愛についてかたる
私はいい大人だけれど『愛』というものをつい最近までよく解らないでいた。
よくわかっていなかった理由が判明した。
女装の東大教授、安冨歩さんの本『生きる技法』に書いてあった。
そうそうそれね!と思えた。
愛してるって、複雑な言葉だ。
とっても疑わしい。
私たちそれぞれの愛の捉え方が違いすぎて、言う方と、言われた方の解釈は皆、相違があるのではないか。
その愛はいったいどこからきているのか。
わたしの愛とあなたの愛と
同じ大きさなのか同じイメージなのか、それどころか、同じ方向性なのかも疑問になる。
愛とはひとりよがりなのではないかとおもう。
私は愛をめっぽう疑ってしまう。
愛ってなによ
大地は愛だ
これは納得する。そりゃ愛だ。
光は愛だ
そうだろう。光は愛だろう。
私にとって愛とは、大地や光のように
一方的に、その恵みを惜しみなく、しかも無償で与えて、享受する方にはそれがもはや当たり前となったりして、見返りも感謝も必要がなく、ただただ、そこにある、放出しているものだ。
というような事を言うなら誰だって『いやあそりゃ愛だわ』と納得するだろう。とても解りやすいとおもう。
では人間はどうか。
人間のシステム上、自我が一番優先される。
しかしながら、なにやらそれは絶対ではなくて、ある特定の場合においては、自我の優先が自分以外のものへとひっくり返るのではないか、という希望(期待)がある。そういう愛を期待する。
私はそんな愛しか認められないんだろうか
そんなもの、どこにあるの?
イエスキリスト?マザー・テレサ?マハトマガンジー?
聖人級の愛しか認められないこの完璧主義はどこからきているのか。
これが、私にとって困る疑問だった。
もっとフレンドリーでカジュアルな愛を認められたら、私は愛の多い豊かな人生になるだろうに。
どうしてそんなひねくれてんだ?
「すべては愛です」
ウンそうでしょう。森羅万象は愛かもしれない。
だけど…
なんか、そういうマクロな愛でなくて、手のひらに感じるような、ごく身近な愛が解らない。
いや納得できん、と思うこの頑固さよ。
いくら愛を叫んでも結局
火を生んだ女神のイザナミが死んで、愛しい人の死を受け入れられない夫神のイザナギが黄泉の国までイザナミを追って行き、妻に見ないでと言われたのに見てしまったその亡き妻の姿が腐っていたからといって一目散に逃げ出して、その夫の態度に妻も激怒して呪いをかけたり
人間(神だけど)全般のそういう所が『愛ってなんなの…ガッカリだよ』と思う。
私は愛を美しいものと信じているからこそ、人間の愛は疑ってしまう。
そう思っていた。
安冨歩さんは著作のなかで分かりやすく説明してくれていた。
ことは、簡単だ。
愛と愛モドキがある。
それは見分けがつきにくい。
世間では愛モドキこそ愛だと認識されているからだ。
愛モドキは、自分の足りない(と思っている)ことを人によって満たそうとする愛。
異性に、我が子に、友人に、アイドルに、自分の中の欠如を埋めるために求め、執着する。
そのために、自分に無い相手の美しいところ(学歴とかセンスとか強さとか)が失われると、怒ったり冷めたりする。
その美しさを手に入れられないとなると、また別のもので足りない部分を埋めようとする。
つまり、欠落から他者を愛する(執着する)
自己否定から生まれる愛、それが愛モドキだ。
私たちの中には愛と愛モドキがミックスされてグラデーションとなって混在している。
そして、愛モドキと本当の愛の別を理解するにはやっぱり自分の内面の問題だったんだ。
人を愛するには自己が自立していないと(自分自身を愛していないと)できないことだと、そういう説明に、『そうそう、そこね』と思った。
私は自分をまるごと認めて愛せなかったので、だから愛が不確かだったんだ。
なっとく。愛を信じられないのは自分を信じられないからに他ならない。
いや、こう書くと、それって聞きなれた話やん、いままでもそれは知っていたよね、と思う。
何度も見聞きしていて、知識としてはわかっていた。
けれど『それね!』と手を叩く納得感があるのは、私がいまようやく自分自身を愛しはじめているからだと思う。
自分のダメなところ、ダサいところ、情けないところ、ちっちゃいところ、エラそーなところ、まるまる受け入れつつある。
受け入れテストの様相で、文章を書いたり絵を描いてみたり料理を公開したりのアウトプットをしてみる。さらに歌でもうたって公開できたら怖いもん無しだ。
Facebookにもブログ情報を出してしまったので、過去の闇の人間関係からもアクセス可能となっている。想像するといつでも落ち込めるラインだ。
私はNOを言えないし、自己主張が弱く、誰にどう見られるかを感じながら行動する。
自分よりも周りの空気を優先するし、怒りや悲しみを表現するのも苦手だ。
自分を出すことをためらい世間にあわせるので、疲れるから世間に出たくなくなる。
ついガードを緩めがちなところ、身内や愛すべき人へは歪んだ態度をとってしまいがちだ。
とくに、男性関係に対してはもう無茶苦茶だ。
その弱さを本当に自己嫌悪していた。
自己嫌悪をなくせば、もっと沢山のことが愛しく思えて豊かな気持ちになれるだろう。
長くなりました。
今日もお疲れ様です。