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タコライス

 私は全く関係のない人たちの話を聞くのが好きだ。趣味が悪いのだが盗み聞きというやつ。フードコートの隣の席のおばあちゃん達、電車で正面に立っているサラリーマン達、ガストの隣の席のママさん達。私の存在など意に介さず彼ら同士で話している内容は実に面白い。私が人生でこれからもきっと出会わないであろう人たちの会話。それは間を埋めるための中身のない会話やプライベートすぎる話、愚痴に悩み、時には喧嘩など、多種多様な会話であり、そこからたくさんの想像が膨らみ、胸が躍る。
 約20年間、たくさんの会話を盗み聞きしてきた。そんな私は今日、電車でタコライスの話をする推定大学生の男女3人組の隣の席に座っていた。
女の子A「昨日夜ご飯何食べた?」
私は電車に乗ると不可抗力で発生してしまう親しくない間柄の人間達の、間を埋めるための身のない会話だろうなとその一言で感じていた。しかし事態はそう簡単には行かなかった。
男の子「タコライスだよ。ひき肉とトマトとレタスとチーズ、ちょっと辛いソースがかかってた。」
私「なかなか良いチョイスやん」
女の子B「すごいいいじゃん!私明日の夜作ってみる!」
私「適当なこと言うなよ」
そしてそのグループはタコライスの作り方を調べた。その時ふと男の子がある疑問を呈した。
「タコライスのタコってなんだろう」
私の体には衝撃が走った。タコライスにはタコが入ってないことは当たり前に知っている。しかし今の今までタコライスのタコを、あの赤い足がよく調理されているタコ以外のタコの意味で捉えたことがなかったのである。少し考えればそんなこと当たり前じゃないか。タコライスのタコには🐙以外のタコの意味であるということは。
 いったいタコライスのタコはどんなタコなんだ!?
 男の子「タコライスのタコはタコスのタコらしいよ」
 女の子B 「タコスライスでタコライスってことねー」
私のタコライスのタコへの興味は一気に冷めた。いかにも納得できるタコの意味じゃないか。いや当たり前やねんけどな。違うやん。なんか違うやん…
  言葉には宇宙のように無限に想像できる可能性がある。しかし言葉が一つの意味に限定されてしまうとその宇宙はたった一つのタコスにまで成り下がってしまう。
 ふざけるなよ。数十秒前まで私のタコライスのタコには無限の意味が広がる可能性を含有していたのに。タコスだと!ただのタコスだと!
 言葉に含まれる意味は無限に近い想像の可能性を秘める。時にはそれが誤解を与える。だからこそ言葉には繊細になり人に誤解を与えるような使い方を回避するようSNSに浸り切った現代社会では求められる。
 だが言葉の想像の宇宙の広がりも同時に存在していることを忘れたくない。櫻坂46の「無言の宇宙」という楽曲には、
 言葉の多さが邪魔をする 
 会話なんて最小限で 
 恋人達はいつも ただ見つめ合うだけ 
 静寂は美しい
という歌詞がある。これを私の場合は
「語りすぎることはかえって、意味を限定してしまう。だから表情に込められた無限の宇宙のような感情をお互い無言の中で感じていよう。感情や想いを語らないことは、悪いことじゃないんだよ。言葉では表せない美しさを感じていようよ。」
という解釈をしている。つまり限定されない、言葉では表されない無限に広がる美しさが表情には込められている。だから無言でいようよ。タコライスのタコの意味を知ってしまった私は、意味が無限に広がる美しさからタコライスに限定されてしまい、落胆した。いつかは自分でタコスライスに辿り着いたかもしれない。でもその過程には無限の想像ができたであろう。
 なんでもすぐに調べられるスマホを手にした人類には余白や広がりの美しさを感じられることが少なくなったのではないかと。そう思ってしまった。
 明日の夜、女の子Bはタコライスを食べているのかなあ。


いやタコスライスか…

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