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時間について

私は以前はよく時間に遅れていた。

いつもどうやって準備していたのか、今思うと不思議なのだけれど。

なんだか、とても時間の観念がゆったりしていた。


そして、海外暮らしが長くなるにつれ、なんだかいつもせかせかし始めた。独立しているといえば、いい面もあるのかもしれないけれど、常に警戒心が強まって、頑張っている感じになった。断捨離が好きになり、どんどん身軽になって心地よく軽快に動けるようになった。これはいいことだ。

結婚した男性は、とても時間に正確だ。

行動がすべてとても素早い。あっという間に、家事も仕事も、買い物もこなせる。約束時間には必ず人より早く着いている。これはとても良いことだ。歩くのも速い。すべての準備も速い。素晴らしい。

ただ、困ったこともある。もともとのんびり屋だったはずの私は、すべての場面でとても急ぐ癖がついた。家を出るときにのんびりと1時間もかけていると、急かされるのだ。いや、最初のうちはそう感じていたけれど、途中から、私の準備が早くなりすぎたと言ってもいい。そして、私は私でいろんなことを改善したし、彼は彼で多くのことを妥協したり学んだりして、夫婦のリズムが出来上がり、だんだんと私を急かさない努力もしてくれている。だから、私は急ぐ必要が全くなくなったはずなのだ。それなのに、今では準備が早すぎるのだ。

あんなにのんびりと、お茶を飲んだり、お風呂に入って髪を乾かしたり、服を選んで、カバンの中身を見ていたはずの私が、今では、さっとコーヒーを飲んで、15分もすれば、髪をとかし終わり、メイクもして、着替えが済んでいたりするのである。

これはこれで、いいことだ。お風呂は夜とか午後に済ませればいいし、すっきりとした気持ちで準備が終わる。

時には、夫より先に準備が済んでいて、その後でちょっとメールを見たりして、ちょっとだけ何か食べてのんびりできる時間まである。

でも、やっぱりそれでも早すぎるのだ。

約束の時間よりずっと前に着いてしまう。


出先のカフェやベンチ人を待っているのは、嫌いではない。かえって集中して読書もできるし、いい時間なのだが。それでもちょっと私らしくない。のんびり屋の私よ、一体どこに消えてしまったのだ。

若い頃、列車の時間までに大きな駅に行くのは、苦手分野だった。ところが今では1時間前には駅で待機してしまう。大きな駅はホームまで遠いし、これはこれでいいことなのだ。でも、なんだか、待ち時間が長すぎやしないかとも思う。

仕事のイベント準備などでも、プログラム、会場、宣伝を半年も前に決めていたりする。それはそれで、何かがずれている。内容の準備は早すぎるのもダメなのだ。

料理もきっちり決めてしまったら、もう予定通りにこなしたい。迷うのが嫌いなのだ。変更も面倒だ。

でも、これでは予定を立てて、ひたすら、その通りに遂行されなければ、何かいつもイライラしている。という状況が生まれる。

何だか、いつもイライラしている女性が出来上がる。

もう少し、のんびりとマイペースなのだけれど、何もかもが心地よく進むから大丈夫という信頼が欲しい。自分へも周りの人にも、警戒心が強すぎて、なんだか緊張しているのだ。完璧主義の人に似ているかもしれない。警戒心は、周りの人にも伝染する。

そんな時「予定調和をわざとずらす。」と言っている人がいて、かなり驚いた。完璧主義とは、その人にとっての完璧でしかない。

創作活動する人にとって、完璧とは何か。どの段階が絵の完成なのかは、その人にしかわからない。

料理の味が濃いのが好きな人もいれば、薄い方がいい人もいる。

すべてのことは、完璧なんてないのだ。その人が勝手に思い込む完璧があるだけだ。

この人に批判されるかもしれないという警戒心。

イベントに人が集まらないのではないか。成功しないのではないか。評価されるのか。という警戒心。

賞賛されなければ。好かれなければという警戒心。


遅刻したらどうしよう。という恐れ。

いろんなものを全て手放して。

もう少しゆったり、自分らしく。のびのびと。

時間と自分の勘を信じて、インスピレーションを待とう。その時その時で、必ず一番ベストなメッセージがくる。


そんなにあくせくしなくても大丈夫。

のんびり、ゆっくり歩いて大丈夫。

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