レスター・レヴェンソンとラマナ・マハルシの教えの共通点

最近久しぶりにセドナ・メソッドを試しにやってみて意外に効果が感じられたことから、レスター氏の言葉を少し調べてみたところ、ある興味深い点に気づきました。

それは、レスター氏がおそらくラマナ・マハルシの言葉を引用して語っていることです。


レスター氏の境地と教え

レスター・レヴェンソンは彼の信奉者達によって「セドナ・メソッド」「リリース・テクニック」の開発者であることが広められました。これらのテクニックは自問自答を通し感情を手放し自由になっていく、というものです。ですがこのテクニックは彼が後年になってまとめたもののようです。

そこで、まず彼の境地と初期の教えを紹介します。

「レスターの物語」には彼のたどり着いた境地が描かれています。
1953年頃の話のようです。

レスター氏の境地

彼の幸せに対する最初の質問も答えがあった。幸せに制限はないが、その幸せを毎分持つようになった時、退屈する事になる。
次に、この平和な状態はそれを超越しており、そのために、やらなければならない事は一線を越えて、その中に入る事だった。

「更にこれを越えた何かは存在するのだろうか?」と彼は考えた。しかし、彼が問いを発した時、彼にはその答えが分かっていた。

この安らぎは永遠に不滅なものであり、あらゆる生き物のエッセンスだった。たった1つの存在があり、あらゆるものが「それ」なのである。
あらゆる人は「それ」であるのに、その真実に気づかないでいるのである。
修正されないでいる過去を持ち続けて、その過去によって真実が見えなくなってしまっているのである。

レスターは、この「存在」を櫛(くし)のようなものだと見ていた。彼は櫛の根のところに存在し、そこから全ての歯が広がっていて、それぞれの歯は独立していて、他の歯とは異なっていると考えているのである。
それは事実なのだが、それは櫛の歯の先から見た時の話である。
あなたが根の部分、源にまで戻れば、歯が1本1本存在するのは真実ではないと気づく事が出来る。全ては1つの櫛なのである。本当に分離独立しているものはないのだ。あなたが歯の先からものを見ている場合を除いては…。全ては視点によるのだ。

(太字は引用者)

レスターの物語

私は昔この記述を読んで「いかにも一元論的な世界観だ。独自にこの境地に辿り着く人はいるのだなあ」と驚いたものです。

レスター氏の教え

その後レスター氏は彼の信奉者に講話をするのですが、その中で彼は次のようなことを言っています。この講話は1965年にされたようです。
関心のある方のために長めに引用しましたが、太字だけ読めば重要なところはわかるので適宜飛ばしてください。

(Google翻訳)
方法は数多くありますが、最も優れた方法は、誰もが最終的に使用する方法であり、その方法は「私は何者か」という答えを見つけることです。この探求は、瞑想中だけでなく、日中も常に続けなければなりません。私たちが働いている間、何をしているかに関係なく、私たちは常に心の奥底で「私は何者か」という質問を提起し続けることができます。答えが明らかになるまで。

さて、心が私たちに与える答えは、必ずしもそれであるとは限りません。なぜなら、心は制限の道具だからです。すべての考えには制限があり、すべての考えには限界があります。したがって、心が与える答えはどれも正しいものではありません。答えを得る方法は、私たちが思考する精神体であると想定することで自分自身に課した盲目さから抜け出すことです。考えが静まっているとき、無限の存在は明らかです。それは自ら輝き、常にそこにあります。それは思考概念によって覆い隠されているだけで、そのどれもが限界があります。

ですから、方法は「私とは何か」という質問を投げかけ、静かに答えを待つことです。他の考えが浮かんでくるでしょうが、最大の難しさはこれらの考えを静めることです。他の考えが浮かんだときに、「これらの考えは誰に対するものか」という質問を投げかければ、答えは当然「私に対するものです」です。そして、「私とは何か」という問いかけによって、私たちは再び軌道に戻ります。そうすれば、「私とは何か」に絶えず注意を向けることができます。

答えが得られるまでこの質問を投げかけることに加えて、日常生活において、行為者やエージェントにならないようにすることは良い習慣です。ただ目撃者になりましょう!「私ではなく、私を通して働く父である」という態度を身に付けてください(このグループの何人かはすでにそうしています)。これが、私たちが目指すべき人生の主な行動です。人生において目撃者になればなるほど、肉体に執着しなくなり、本当の自分になります。

ですから、私が提案していることは 2 つあります。1 つは「私は何者か」という探求、もう 1 つは人生そのものにおいて、行為者ではなく目撃者になることです。物事が起こるままに任せ、人生があるがままに任せましょう。

これが最高の状態にある私たちのあり方であり、人生における最高の行動は最高の状態の特徴です。

他にも謙虚さ、善良さ、親切さ、誠実さなど、皆さんもご存知のことと思いますが、役立つことはたくさんあります。これらすべてが役立ちますが、最も役立つのは行為者ではなく目撃者になることです。

(太字は引用者)

(原文)
Methods are many, but the very highest is the method
that everyone uses in the final end, and that method is
finding the answer to “What am I?” This quest should be
kept up all the time, not only in meditation, but during the
day. While we're working, no matter what we're doing, in
the back of our mind we can always keep that question
posed: “What am I?” until the answer makes itself
obvious to us.

Now, any answer the mind can give us must necessarily
not be it because the mind is an instrument of limitation.
All thoughts are qualified; all thoughts are limited. So
any answer the mind gives cannot be right. The way the
answer comes is simply by our getting out of the way the
blindness that we have imposed upon ourselves by
assuming thoughts that we are a thinking mind body.When the thoughts are quiet, the limitless Being is
obvious. It's Self-effulgent; it’s there all the time; it’s just
covered over by thought concepts, every one of which is
limited.

So, the way is to pose the question “What am I?” and
quietly await the answer. Other thoughts will come in,
and the biggest difficulty is quieting these thoughts.
When other thoughts come in, if we pose the question,
“To whom are these thoughts?” the answer naturally is,
“To me.” Then, “What am I?” puts us right back on the
track again. That way we can continuously keep our
attention on “What am I?”

In addition to posing this question until we get the answer, it is good practice in our daily life to be not the
doer, be not the agent. Just be the witness! Acquire the
“It is not I but the Father who worketh through me”
attitude (which several in this group already have). This
is the main conduct of life that we should strive for. The
more we become the witness in life, the more we
become non-attached to the body, the more we are our
real Self.

So, there are two things I'm suggesting, one is the quest
“What am I?” and the second is, in life itself, be not the
doer; be the witness. Let things happen; allow life to be.
That's the way we are in the top state, and the best
behavior in life is that which is characteristic of the top
state.

There are many other things which I'm sure you are
aware of: humbleness, goodness, kindness, honesty,
etc. All these things help, but the greatest aid is to be
not the doer 1 but be the witness.

WHAT AM I?  - KEYS TO THE ULTIMATE FREEDOM Thoughts and Talks on Personal Transformation By Lester Levenson .p36

この部分の記述だけでなく、この引用元の小冊子全体を通して「What am I」という文言が49回も出てきます。

この「What am I」「私とは何か」というキーワードと方法論が、次節で述べるラマナ・マハルシの言葉の引用である可能性が大きいと私は考えています。

ラマナ・マハルシとその教え

ラマナ・マハルシとは、

シュリー・ラマナ・マハルシ(サンスクリット語:रामन महर्षि、タミル語:ரமண மகரிஷி、1879年12月30日 - 1950年4月14日)は南インド聖者。カナ転写ではマハシとも。

解放に到達するための直っすぐな道として真我の探求(サンスクリット語:आत्म विचार、英語:Self-enquiry)を推奨した。

ラマナ・マハルシ

彼は世俗を離れた聖者ですが、彼を慕う人々が大量に集まってアーシュラムを作り上げてしまうほど、人々を感化する力の持ち主でした。20世紀前半でありながら西洋から彼を訪れる人が絶えなかったといいます。詳しくはWikipedia(上の引用のリンク)を御覧ください。

マハルシの教え

マハルシの教えについてインターネット上で入手することができるのは、「私は誰か」という小冊子です。これは1920年代にマハルシとその信奉者の間でなされた対話が元になっているといいます。

ここから引用してみます。

1 私とは誰でしょうか?
七つの要素から成る粗大な身体、それは私ではない。五つの感覚器官、 聴覚、触覚、視覚、味覚、臭覚は、それぞれの対象である音、感触、色、 味、匂いをとらえるが、私はそれらではない。五つの能動的な器官である 言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官は、それぞれ話すこ と、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをす るが、私はそれらではない。五つの生気*2、すなわちプラーナなどは、吸 気などの五つの働きをするが、それは私ではない。ものごとを考える心で さえ、私ではない。対象物の印象だけが刻みこまれた無知も、対象物も働 きもない無知も、私ではない。 

2 もし私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?
今述べたことすべてを「これではない」、「これではない」と否定してい ったあとに、ただひとつ残る覚醒(*) ---それが私である。

(*引用者注 英語版では"Awareness"となっており、「意識」と読み替えたほうがニュアンスが伝わりやすいでしょう。レスターの言う目撃者のことです。)

3 覚醒の本性は何でしょうか?
覚醒の本性は、存在-意識-至福である。

私は誰か? ラマナ・マハルシの教え  pp5-6

解説を加えようかと思いましたが長くなりすぎるのでとりあえず引用するにとどめます。続きます。また太字のみ読めばいいです。

9 心の本性を理解する探究の道とは何でしょうか?
身体のなかに「私」として立ち現れるものが心である。もし身体のなか のどこに「私」という想念が最初に現れるかを探究するなら、それはハー トのなかに現れることが発見されるだろう。そこが心の起源となる場所で ある。絶えず「私」、「私」と考えても、人はその場所に導かれていくだろ う。心のなかに現れるすべての想念のなかで、最初に現れるのは「私」と いう想念である。この想念が現れたあとにのみ、他の想念は現れる。二人 称と三人称の人称代名詞が現れるのは、一人称が現れたあとのことである。 一人称がなければ、二人称、三人称も存在しないだろう。

10 どうすれば心は静かになるのでしょうか?
「私は誰か?」(*)と尋ねることによってである。「私は誰か?」という想念 は、他のすべての想念を破壊するだろう。そして燃えている薪の山をかき 混ぜる木の棒のように、ついには「私は誰か?」という想念そのものも滅 ぼされてしまうだろう。そのとき真我は実現されるだろう。

(*引用者注 もとの英語版が"Who am I?"となっているが、マハルシの話す言葉のニュアンスでは"What am I?"「私とは何か」のほうが近いそうです。)

11 「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいでしょうか? 8
他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、「この想念は誰に 起こったのか?」と尋ねるべきである。どんなに多くの想念が起ころうと かまわない。想念が起こるたびに「この想念は誰に起こってきたのか?」 と入念に探究すべきである。それに対して現れる答えは「私に」だろう。 そこで、すぐに「私は誰か?」と探究すれば、心は源に引き戻され、起こ った想念は静まるだろう。このように修練を繰り返せば、心は源にとどま ることに熟達するだろう。微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると、 粗大な名前や形が現れる。心がハートのなかにとどまっていれば、名前と 形は消え去る。心を外に出さずにハートのなかにとどめておくことは、「内 にあること」(アンタール・ムカ)と呼ばれる。心をハートから外へ出させ ることは、「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)として知られる。このよ うに、心がハートのなかにとどまっているとき、すべての想念の源である 「私」は消え去り、永遠に存在する真我が輝きだす。人は何をするときに も、「私」という自我性なしにそれをすべきである。もしそのように行動す れば、すべてはシヴァ神の本性として現れるだろう。

私は誰か? ラマナ・マハルシの教え pp7-8

明らかに、レスター氏の教えと共通していることがわかります。

年代的に、マハルシの言葉が先行しています。
よって、レスター氏は独自にある境地にたどり着いた後、マハルシの言葉を何かで読み、感じるところがあったために彼の言葉を引用したのだと思われます。

ちなみに、このマハルシの言葉も彼がオリジナルというわけではありません。マハルシの教えは8世紀の哲学者シャンカラに通じるものであると評価されていますし、「私とは誰か?」という問いは、私が知る範囲では「ヨーガ・ヴァーシシュタ」という聖典(マハルシ自身よくこの聖典を引用して語ったといいます)に頻出の文言です。つまり、マハルシの教えはインドの伝統的な不二一元論の教えの流れを引いているということです。


まとめと、私のレスター氏の評価

以上のように、二人の言葉を引用することで彼らの思想の共通点がおわかりになったかと思います。そしてその境地はインドで古来から語られてきたものだ、ということもできるということです。

レスター氏が至った境地は、インドの伝統的な不二一元論の境地であると言えるかもしれません。

ですが、不二一元論の境地に至る方法は、伝統的には「私とは何か」を徹底して突き詰める、非常にストイックな方法論のみ語られてきました。どれくらいストイックかはマハルシの教えの記録(Talks、日本語版「ラマナ・マハルシとの対話」)などお読みになるとわかります(なお、マハルシ自体はこの方法を通ることなく十六歳で臨死体験を経て彼の境地に至っています)。身体を痛めつけるような苦行というわけではなく、意志の強さが必要という意味でのストイックさです。

しかし、レスター氏が後年開発した、現在ではセドナ・メソッドとかリリース・テクニックとかで広まっている方法は、「私とはなにか」の方法よりも非常にやりやすいと感じています。

ラム・ダスの「Be Here Now」が出版されたのが1971年であり、ニューエイジ運動からレスター氏は先んじていること(彼が彼の境地に至ったのが1953年)も、私がレスター氏を評価するポイントです。ニューエイジ以降に広まったスピリチュアル、精神世界の著作とは、レスター氏の教えは一線を画したものであるというのが私の評価です。

参考文献

レスターの物語

KEYS TO THE ULTIMATE FREEDOM Thoughts and Talks on Personal Transformation By Lester Levenson

私は誰か? ラマナ・マハルシの教え


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?