す熱エネルギーの、心地よいところだけを取り出す装置として考えると納得がゆく。
薪ストーブの性能は、その本体と同様に煙突の性能が非常に大きなウエイトを占める。価格から言っても、煙突の値段が本体の値段と同じくらいかかると思ってもらって差し支えない。
ここで言いたいのは値段の話もそうなのだが、薪ストーブの暖かさというものは、かなりの熱を煙突の出口から捨てることによって成り立っているということだ。高性能な煙突は、触れても熱くない。それだけ断熱性能に優れているということであり、とりもなおさず出口から大量の熱を大気中に放出しているということだ。
ストーブがガンガンに燃えているとき、屋根に登って煙突の先に行ってみればよく分かる。感覚的に言うと、優に半分以上の熱量を煙突から吐き出しているのではないかと思う。あくまでも感覚の話であるが。
これは煙突にドラフトを発生させ、効率の良い燃焼を行うための必要不可欠な条件なのだ。そしてこの、燃費の悪さのおかげで、まことに心地よい暖を取ることができる、と私は思っている。
薪は、どこをどう解釈してもカーボンニュートラル燃料だ。
だからという訳でもないのだが、一応大きな顔をして燃やすことが許されている。だが、そんな考え方など、ここ最近急に人間が勝手に決めたルールに過ぎない。もちろんCO2の排出を抑制することに一定の理解はあるし、カーボンニュートラル燃料だからといって無暗に燃やしていいわけがない。また、国内の森林蓄積量が増加の一途をたどっているイコール燃やしてよいという訳でもないだろう。
そんな複雑な思いをもって、今日もありがたく大事に薪を燃やしている。
ところで、マニアックな話で申し訳ないのだが、ちょっと前までクルマの燃費はすこぶる悪かった。下記は私が乗っていたクルマの一部実測値。
・マツダ RX-7(FD3S) 4㎞/l
・ホンダ プレリュードSiVTEC(BB4) 8㎞/l
・マツダ ロードスター(NB8C) 10㎞/l
まあ、13Bロータリーのリッター4㎞は特例としても、NAで軽量なロードスターですら10㎞しか走らなかった。もっともガソリンは比較的安かったし、CO2がどうのとうるさく言う時代でもなかった。
これらのエンジン、回っていることそれ自体が楽しかった。
正直に言えばVTEC以外どうでもよい部類に入るのだが(スミマセン)、それでも今にして思えば別格だったと思う。この楽しさを言葉で表現する自信は残念ながら今の私にはないのであるが、少なくとも熱効率を第一に考えた設計ではなかったし、それは単なるノスタルジーではないと思っている。
熱を捨てることで得られる楽しさは、少なからず存在するはずだ。
そして、楽しさと熱効率のトレードオフが解消される時代は来るのであろうか。
庶民にとっては、バイクが最後の砦となるかもしれない。
さて最後に、熱を捨てるという行為の最たるものは、やはり焚火をおいて外にはないだろう。
焚火をしながら肉を焼いて食らうという行為。
この、霊長類が禁断の炎というものを手にして以来、連綿と受け継がれる行為は効率がどうのという世界ではない。科学と宗教みたいなものだ。
「キャンプファイヤー」って、一体何の意味があるんだよ。
直火禁止って言われてもなお、焚火台を持ち出すのはもはや執念だろ?
燃やしたいんだよ。効率などクソ食らえだ。
加速ポンプでシリンダーにガソリンをブチ込め。
炎よ燃えろ。火の粉を巻き上げ天まで焦がせ。
そう、生命力の枯渇から来る華麗な病気のように。
それが、本能なんだろう?野郎共よ。