ラマナ・マハルシの真我探求の誤解を正す
「私は誰か」の探求方法
文字だけ追っていると誤解されそうな部分。
「私」という思考を追求せよ、とマハルシが言っていると考えるならば、それは誤解である、と私は言います。
こうした言葉だけが強調されがちですが、これには続きがあります。
「源」を探求すること
つまり、「私は誰か」と問うているうちはアートマンは実現されません。「私とは誰か」は手がかりに過ぎない。
「私」という想念を手がかりに、「私」という想念のみに集中することがまず第一です。そのうえで、「私」という想念が現れ、消えていく源を探求すべきだ、というのがマハルシの主張です。
おわかりでしょうか。
「私」を探求するとは、「私」という思考や感覚それ自体を調べることではありません(ましてや、宇宙とかについて知る必要はありません)。
「私」という想念が現れ消えていく源、つまり、思考以前の領域について探求することなのです。なぜ思考以前と言えるかと言うと、初めに現れる思考が「私」という想念だからです。
ただし、そう簡単ではない
では、源を探求するということがどういうことかはわかりましたが、どの程度までやればいいのでしょうか。
これについてもマハルシは答えています。
つまり、想念が起こる間は探求を続けなければならない、ということです。「心のなかにものごとの印象があるかぎり」、つまり主体と客体を認識する心の働きがある限り、探求は続けられなければならないのです。
これを、単に「私は誰か」と繰り返して達成できそうだと思うでしょうか。私は相当な意志と集中力が必要だと思いますが。
しかしながら、以上のように、マハルシは明確な方法を述べていることも事実です。
そして、途中で引用した『秘められたインド』では、筆者であるイギリス人が真我の体験をする場面が最終章に描かれています。長いので引用はできませんが、真我を追求する者にとってはなかなか感動的かつ役に立つ内容となっており、一読推奨です。
参考文献
存在・意識・至福とか、目覚め・夢見・深い眠りとか、インド哲学独特の部分についてはこちらを読むと理解が進むでしょう。学者でなければ散文編第1章だけで必要十分。
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