「冗談のつもり」〔クリシェ【凡百の陳腐句】22-1〕
昨今(2023年1〜3月)世間を騒がせている、飲食店・公共施設での迷惑動画がSNSで拡散された事件。
かかる"顛末"を認知していてなお、「『冗談のつもり』が言い訳になる」と思う人は、残念である。
彼ら彼女らも「冗談のつもり」と直接口にしていないものの、"趣旨はそれ"だからだ。
もちろん、彼ら彼女らにユーモアのセンスは皆無である。
現に、「(迷惑行為を)やっている側のノリが、売れない芸人、面白くない芸人にソックリ」と、あるお笑い番組プロデューサーも語っている。
だが、一番の問題点はセンスの無さではない。
「『冗談のつもり』と"自称"すれば、多少のことは許される」
というマインドだ。
醤油直飲みにしても、寿司ペロにしても、ライターで火災報知器鳴らした件についても、
「軽いジョークなんだから、許してちょんまげ」
くらいのノリなのだろう。
無論、
「許されるわけがない」
ことは、"その後の惨状"をかんがみれば言を俟たない。
思うに、「冗談」とは「商品」と同じ。その価値は「自分(達)以外が決める」。
その道具は役に立つか、その食事は美味いか、そのショーは面白いか、その空間は心地よいか。
「"それ"は、自分の大切なお金を払うに値するものか」。
「すべてお客さんが決める」こと。供給側の事情・思惑は関係ない。
「お客さんのため」「これは価値があるはずだ」と"自称するだけ必ず売れる"なら、これほど楽なことはない。
もちろんそれはありえないから、どの企業も店舗もクリエイターも、売るための"努力"をする。
「冗談」もしかり。
過去のおふざけに対し「冗談のつもりだった」と宣うのは勝手。
「"それ"が、ウケるか、スベるか、ただただ不愉快か、仮に面白くなくとも大目に見れる範疇か」。
「100%受け手が決める」こと。
発信する側の"つもり"など、知ったことではない。
もし、「冗談のつもり」と称せば、どんなおふざけも"すべて笑い"になるなら、お笑い芸人などイージージョブ。誰もが松本人志になれる。
もちろん、そんなわけはない。
笑えないものは、笑えない。不愉快なものは、不愉快。それを押し殺してまで、笑わなければならない筋合いはないはずである。
「冗談のつもり」は、迷惑行為・不快なおふざけの免罪符ではない。
もし、「『冗談のつもり』=免罪符」と考えているフシがあるとしたら、残念ながら「炎上予備軍」だ。
仮に、件の迷惑動画自体は非難していても、別のことで炎上、あるいは炎上までいかずとも周囲の信用を大いに損なっている可能性はある。
迷惑を迷惑と気づかず、「『冗談のつもり』と"自称"すれば、多少のことは許される」と勘違いすることによって。
「そんなことにはなってないよ」と言うとしたら、"本人が気づいていない"か、"ご都合解釈している"か、"たまたま"かのどれかである。
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