信憑性のない教育神話:アヴェロンの野生児とアマラとカマラの物語がいまだに引用される理由
レトリカ教採学院(教採塾)、学院長の川上です。
アヴェロンの野生児やアマラとカマラの事例は、2024年現在でも教育心理学や発達心理学の入門書に時折、引用されていますが、その信憑性には多くの疑問が残っています。
これらの事例は、科学的根拠が薄いにもかかわらず、なぜ引用され続けているのでしょうか。
その理由として、これらの事例が「人間の教育には人間が必要である」というテーマを強調するために、教育の本質を象徴的に表すものとして利用されている側面があると考えられます。
アヴェロンの野生児ヴィクトールは、社会的な接触や教育を受けないまま、幼少期を過ごしたことで、言語や社会的能力を発達させることができず、教育者ジャン=マルク=ガスパール・イタールの指導を受けても、十分に人間らしい成長を遂げることができなかったとされています。
この事例は、特に教育の必要性や「臨界期仮説」を示すものとして強調されています。
しかし、ヴィクトールが完全に人間との接触がなかったかについては疑問が残っており、事実としての信憑性は低いものの、教育の重要性を象徴的に示すためにしばしば用いられます。
同様に、アマラとカマラの物語も「オオカミに育てられた子供たち」として広く知られていますが、シング牧師の報告には、誇張や虚偽の要素が多く含まれていることが現代の研究で明らかにされています。
それにもかかわらず、彼女たちが「人間らしさ」を取り戻すために教育を必要とした事例として、入門書では教育の意義を説明するために引用され続けています。
これらの事例が繰り返し引用される背景には、人間の成長や発達には、教育という外的な要因、つまり他者との社会的な接触や人間的な環境が不可欠であるというメッセージが強く関連しています。
人間はただ自然の中で生きるだけでは「人間」としての性質を身に着けることができず、教育を通じて初めて社会的存在としての人格や能力を発達させるという強調があります。
この観点から、野生児の事例は、教育がいかに重要であるかを象徴する物語として利用されているのです。
しかし、信憑性の乏しい事例を事実として紹介し続けることには問題があり、誤った理解を生む可能性もあります。
これらの事例を入門書で引用することは、教育の重要性を強調するために使われる一方で、学術的な正確さに欠けているため、批判的な視点が必要です。
教育の力を強調すること自体は重要ですが、それを支える物語が事実に基づいていない場合、その教育的価値も疑問視されるべきです。
まとめると、
アヴェロンの野生児やアマラとカマラの事例が、いまだに入門書に引用され続ける理由は、教育の本質に迫る象徴的な力を持つからです。
人間が教育を通じて、社会的存在になるというテーマを強調するために利用されるこれらの物語は、信憑性が薄いにもかかわらず、教育の必要性を考えさせるために引用され続けているのです。
しかし、それらの事例に依拠する際には、事実と象徴を区別し、教育の本質を考える上での誤解を招かないようにする必要があります。
教員採用試験を指導するほとんどの講師たちは、これらの事例をただ単に、暗記、マッチング方式、穴埋めなどで教えるだけです。
しかし、批判的思考なく、また、それぞれの事例の信ぴょう性を知りもせず、本質を理解もせずして、ただ単に暗記、マッチング方式、穴埋めで指導しているだけでは、話にならないのですよね。
学ぶ方も、いずれ教壇に立ったり、いま既に、講師として教壇に立ったりしているのですから、批判的な思考や、本質を見極める力、また、客観的な情報分析・収集能力なども身に付けていただきたいものです。
教師自身が、アクティブな学びをせずして、子供にアクティブラーニングをさせることなんて、できるわけがありませんからね。
ではまた!
レトリカ教採学院(教採塾)
学院長
川上貴裕