自己アピールも需給の問題「マキシム〈ブッダ〉【金言の再現】7」
君が聞かれもしないのに
自分についてしゃべるとき
自分がどれだけがんばったかということや、
自分が成し遂げたことや、
自分が有名人と知り合いであることや、
自分の立派そうな職業について質問されてもないのにしゃべる人。
君がそんな生意気な人になるのなら、優れた人々からは君は、「浅ましい」と敬遠されるだろう。
経集782
『超訳 ブッダの言葉』026 (小池竜之介編訳 ディスカバー)
「自分の経歴や実績、できることを一切アピールするな」と言うことではないと考える。むしろイチイチ言う必要もないくらい、ときに超重要なものだ。
よくも悪くも、「言葉は『何を言ったか』よりも、『誰が言ったか』の方が大事」は真理。
なぜなら、古来他人を説得するには「ロゴス(論理)」「パトス(情熱)」「エートス(信用)」が必要だと言われてきた。
そして、「誰が言ったか」は三番目の「エートス(信用)」にあたると考えられる。
「カカオ率70%以上のチョコレートを食べると、痩せる」のせりふを、「医者」や「管理栄養士」が言えば「おぉっ!」となるだろう。
「偏差値40の学年ビリから1年で東大に合格した人」の「勉強法」は誰もが興味を示すだろう。
僕だって、知らない人の本を読むときは、著者の経歴は一応チェックする。
「誰が言ったか」は、言葉の力の一角といっていいもの。
だから、自分の言葉に力を持たせるための手段として、自分が「誰」なのか「何者」なのかをアピールするのは至極真っ当なことだ。
そう、自分の言葉に力を持たせる「目的」のための「手段として」ならば。
「手段」ならば、自分の言葉に"どう"説得力を持たせるか、自分を"どう"アピールするかは、必要応じて変えるはず。
採用面接のときと、営業のときと、パーティーで自己紹介するときと、noteやブログのプロフィールを書くときとで、どこまで自分をアピールするかは違えるだろう。
そして、必要に応じて変える、ということは、「自分についてしゃべること」が相手から求められていないならば、「しゃべらない選択をとる」ということだ。
「聞かれもしないのに」「質問されてもないのに」、「自分についてしゃべる」人は、これを抜かしている。
「自分はスゴいんだぜ」アピールが「目的」なのだから、相手の「求め」に応じられていないのだから、「浅ましい」と敬遠されるのは必然。
あらゆる正しさは、目的の関係で相対的に決まる手段。自己アピールもしかり。
手段ならば、"選んでこそ"。
(参考図書)