小説はデジタルタトゥーなんじゃないか?
デジタルタトゥーという言葉があるように文字は自分の身体に刻み込む刺青だと思っている。
一語一語が自分を傷つけるし言葉の針が相手に向けば相手が傷つく。でもそれが線になって絵になって身体に表れた時その模様や鮮やかさに人はハッと息を呑む。
文学を書く事にはそれだけの力があると信じている。
ジャックドーシー氏の最初のツイートをNFTにしたものが数億円で売れたように言葉はたとえそれがインターネット上であってもふさわしい人がふさわしい時にふさわしい形で表現すればこの世界に何かしらの爪痕を残せる。その爪が刺青のように深く突き刺されば出血を伴って皮膚を作り替えることができる。
人間だけが言葉を持っている。聖書も「はじめに言葉ありき」という。ブッダも言葉によって教えを説いた。人間だけが想像力を持ち言葉を使うことができる。文学を読むことは言葉について考え語るためのボキャブラリーを増やす行為だ。だから本は読んだ後消化して自分のものにしないと意味がない。
読む行為の究極の表現の仕方が本を書く行為だと思う。僕は彫り師のように身体に言葉の刺青をいれながら地球の重力に耐えようとしている。重力に逆らえるのは神と仏だけだ。僕は人間のまま重力に立ち向かっているのかもしれない。ペンのインクの先に重力を集中して原稿用紙に彫り刻む。その愉悦は凄い。
今僕が書こうとしているのは青年によるリアルな日常だ。どこにでもある何気ない日々かもしれない。でもそれは刺青のように危うさを持って僕に立ち向かってくる。僕は無抵抗でその青年の過ごす現実を受け入れる。彼は生き残るのか死ぬのか僕が自由に決めていい。作家を目指す訳は言葉が永遠に残るから。
人類がこのまま発展し続ける限りその人が発した言葉はデジタルの海に漂い続けるだろう。本はいつか朽ちるがデータの油田に文学は残る。誰がいついかなる時そのデータを発見するかわからないが死後も価値を保ってその人の文字は埋葬されている。テレビとウェブはいずれつながる。そこは本も映画もある。
デジタルタトゥーの作品群を彫り師のように作り上げている人が認められる世界がいずれ来るかもしれない。
淡い期待を持ってiPhoneのメモに墨を入れ続けている。
芥川龍之介賞という頂きにのぼるまでは傷が絶えないだろうがいずれ受賞する作家になれる気でいる。
修行も終えたし後は傑作を書くだけだ。