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悩みを持つ人必見!マンガ『サチのお寺ごはん』の名言で考える自分とは
今回は単行本:全13巻で完結し、2017年にドラマ化された作品である『サチのお寺ごはん』より、僕自身の価値観や経験を通して心に刺さった言葉を厳選して紹介したいと思います!
note休載からの復帰第1号に選んだ『サチのお寺ごはん』は、僕にとって思い入れのある特別な作品で、2015年の連載時期に当時1番の悩みだった「偏食」を解決したいと思って料理教室に通ったり、グルメマンガを買い漁っていた時期でした。
食事に全く興味がなく自分の食べられるものだけを気軽に食べていたい思いに反して、人間関係を構築するために接待の会食やデートでのランチ・ディナーなど、食事が求められることが苦痛でしかたなかった僕の心を軽くしてくれた作品でもあったので、復帰第1号の記事に「サチのお寺ごはん」を選びました。
僕は普段の生活の中で、辛いことや嫌なことで落ち込んだり、気分が乗らないときに少しでも気持ちを前向きにする“きっかけ”や「こんなふうに考えることができなかった!」ということや「こんな捉え方があるんだ!」と、自分を見つめ直す“きっかけ”になる言葉とマンガを読んでいて出会うことがあります。
この記事があなたの“きっかけ”の1つになってくれたら嬉しいです。
サチのお寺ごはん 概要・感想
この『サチのお寺ごはん』という作品は、グルメ&ラブストーリーの物語かつ、主人公がお寺の住職さんの作る料理を通じて前向きになって変わっていくお話しであることが個人的にオススメしたいポイントです。
27歳OLのサチ(幸)は、幸の薄い人生を送ってきた経験から「人生、期待したら負け」を座右の銘にして暮らしていますが、ひょんなことから縁泉寺というお寺の住職さんやその友人たちと出会い、お寺でふるまわれる精進料理や励ましの言葉に心を動かされながら、仕事に料理、恋愛と生活が少しずつ変化し成長していく様子が描かれた作品です。
サチの悩み事や困り事の多くは、僕たちの現実世界で多かれ少なかれよくある、職場や人間関係あるあるだったりするのでとても共感しやすいですし、そのすべてに共感まではしなくとも、何かしら心の隅に追いやっていたものに思い当たる人が多いのではないかと思います。
そしてそのさまざまな悩み事や考え方に住職の源導さん(本名は深山導陽)が伝える言葉はアドバイスにしては少し重ためで、心の奥底までズンとくるものがありますが、「たしかにそうだよなぁ~」とか、「そう考えてみると気持ちが楽かも…」と思えます。
また僕は普段からなかなか自分の弱いところを家族に見せることができず1人で抱え込んでしまいがちになるのですが、サチは自分の1番情けない姿を見せられることで寄り添ってくれる人が現れているのかもしれないなとも思わされますし、もしかしたら僕自分も気づいていないだけで、僕に寄り添ってくれている人や人生に必要なものは既に手にしていたり、近くにあるのかもしれないと思わせてくれます。
日々の出来事は自分の目を通して見ているからこそ自分中心で捉えてしまいがちですが、自分の心の中で捉え方・考え方を変えてみるだけで全く違った感じ方ができることに気づかせてくれますし、自分が辛い状況のときにすぐ近くにいてくれる人がいるとは限らない環境でも、この作品を通じて気持ちを落ち着かせてくれたり、自己解決させてくれちゃったりする作品ですので、ぜひ興味のある方は読んでみて損はないと思います!。
サチのお寺ごはん 名言10選&共感ポイント
この記事は『サチのお寺ごはん』©かねもりあやみ(著)・久住昌之(原案協力)・青江覚峰(監修)/秋田書店 の内容を引用しています。
仏教では“こだわりを捨てろ”といいます。それはこだわるまいと思っていても、どうしても残ってしまうからです。こだわりが無いというのならば、何故そんなにつらそうな顔をしているのですか。あきらめてこだわりがなくてと、目をそらしているだけでそれこそ一番のこだわりがあるんじゃないでしょうか。
一体、こだわりって何なんでしょうね…(笑)
学生時代は哲学や心理学に興味を持っていろいろ学んできましたが、気持ちがこもっている思い入れのある状態もそうですが、気持ちが冷めて完全に切れたと思ってもどこかモヤモヤしたものが残っている状態も「こだわり」があるのかなと思います。
僕は基本的に「こだわりの塊」&「自分の意見は曲げたくない」コミュニケーションを取るうえでは柔軟性のない最悪のパターンだったりしますが、こだわりを突き詰めていった先の快感もあれば、柔軟さを取り入れなかったことや取り入れたことで起きる変化への後悔や寂しさを感じることもあります。
特にビジネスやクリエイティブの視点では「こだわりがない=自分(の意志)がない」ってことなんじゃないかとも思うんですが、この考え方もまさに「こだわり」なんだろうなと考えると、「こだわらないこと」って悟りを開いているんじゃないかと思うんですよね。
そして僕の家庭には、何に対してもこだわりがなく、その時・そのままを貫いていく人がいて、その存在に強烈な憧れがあったり、ふとした会話でハッとさせられることを思い出すと、改めてこういう生き方っていいなと感じさせてくれる言葉でした。
そんなに自分を卑下することはありませんよ。誰だって周りと比べれば自分は劣っているところばかり目に付きますし、がっかりしてしまいます。人と比べてしまうから自分が劣っていると感じるのです。そうは言ってもついやってしまうのが人間。そういう時は自分が比べられていることも想像してはどうでしょう?
比べられることで相対的に自分の評価や自分の立ち位置を知るようにも思いますが、「人間性・人間力」みたいな部分で(尊敬される人になるためにみたいな視点で)、「人から見られていることを意識してください!」と、新入社員や学生さんに伝えています。
また相手の悪いところが目立ってイライラしたりするときには、まずは「相手のいいところを見つけましょう!」と研修などでは習いましたが、まず自分の気持ちを落ち着けるために「相手のできない○○ができる自分ってすごいんだ!」と、謎の自己肯定感・モチベーションを爆上げする思考で気持ちを前向きにしてから、相手の優れているところを冷静に見て褒めてから気になることを話すようにしています。
この話を友人や同僚にしたときには「バカなんじゃないの?」と言われましたし、この10選で選んだ名言として、作者の方が伝えたいニュアンスとはたぶん違うんだろうなと思いながらも、僕にとって「自分が比べられている」ということは、それだけ周囲に影響を与える力を持っている人でもあるんだよ(安心していいよ/気をつけてよ)って意味が入っているんじゃないかと考えさせてくれる言葉でした。
人生はあなたの思い通りになんてなりません。来るかわからない未来のことを考えるのは妄想です。妄想にとらわれて目の前のことがおろそかになりすぎです。
そうなんですよね…。思い通りにいっているようでいっていないし、全く思い通りにならないから辛くもあれば、面白いと感じることもあるんですよね。
そして辛いときのほとんどは、たしかに「来るかもわからないものを不安に思っている妄想」なんですよね…。
僕が社会人1年目のときに先輩から「とりあえずやってみて、そうなったときに考えろ。そうならなかったら心のゆとりも時間もムダだぞ!」と言われたことを思い出させてくれました。
不安になるのは当たり前。それでも勇気を持って行動に移せるかどうか、それは目の前のことに注力しているかどうかなのかもしれませんし、その場で困っているときの不安な気持ちを後押ししてくれる前向きな言葉のように思います。
人生を生きていくときは良いときばかりではありません。でも壁にぶつかることは決して絶望であるわけではないのです。大切なのは絶望して何もしなくなってしまうのではなく、壁に向き合ってうろうろすることです。じっくり壁の登り方を見つけるもよし、迂回する道を探すもよし、諦めて他の道を探すのもいいと思います。もしかしたら壁に先人が作ったドアがついているのを見つけるかもしれませんよ。
僕はこの「ドアかもしれない」って表現がとても好きで、学生さん向けの講話や社内研修などでも使っています。
たしかに絶望のように感じる高く分厚い壁を「壊そう」としたり、「よじ登ろう」としたり、壁に対して立ち向かう発想になりやすいですが、視点を変えてみると「横に移動すれば壁は低くならないのか」とか、「ドアがついていて通り抜けられるかも」とか、いろいろ見えてくるんですよね。
個人的にこの考えの面白いところは、自分の過去を振り返ってみて絶望を感じた出来事は今となってみるとどうだろう?って考えると、意外とこんなやり方があったんじゃないか?という発見があって、それは今後の自分にも活かすことができれば、同じように困っている人に伝えてあげることもできるんですよね。
なかなか自分が絶望している状況の中で、他者からのアドバイスは「あなたの場合はそうだったんでしょ?」といった感じで、余計なお世話というか聞く耳を持ちにくいものかもしれませんが、意外と良いヒントになっているかもしれないと思わせてくれる言葉だと思います。
私たちは身勝手で適当なんです。そのことをあれこれ言っても仕方ありません。仏教では『今、ここ、わたし』といって、生きるのはまさに今、ここにいる私なのです。今ここに生きている自分にちゃんと意識を向けて、やるべきことやりたいことをしっかりやりましょう!
1つ目の名言にあった「こだわり持たない」に似た悟りの境地に近い感覚かもしれませんね。
周囲に振り回せている感覚だったり、自分の思い通りに進めたい思いだったりは自分で創り出した幻想で、「いま・その瞬間に自分らしく向き合ってみること」って自分の限界値や自分にできる範囲、自分ならではの価値を俯瞰的に客観視できることだと思います。
ただ、いざやってみるとなるとなかなか難しくもあり、少しでも頭の片隅に、心の中に留めておきたいなと意識する意味でもこの言葉を選びました。
「僧侶は偉い」「例え参列者に総理大臣がいても、それよりも神座に座らせられる」「でも偉いのは“座”であって自分ではない」「僧侶として導師としてその責務を果たすことが偉いのだ。決して自分が偉いわけではない。」「しかし同時に、偉くないわけでは決してない。」「だから必要以上に卑下してもいけない。それは自分を持ち上げる周囲の人に失礼になる。」「“座”が偉いんだ。その上で自分がどう振る舞うかをどうするべきか考えるんだ」ーーー…と。
「視座を変えて物事を考えてみる」という、研修などでよく話す内容に近いなと思い共感した言葉であり、また僕はこの言葉を出会ったときに、あなたはそのポジション(=座)に居させてもらってるだけで、決してあなたがメインではないんだよと言われた気がしました。
「ロールモデル」という言葉は僕の中で大切にしている1つの軸でとなっていましたが、この役職だから偉いとか、このポジションで関わっているから権限があるとか、「そこには他者ではなく選ばれた自分がいる!」という優越感に浸るのではなく、その座での自分の振る舞いが周囲にどう影響を与えるかで、また自分の座が変わっていくのだろうと考えさせた戒めを含んでいるように感じました。
初心とまでは言わずも、天狗になりやすい僕は常日頃から意識しないといけないなと思わせてくれる言葉でした
「待つ間が花」という言葉があります。「花」は最も良い時間の例えです。待っている間、あれこれと想像している時が結局一番楽しいんだという意味です。ご友人は待っている間ヤキモキしているかもしれませんが、後に見直してみれば結局その時がとても価値のある時間だったと思えるのではないでしょうか?
例えばモノを買うときなんかは、「どんな色にしよう、性能はどれくらいにしょう、あそこに置いてこんなふうに使おうかな…。」とか考えているときが1番楽しく、手元に届いた後は見慣れていくというか新鮮な気持ちがなくなっていくような気がします。]
大学を卒業して初めて入社した前職の自動車会社(カーディーラー)では、営業の気持ちのピークは受注時だがお客さまの気持ちのピークは納車時で、商談中から納車までにあれこれ想像してるときが楽しく、そのピークに達するまでに不手際があるとクレームとなって信頼をなくすから気をつけなさいと言われたことを思い出しました。
視点を変えて企画だったりモノづくりで考えてみても、目標を達成したときのやり切った感や満足感は一瞬で、すぐ次の案件に切り替えないといけなかったりしますが、「上手くいかないな」とか、「こうしたらどうなるかな」とか、「こんなふうに使ってもらいたいんだよね」とかと想像しているときは大変でヘトヘトになりながらでも充実していて、最高に楽しかったりするんですよね。
その時点では辛く、苦しく、もがいているかもしれませんが、振り返ってみたら意外とよかったなって思えるかもしれない心構えを教えてくれるような言葉かもしれませんね。
私たちは社会の中で人と触れ合って生きている以上、人に迷惑をかけずに生きることはできません。だとしたら「人に迷惑をかけているのだから感謝して生きよう」と考えた方が良いのではないでしょうか。お互いが迷惑と思わない人間関係をしっかりと築きながら生きていくことが大切だと私は思いますよ。
この言葉を見たとき、子どもが生まれてからたくさんの人に「ご迷惑をかけてすみません」と謝ったり、「今めちゃくちゃ迷惑だろうな」と周囲を気にすることが増えたなぁと思い返しました。
ただ、謝ることが悪いのではなく「協力してくれてありがとうございます」みたいに、謝罪ではなく感謝に変えるだけでも自分の気持ちが楽になったり、後輩や部下が謝って来たときも自分も迷惑かけることがあるからなと内心思いながら「○○さんの意志を通してやったことだから謝らなくていいよ」と気持ちにゆとりを持って言えたり、お互い様の関係を築けるといろんなことがスムーズになるように感じます。
自分も迷惑をかけているという自覚と、謝罪ももちろん必要だけど感謝することも大事ということは忘れてはいけないなと思わせてくれる言葉でした
それは全て「あなた」が「勝手に」信じていただけです。もっと言えばあなたが都合良く「相手はこういうもの」だからと考えていたに過ぎません。私たちが勝手に信じているものは、次の瞬間に無くなってしまうかもしれない。そうでなくとも自分が死ぬ時はそれら全てを失って、この体も心も捨てざるを得ません。「信じる」と自分が思った瞬間から、それは火のついた家に入り込むようなことなのです。
突然ですが、僕は「期待してる」という言葉があまり好きではないです…。
なぜかというと「期待=そうなる時期を待っている=そうなってくれたら嬉しいけど、そうはならないかもしれないかもな」という、異常にひねくれた考えを持っているからです。
そしてそう考えると「君に期待してるよ」なんて言われたら、「それって最悪、ダメなんだろうなって気持ちが含まれてるんでしょ」って捉えちゃうんですよね。
だからこそこの言葉は本当に芯を食ってるというか僕にある価値観に合っていて、「人に物を貸すこと=返ってこないことが普通」で、なぜなら火のついた家に飛び込んだからなんですよね。
でも僕はそう思っていても、困っている友人や助けたいと思った人に手を差し伸べることがあります。
それはこの人に騙されてもいいからって思いがあり、そこまでしてでも後からの見返りという損得勘定なのか、それまでに助けてもらったという恩義なのかわからないものに駆り立てられます。
そんな僕の価値観を納得させてくれた言葉でもあり、「相手は変えられないが自分は変えられる」という言葉を体現しているようで、とても好きな言葉でした。
「幸せ」と感じることは一時的な感覚であることが特徴なんですよね。ですからその「幸せ」が変化したり終了したときは、あたかも突然不幸に見舞われ苦に苛まれたように思ってしまいます。仏教では悲しみなどのもとである「苦」を取り除いた先にあるものが「幸せ」だと考えます。
よく漢字の例え話しで、幸せという字から一を引くと辛いという漢字になり、幸せと辛いは紙一重とか表裏一体なんて言われますよね。
僕は「辛いときに誰かに一言励まされたり、一人の信頼できる人と繋がったりと、何か一つ付け加えると幸せに感じることがあるのではないか。辛という漢字に横棒の一を足すと幸になるように。だからちょっとしたことで状況や考え方を変えることは可能だ」という話を聞いたとき、そんなことはないと強く思ったことがあります。
絶望で悲しみに打ちひしがれたとき、どんなにポジティブになる一をもらっても、幸せや幸福のような感情になれず、1年以上もがき苦しみました。
興味がある方はコチラの記事に詳細がありますのでどうぞ。
たしかにきっかけとなったのは友人の一であったり、マンガの言葉であった一だったかもしれませんが、この言葉の最後にあるように、時間をかけて少しずつ「苦」を取り除いたり慣れていった先に、小さなことでも「幸せ」を感じられるようになったと思います。
幸せと辛いは〜の話を否定したいのではなく、僕の経験上では苦しみを取ってあげることが大事なんだと思えたんです。
なので職業柄、カウンセリングなどを行いますが、そのようなメンタルケアに関わるときは根本にある苦しみを気にかけるようにしています。
もちろんトラウマになっていて話せない方もいて、無理に聞き出すようなことはしない精神安心上の配慮をしながら、探るという表現だと誤解を生むかもしれませんが、気にかけるようにしています。
それだけ僕の中で、大切な人や支えたい、寄り添いたい人が幸せを感じられなくなっていたならば、一時的な幸せを感じてもらいたいのではなく、長く続く豊かな気持ちになってもらえるようにと教訓のように響いた言葉でした。
まとめ
いかがだったでしょうか。
個人的に僕のヤバめな価値観が垣間見える表現が多い共感ポイント内容になってしまいましたが、『サチのお寺ごはん』の魅力&自分を見つめ直すきっかけになりそうな言葉は伝わったでしょうか?
学校や会社、いろんな組織、団体などに所属していて、「落ち込んでいるとき、疲れているとき、悩んでいるとき、そして、少しでもあなたが夢に向かって突き進むとき、壁が現れたとき、壁を乗り越えるとき」に、物事の見え方が変わるヒントを見つけてもらえたら嬉しいです。
それでは今回はここまでです。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。