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柄谷行人『トランスクリティーク』解説(7)

 今回はマルクスの解説の三回目となります。
 ここでは、第3章の価値形態と剰余価値について解説していきます。


価値と剰余価値

 資本の本性は、G-W-G'(貨幣-商品-貨幣)への移動、変化にあることをこれまで述べてきた。そして、それによって形成された世界市場なしに資本体制はありえないのである。

 ではそこから剰余価値はいかにして生まれるのだろうか。
 柄谷は次のように言う。

剰余価値は、流通において発生しなければならないと同時に、流通において発生してはならない

柄谷行人『トランスクリティーク』岩波現代文庫、p.344

 貨幣による価値体系は、貨幣がさまざまなものと交換される交換体系によって決まる。貨幣はどのぐらいで商品Aと交換でき、また商品Bとはこのぐらいでできるといった、交換の関係性により価値は決まるのである。
 その意味で、価値は流通によって生じる必要がある。

 しかし、まだそれだけでは剰余価値は生まれない。

 剰余価値とは、異なる価値体系があり、そこに差異があるときに生じるのである。
 
 マルクス曰く、そもそも商品とは、異なる共同体の間で交換が行われることによって生じたと言う。家族Aと家族Bが交換を行うとき、その二つの家族の間には価値に違いがある。家族Aが価値を見出していないものに、家族Bは価値を見出しているから交換が行われるのである。もし同じぐらい価値があれば売りはしないし、価値がなかったら買い取ってくれない。

 このように、価値が生み出されるには流通は必要不可欠であるが、それだけでは剰余価値は生まれない。剰余価値が生まれるには、流通による交換体系に差異がなければならないのだ。

言語学的アプローチ

 商品の価格も、労働価値も、貨幣が生み出す価値体系によって調整される。つまり、常に他との関係によって決まるのである。 

 それをもとに、交換体系の差異を言語学的に捉えてみよう。
 ソシュールは「言語には差異しかない、言語は価値である」と言っている。それは、言語体系の中で、様々な語と関係をもち、差異を生じさせることによって、語の価値が決まるということである。ここから、ソシュールは語には音(シニフィアン)と概念(シニフィエ)に必然的な関係性がないことを示すが、実際は一つの言語体系においては語の音を概念には密接なつながりがある。ただ、複数の言語を見てみると必然的な関係性がないのである。

 アメリカ人が「Bad」というときと、日本人が「悪い」というときを考えてみよう。
 アメリカ人が「Bad」というとき、私たちはそれを「悪い」という意味で理解するが、時にアメリカ人は「かっこいい」といった意味でもつかう。
 直訳すれば「Bad」は「悪い」という意味になるが、他の語との関係性から「Bad」は日本語の「悪い」とは異なる価値を持っている。そのため、このような価値の差異が生じる

 このように、意味と異なる「価値」という概念は、複数の異なる体系を考えたときにのみ不可欠なのである。

 ではこれを経済の交換体系で見てみよう。
 一つの商品の価格は言語と同じく、他の商品との関係性によって決まっている。しかし、交換体系が異なる場合、同じ商品であっても他の商品との関係性が異なるために、価値が異なる。これにより、差額(剰余価値)が生まれるのである。
 
 これは、G-W-G'(貨幣-商品-貨幣)の運動において、前半部分のG-Wと後半部分のW-G'が時間的または場所的に異なる場所で行われることから生じる。

 具体例として、日本における石油とイランにおける石油で考えてみよう。
 日本は自国の領土、領海内で石油を取ることができない。そのため、石油は他の商品との関係性においては高くなる。
 しかし、イランでは石油が大量にとれるため非常に安く手に入る。そのため、他の商品との関係性において安くなる。
 イランが100円で石油を売っているものを、100円で買った場合、それは当然、等価交換である。しかし、それを日本に持ってきた場合、日本の価値体系では200円になっているとしよう。そうすると、石油を売ると100円の剰余価値を得れることになる。

 このように、異なる価値体系において商品を交換すると剰余価値が生まれる。そのため、柄谷は次のように言う。

資本家は異なる価値体系の両方に立つ者だと言える。

同上 p.358

 剰余価値を得るためには、異なる価値体系を利用しなければならない。そのために、資本家は異なる価値体系の両方に立つ必要性があるのである。
 資本家は商品Aを価値体系において価値が低いところで買い、別の価値体系で価値の高いところで売ることで利益を得る。それは決して詐欺ではなく、正当な行為なのである。

産業資本と商人資本

 剰余価値とは、異なる価値体系の間で行われるということが以上から明らかになった。しかし、これまでの説明は商人資本の話であった。では、産業資本ではどのように剰余価値が生まれるのだろうか。
 マルクスによれば、産業資本が商人資本と異なるのは、「労働力商品」を発見したということである。

 マルクス以前の古典派においては、剰余価値は技術革新などにより生産効率があがることで、生産コストが下がり、そこで生じた価格の違いが剰余利益になると考えられていた。

 しかし、マルクスの考えでは、価値体系の差異がないの余剰利益は生じない。この場合、どこに価値体系の差異を考えられるだろうか。
 それが、労働力を売った時点での価値体系aと、労働者が生産物を買う価値体系bとの間である。

 人間が労働力を売るとき、それは商品との価値で比較されているのではなく、他の人との価値で比較される。社会に求めれらているが、それをできる人が少ない場合に価値が上がり、逆に社会に求められておらず誰でもできる場合に価値は下がる。賃金とはそのような価値体系によって決まるのだ。
 一方商品はそのような労働の価値体系とは別に存在している。人間の労働力と比較して、その商品の価値が決まるわけではない。
 よって、高級な宝石や時計を売っているからといって、それに合わせてそのお店で働いている店員が他の職業の人と比べて給料が高くなるわけではない。なので、商品と労働力商品の差異が生じ、企業は余剰価値を得るのである。

資本は常に差額から剰余価値を得ることによって自己増殖するのであり、その差異がどこから得られようとかまわないのである。

同上 p.368

 何度も言うように剰余利益は、複数の異なる価値体系の差異によって生じる。それは、どのような価値体系の差異でも問題ない。同じ商品が異なる価値体系にある場合もあれば、労働力商品と商品の価値体系のように、そもそもが異なる価値体系である場合もある。
 この異なる価値体系の交換を可能にするのが貨幣であり、資本家とは異なる価値体系を発見し、その差異から利益を生む人のことなのである。

剰余価値と利潤

 労働と商品の価値体系の差異から、剰余利益つまり利潤を得られるということは、労働とは商品との価値体系によって規定させると考えられる。
 なぜなら、資本家は利潤を得るために労働と商品の価値体系に常に差異が状態をつくりだしたいのであるから、商品の価値体系に比して労働の価値は常に低くしなければならないからだ。

 よって、労働力から利潤を得られるため同じ生産量を維持できるなら労働力を増やした方が、利潤はさらに大きくなる。
 しかし、労働者が少なく、産業の機械化が進んだところでも、利潤率は変わらない。その理由をマルクスは、総剰余価値が、それぞれの部門で利潤率が均等になるように、配分されているからだと考える。

 例えば、車を作るための機械を買ったとしよう。その機械は商品であるが、買う側は値下げさせて売らせようとする。結果として、値段が安くなったらその機械を作った人の労働から利潤が生み出されていることになる。
 つまり、究極的に生産者の労働価値が低くなる。

 このようにして、直接的に労働から利潤を得ていない場合も、間接的に利潤を得ることができる。これにより、利潤率が配分されるのである。

 なにはともあれ、資本を得るためには、労働の価値を低くしなければならない。そのために、商品の価値体系を高める必要がある。

資本は総体として、剰余価値を獲得するために、たえず労働力の価値をさげるような価値体系を創出しなければならない。だが、それは資本の思うようにはできない。それは……景気循環を通してしかなされないのである。

同上 p.380

 商品の価値を高めるのは、技術革新である。それにより、大量生産が可能になれば、利潤も増えるからである。では、技術革新はいつ起こるのか。それは不況のときである。

 好景気のとき、資本家は現状を変える必要性がないので労働の時間を延長を行う。それにより、技術力はそのままである。また好景気には利子率があがるために、機械に投資する割合が減る。そのため、技術革新が行われていたとしても、それを運用することがない。

 しかし、労働力を使いすぎると労働者からの反発や、労働者の再生産(健康を維持し子供を産むこと)に問題をきたす。また設備投資もしないため、全体的に景気が下がってくる。よって不況が生じる。

 この時、政府は景気を戻すために利子率もさげる。ここにおいて、ようやく設備投資が行われ、技術革新が行われるのである。

 このような景気循環によって、労働力の価値が下がる価値体系を創出し、資本家は資本を得ることができるのである。

資本主義の世界性

 剰余価値は異なる価値体系の差異から生じることをこれまで説明してきた。その差異は、石油のような自然的な条件で決まることもあるが、産業資本においては、労働と商品の価値体系のように差異を自ら作り出すことに大きな特徴がある。
 資本主義の大きな特徴は、まさに差異を自ら作り出すことなのである。

 差異を作り出すことは、先に説明したとおり、労働と商品において行われていた。それはまた、国家間においても作られる。
 

先進国も後進国も世界資本主義の共時的な関係構造の中にある

同上 p.387

 世界は一つの関係構造である。その中に、先進国や発展途上国があるのである。この世界が一つの関係構造にあることを利用して、自国の利益を上げようとしたのが、植民地主義である。

 ヨーロッパは、世界各地に植民地を作り、そこで労働をさせる。植民地で作られた材料や部品を自国にあつめて、それを商品として売る。イギリスが世界の工場と言われたのは、この構造があったからである。

 植民地に価値の低い労働を任せ、自分たちは価値の高い商品を売る。そこで生じた剰余価値を自分たちのものにするのである。

 これは先進国と言われているすべての国に当てはまることである。先進国は発展途上国に価値の低い労働を任せる。より正確に言うと、剰余価値を得るために自分たちが作りだす商品よりも発展途上国の労働の価値を下げる。それにより、生じた剰余価値を自分たちの国民に分配しているのである。
 先進国の経済の成長が鈍化しても、裕福でいられるのは、この構造があるからである。

 マルクスの『資本論』は国という小さな領域だけではなく、世界という大きな領域から資本主義を見たことにより、この構造的格差を浮き彫りにさせた。そのため、国民経済学の批判という風に言われるのである。

 

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