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ロング・ロング・ロング・ロード Ⅰ 十勝の空 編 10

 「おい、おい。獅子王、目を覚ませ。獅子王」

 誰かの声が遠くから聞こえてくる。あまり聞き馴染みのない声だ。しつこい。五月蠅いんじゃ。もうこれ以上俺に関わるな。もうこれ以上俺を傷付けるな。もうこれ以上、俺に生きることを求めるな。もう静かに眠らせてくれ。
 結局、俺は、運を持っていなかったんだ。だから俺は、一番可愛がっていた弟分に、どさくさに紛れて撃たれたのだ。人間なんて信用するもんじゃないと、俺は常々自分の口で言葉にしてきたのに。馬鹿は死ななきゃ治らないんだ。もう、ほっといてくれ。
 「大丈夫ですか?獅子王さん。獅子王さん」
 何があった?あれ?病室じゃあなかったのか?どうして、こいつらがいるんだ?あれ?俺はパクられたのか?どういうこっちゃ……。
 「おい、獅子王、しっかりしろ」
 あれ、相棒は?
 俺は、何故だか地べたに寝転がっていた。草の匂いに身体中が包み込まれている。
 首を捻って周りの状況を確認した。海と森の間にいるらしい。そして相棒は誇らし気に立っている。やっと状況が理解出来た。俺は意識を失っていたのだ。やはり疲れが溜まっていたのだろう。よりにもよって、こんな時に噴き出して、近頃見ることのなかった夢まで見るなんて。またあの思いがぶり返してしまう。そうだ、俺の読みは間違っていたのだ。
 “死んでいた方が良かった”
 あの夢のあとは、いつも俺に、自分自身の不幸と不憫を自覚させる。今もそうだ。あれ以来、俺には疫病神がつきまとっているんだ。
 「大丈夫ですか?」
 津田が心配そうに見つめている。
 こんな時はどういう顔を作れば良かったのだろうか?
 「大丈夫かい?」
 あの川口も心配そうな顔をして覗き込んでいる。
 なんと言葉を発すれば、彼らは安心するのだろう?継接ぎだらけの言葉を並べてみる。
 「ああ、大丈夫。ごめんごめん。ちょっと疲れてたみたいやなぁ」
 俺はそう羅列して、川口の手を借りてゆっくりと立ち上がった。身体のどこにも痛みはなく、どこにも傷はなかった。本能的に手から転がり落ちていたようだった。倒れた地面が草むらだったので、右手の掌が緑色になっていた。
 「びっくりさせんなぁ。ゆっくりと前のめりに崩れてったから、死んでんのかぁと思ったべ」
 川口が軽く怒り気味に言ったが、過去にそういう死体を見た経験があるのだろう。感じているほど川口は悪い奴ではなさそうだ。そう思うと、少し身体が軽くなった気分だ。
 Uターンをしていて正解だった。スタンド側に倒れたので、俺も相棒も無傷だった。不幸中の幸い、本当に奇跡みたいなものだ。ラッキーだ。もし逆側に倒れていたら、俺の身体の上に相棒が圧し掛かってきてもおかしくない状況だ。いや、奇跡だ、ラッキーだとのたまっている場合ではなかった。ツキのなさは変わりがなかった。自分でやれることはなくなった。これから先は警察の捜査次第で、右にも左にもなる。気持ち的に帯広のホテルまで帰るのが億劫になっていた。
 「どうしてここに来たのか、話してもらえますか?」
 タンクバッグから取り出したお茶で、顔に出せない落胆の色を喉に流し込んでいる俺に、津田は唐突に尋ねた。
 「それは、多喜川の車があると思っていたから」
 「お、おい、さっき頭打ったんでないのかい?」
 川口が俺を心配している風に嫌味を言うその横で、津田は俺の顔をじっと見るふりをして、もっと遠くの自分の意識の世界を見つめている。
 やっと、津田の考えがまとまったらしい。
 「詳しく話してくれませんか?」
 「その前に、松村が殺された時刻は、もうわかってるん?」
 「あんた、一般市民が……」
 津田は片手で川口の言葉を制した。
 「三日前の午前十一時から十三時の間です」
 「そうか……」
 その間の俺のアリバイなら、道の駅にあるカメラやコンビニや店舗にある防犯カメラ、なんなら道路にあるNシステムが証明してくれるだろう。しかし、首謀者が俺で、共犯者に殺害を実行させたなんて読みをされているのなら、俺への監視はなくならない。あとは本当に神頼みだ。
 もう無駄なことはよそうかと思った。だが、本物の刑事に自分の推理を披露するなんて、ドラマか小説の中の話だと思っていたことを、今、これから経験するのだ。冥途の土産に、長い間敵視していた警察と仲良く推理ごっこ。それも一興だ。
 「ちょっと長なる無駄話やけど、付き合うてくれるかな?」
 津田は無言で頷いた。川口は津田が頷いたのでしかたがないといった風だ。
 もう一口お茶で潤いを持たせた。大昔に観たテレビや映画に出てくる素人探偵のように、台本のない状態の俺が上手く話せるかどうか……。 
 「俺と襟裳岬の土産物屋で揉めた松村達は、そのあと様似湖に向かった。そこで、さっきの川口さんのように……」
 俺?って感じで川口は俺を見た。 
 「そう、さっき豊似湖で高そうなカメラを首からブラ下げたじいさんとすれ違った時、津田さんは、ちゃんと人物を確認して挨拶を交わしたけど、川口さんは、足元に気を取られてて、そのじいさんの顔を見ることなく返事を返していた。そうやったよね」
 「そうです、川口さんは少し横柄な所がありますから。けど、根はイイ人ですよ。川口さんは」
 津田が困り顔した川口を見て言った。
 こんなにも表情豊かで、よく刑事が務まっているものだと、俺は川口に感心した。もしかしたら北海道という土地柄が、こういう刑事を生んでいるのかもしれない。
 「松村も、川口さんと同じことをしたんでしょう」
 「同じこと?」
 「なるほど、犯人は松村さんとわかっていて声をかけた。しかし、若い女性に気もそぞろだった松村さんは、単なる通りすがりに良くある挨拶だと受け流したというのですね。しかし、それが『襟裳で会った奴』の言葉につながるとは到底思えませんが」
 これは俺へのアシストだ。
 「もちろん、あかの他人ならありえません。けど、松村が会った人間は、北海道に土地勘のある、松村のことをよく知ってる人物です」
 「そったらことあんた……」
 「北海道に住んでいる仕事関係者。年齢は松村よりも上」
 津田はただ話を聞いているという風で、川口は津田を横目で見て少し不満気だ。
 「公衆電話からの発信には、テレホンカードが使われてたみたいですね」
 俺は川口の顔を見て言った。川口は悔しそうな表情を押し隠していた。
 「松村は知人である犯人を認識せんまま帯広のホテルに移動した。犯人は、久し振りに訪れた豊似湖で、まさか大阪にいるはずの松村に会うやなんて、思ってもみんかったんとちゃうでしょうか。松村が女連れやったこともあってか、夜にでも電話をすればいいと思いその場を立ち去った。犯人は襟裳の町に宿をとっていた。松村が北海道にいるなら会って話をしたいと思った。自分の携帯から電話をかけようと思ったけど、何らかの理由があって庶野の公衆電話を使うことになった」
 「なして、道内の人間だとわかるんだべや?それも襟裳に泊まってるっちゅうんわ。住んでるんかもわからんべや」
 「襟裳じゃ人をかき集められんでしょ」
 「人?」
 まだ警察の知らない情報なのだろうか、津田の表情が引き締まった。
 俺はその表情から、徳永から仕入れた情報は出さずにおこうと決めた。多喜川から得た情報だけでも、二人を充分納得させられるだろう。尾塩組と繋がりのあるヒューマニズム・オムの角脇。角脇という名前には、どこか知っている感じがしていた。東京の霜島組の北里がやってる中抜き仕事が真っ当だとはいえないが、普通の人間がやりたがらない仕事だ。けど、誰かが必ずやらないといけないことなのだ。多喜川の車を見つけ出せず、多喜川が松村から預かったというSDカードの中身も知らない俺が、わざわざかき混ぜる必要もない。あとは警察がどうにかするのだから、俺は放っておくことにする。
 「松村の表向きの仕事は、多喜川が引き継いでいる建築下請けや職人の派遣です。けど、もう一つ、多喜川がタッチしてない仕事は、除染作業員を全国から集める仕事らしいです。それには花押会の高峰、センチュリー産興は関係ないんですわ。それやのに多喜川が早とちりして高峰に連絡をした」
 「そんな情報をどこで?」
 「多喜川ですわ」
 やはり俺は、多喜川のことが嫌いなのだと思う。二人は顔を見合わせていた。今の話をどう処理するべきかを各々思案しながら。
 「話を戻しましょうか。犯人が庶野の電話ボックスからかけたその時間、松村は屋台で飲んでいました。松村は屋台を出て、外で犯人と電話で話しました。そして、『今は旅行中なのに仕事の話はしたくない』『明日、会おうって、こっちは従業員連れて楽しむために来てるのに』『ちょっとだけなら』、そう、松村は話していたそうです。犯人は、その日しか予定が空いていなかったのです。松村も犯人と話さなければならない状況があったはずです。結局、犯人に押し切られる形で会うことになった。」
 津田からその話を聞いていたことを思い出した川口は、すべてに合点がいったようで、少し赤面しながら津田の顔色を窺った。
 「その翌早朝、『襟裳で会った奴に会いに行く』と言うて松村は独り、多喜川の京都ナンバーの白のセダンに乗って出て行った。犯人に会うことに不安はなかったんです。しかし多喜川には名を明かせないか、知られたくない相手やった。けれど、もし……」
 二人は次の言葉を待っている。
 「もし、松村が俺に会うんやとしたら、一人ではなく、多喜川も連れて行くでしょう。違いますか?」
 「ま、まぁ」 
 二人共関心が低い。なんでや?
 「そして、松村と犯人は多分、豊似湖の駐車場で待ち合わせたんやと思うんです。土地勘の無い松村が簡単にわかる場所と言えば、豊似湖やったんやと思うんです。多分、お互いに人に聞かれてはまずい話だったんでしょう。今の時代、誰に会話を録られたり、撮影されたりするかわかりませんからね。それに松村の方が立場が上やった。口で言いくるめる自信があった。その上、話がもつれた時には暴力で解決するつもりもあったんでしょう。自分一人でも力負けしない相手やと。つまり、犯人は単独犯です」
 二人共、真剣な表情で俺の話を聞いていた。
 「確証は?単独犯である確証はあるのですか?」
 「それはない」
 ほら見たことかと川口の顔が言っている。
 「複数犯で、はなから殺すつもりやったら、どっかの山にでも穴掘ってるでしょう。捨て所に困って、増水するやろうと曖昧な計算で河原に捨てるやなんてアホですわ。それに、相手が一人やったから松村は会いに行った。もし、犯人以外に誰かがいる可能性が1ミリでもあれば、松村はノコノコ会いに行かなかったでしょう」
 津田はじっと俺の目を見ている。
 「犯人は、朝の早い時間なら豊似湖の駐車場で大丈夫と踏んでいた。けど、そうやなかった。犯人も驚いたやろうねぇ。前日に随分整備されていて自分の知っていた頃の豊似湖とは様変わり。けれど、それは形だけであって、朝から観光客が訪れるスポットにまで変貌を遂げているとは思わなかった。そやから、場所を変えて話をすることになった。これは、豊似湖までの山道を走ってみてわかったんやけど、犯人は砂利道の終わりを左折せず、右折して国道に出たんでしょう。俺達が入った道です。そっちの方が交通量は少ないと犯人は思ったはず」
 津田は頭をフル回転させていて、川口はいつの間にかその横でメモを取っていた。
 多喜川の車がなかった今、メモを取る必要などないのに、と、思ったが口にはしなかった。まるで自分がドラマに出てくる名探偵にでもなったかのようで、ちょっと気分が良くなってきていたからだった。
 「そんで、俺ですわ」
 川口の目付きが少し鋭くなったが、津田は表情を変えずに聞いていた。
 「その日の朝、俺は宿から襟裳岬の下に降りて行った本当の先っちょ、浜辺まで行って、しばらくの間、海を眺めてました。それから土産物屋に寄って……」
 「何故、土産物屋に?」
 「宿を紹介してくれた人にお礼を言いに。けど、会えなかったんですけどね。それから、国道336号線を北上して、雨が続きそうやから、帯広に行くか、釧路に行くか悩みながら走って、まずは北海道らしい道でも走っておくかと思い、そこの道道1037号線を走ったんです。突き当りまでトロトロと流して、曇り空やったけど楽しくて、帰りは写真撮りながら、ゆっくりと走ってた。ちょうど、ここに入って来る交差点で、銀色の車が曲がったあと、俺の目の前を強引に右折した白い車があったんですわ。こっちはスピードなんか出てなかったから、ぜんぜん余裕で止まれた。前の車が『わ』ナンバーのレンタカー、そのうしろが京都ナンバー。しばいたろうかって、ちょっとイラッとしたわ。けど、気分良く走ってたし、旅も始まったばかりやし、まぁええかってなって。でも、何かチクリと胸に棘みたいなんが刺さった気がしたんですわ」
 「なして、あんた、それを昨日話さんかった?ああっ!」
 川口が血相を変えて俺の胸倉を掴む勢いで近づいた。それを止める津田の目も刑事の目になっていた。
 「しょうがないやろ。今日、そこの交差点に来るまで、車のことなんか思い出さんかったんや」
 俺は、川口の身体を胸で押しやった。
 「昨日、あんたが俺に多喜川の話をしたから、俺は多喜川を探し出したよ。このまま疑われたままやったら、俺の旅が台無しになる、自分で犯人探しせなあかんって思った。多喜川を詰めて色々訊いたよ。そんで、俺なりに仮説を立てた。それを立証してみようと思うたわけや。けど、あかんかった……。俺が見たんは別の車やったってことや。もし多喜川の車やったら、まだここに残されてるはずや。最初から殺す気がなかった以上、一人で二台の車は運転出来んのやからね」
 落胆している俺をよそに、津田が考え始めた。
 俺は、洩れかけた無念という言葉をペットボトルのお茶で喉に流し込んだ。あとはもう、彼ら警察にお任せするしかないのだ。俺のやれることはやった。
 「そろそろ帯広に戻るわ。俺は疲れた。変なことに付き合わせて悪かった」
 「なんもなんも。また話聞かせてもらうことがあるかもしれんから」
 川口は嫌味を込めて言う。
 「でも、私は、強ち間違いではない気もします。本部は多喜川さんの車の件があって、暴力団がらみの複数犯の線で動いているのですが、私も獅子王さんの読みに近い考えでした。だからあなたが動いて、何か見つけてくれると思っていたのですが……。もし、獅子王さん。あなたが見た車が多喜川の車だったとしたら、犯人にとって、その車が非常に邪魔になる。となると……」
 「津田さん、帰り道に車の中で考えましょう。あんた、もう帰っていいよ。あんたのアリバイの裏は取れているから」
 川口の運転する覆面が巧くUターンをして、砂利道をゆらゆらと走って行った。
 俺は少し呆気にとられていた。刑事二人に弄ばれた気分だ。しかし、怒りは湧いてこなかった。それよりも対象から外れてホッとしたのが正直な気持ちだった。
 気を取り直して、帯広で酒でも浴びるかと考えながらヘルメットを被っていると、二百メートルほど進んだところでシルバーのセダンは止まった。
 どうしたのだろう?と思いながらグローブをはめて相棒に火を入れた。
 俺が進み出すと、二人が車から降りてきて、津田は広く削られた森の方へと歩いて行き、川口は大きく俺に手招きをした。
 急ぎ気味に覆面のうしろに着くと、川口が大声で言った。
 「あんたも手伝え、手袋はいてるしょ」
 “はいてる?”頭の中でクエスチョンが飛び交うまま、相棒を停めてエンジンを切った。見ると、こんもりと山のように積まれている枯れ枝や枯れ草を、津田がどかしていた。
 右手だけグローブを外してヘルメットを脱いでから、もう一度グローブをはめた。そして、二人のもとに向かった。
 俺の中で違和感が破裂した。
 枯れ枝や枯れ草が積まれた山の手前に、轍が少し見えていた。
 二人に割って入った俺は、迷うことなくグローブをはめた両手でそれらをどかしていった。
 三人とも黙々と手を動かした。二人の刑事がはめた白手袋は茶色く変色していた。
 手前の積み重なった枯れ枝の奥には、深緑色のシートがあるようだった。
 夢中で枝や草をどかすと、薄手の深緑色のシートが露わになった。手で触れてみると、車の後部の形をしっかりと感じ取った。
 俺は高揚感に包まれていた。軽い興奮状態で、トランクの上の草木をどけて、地面に垂れたシートの端を俺と川口で持ち上げた。
 少しの空間のあと白色の塗装が見えて、もう少し捲りあげると多喜川に訊いた数字と同じ、京都ナンバーのプレートがはっきりと現れた。
 「あなたの読みは間違っていなかった」
 「なまら凄いな、あんたは」
 川口は掌返しでそう言うと、車に戻って無線で連絡を取った。
 車が全貌を現すまで、三人で十分とかからなかった。深緑色のシートは車体の後部で前部には迷彩柄のシートが使われていた。二枚とも地面に敷くレジャーシートで、どちらも大人が四、五人、充分に横になれそうな大きさだった。
 新品の白手袋にはめ変えた津田が助手席のドアを開けた。鍵は開いていた。
 誰もいない車内から、しょんべん臭ささが降りてきた。
 俺は多喜川が話していたSDカードのことを思い出したが、もうどうすることも出来ない。
 津田は、グローボックスから車検証入れを取り出して、車両が多喜川のものであることを確認したあと元に戻しドアを閉めると、急に俺に向き直った。
 「間違いなく多喜川の車両です。獅子王さん、これで、あなたの中で刺さった棘は消えましたか?」
 俺は無言で首を横に振った。
 「あちらへ行きましょうか。あとは鑑識が来てからです」
 津田に促され、赤色灯を回したシルバーのセダン横まで来た。津田は後部座席のドアを指差して言った。
 「変わりの者が来るまで、私達は動けません。よければうしろで休みますか?」
 「えっ、俺も?」
 「そうです。ゲソ痕も取らないといけないし、私たち以外の人間にもさっきの話を話して頂かないと」
 まったくだ。俺が警察に協力するなんて、世も末だと朝井もあの世で笑っているだろう。
 パトカーの後部座席はどうも気に入らない。チャイルドロックと名がつけられたものが、俺の自由を阻害する。俺はタンクバッグからコンロを取り出して、コーヒーでも飲むことにした。
 海風が緩やかに吹いている。防風パネルを立てて火の調子を安定させる。あっという間に湯が沸いた。ホテルにあったドリップパックを使い、コーヒーを点てる。なかなか良い香りがする。川口が無線でやり取りしている声が少し邪魔だったが、人が忙しく働いているのを見ながら飲むコーヒーも良いものだ。
 ーこちらからフクシマ班を向かわせるー
 「フクシマ班、了解。津田さん、フクシマ班が来るそうです」
 無線対応している川口の言葉が、俺の中に刺さっていたものがスポンと抜ける音がした。鼻腔で揺らいでいた香ばしく豊かな香りが、急に感じなくなった。
 「フクシマ!!フクシマや!!」
 「どうしたのですか?」
 「刺さってたもんがスポンととれた。フクシマや」
 俺は津田と川口に、銀色のレンタカーのことを話して聞かせた。
 十分ほど待って俺達三人は、三台のパトカーと入れ替わりに多喜川の車のある現場から離れた。またトンネルを幾つも潜らなければならないのが少し億劫だったが。
 とても気持ちが昂っていた。それはとても気持ちの良い昂りで、遠い過去に置き忘れ、とうの昔に捨ててしまったと思っていたものに似ていた。
 子供の頃、色んなものに触れる度に気持ちは昂って、そして誰かや環境に鎮められていった。こんな世界は嫌だと飛び出して、まだ純粋な正義感で満ち溢れていたあの頃、自分の持つ正義だけが通用するものだと思っていた。しかし、世の中にはいくつも向きの違う正義が存在することを思い知らされた。どれが正しくて、どれが間違っているのか?そのうちに巧くその隙間に嵌められた。落ちた俺に興味をなくした俺が築いた新しい世界は、掌を返して糾弾し、そのうちに俺の存在を抹消した。そして沢木に拾われて大阪に戻り、こういう正義もありなのかと思った。自分を守る為に自分勝手に生きる中で、どんどん、どんどん、毎日、毎日、自分自身の中の重要だった部分がすり減っていくのが実感出来た。昂ることは同時に闇を抱え込むようになり、もうすぐペラッペラな自分になり、そのうちに消えてなくなってしまうのではないかと思っていた時だった。
 あれがなければ、今のこの気持ちに出会えなかったのだと、長いトンネルを抜けた途端に思えた。
 もしかしたら、徳永に言われた「死ぬ時ぐらい綺麗な身の上で死ねよな」という言葉が、俺の中のどこかに張り付いて、徐々に拡張していっているのかもしれない。
 庶野の電話ボックスは過ぎていった。もうすぐ左折する。
 もう何度目だろうか、慣れた風景に感動は少なかった。だけど、無理やり口遊んでみた。Born to be Wildと。

 俺が宿に顔を出した瞬間、女将は俺を見て、「あんた、何をしたのさ。警察に追われてるっしょ」と大声で言った。すぐに津田が入ってきて手帳を見せたので、女将は口を半開きにしたまま、しばらく思考の中を彷徨った。
 まだシーズンオフのせいか、今日は宿泊客が一人もいなかった。ロビーのソファーで女将から話を聞くこととなった。 
 俺は、あの風呂場で出会った還暦近い男のことを訊ねた。
 男の名前は、高橋吉雄。63才。釧路で土建業をしていた。この宿には、国道336号線整備工事の時に来たのが始まりで、十五年来の付き合いがある上客だと、一緒に仲良さそうに写っている写真を見せながら女将は言った。
 写真は十三年前の夏の日付で、豪華な船盛の乗ったテーブルの左側に女将が、そして正面に高橋と妻、そのうしろで二人の肩に手をのせている、少しやんちゃっぽい風体の青年が一人息子だと女将が説明してくれた。
 楽しい家族旅行を切り取った一枚だ。
 高橋は、右側に写っている妻を十年前に病気で亡くし、真ん中に写っている一人息子を五年前に事故で亡くしてから、仕事で襟裳に来ることはなくなったのだが、年に一度か二度、前日か前々日に電話をしてきて、ふらりと一人で泊っていくのだそうだ。
 それが今回は珍しく、当日のチェックイン間際に電話してきたそうで、たまたま漁が豊漁だったのと、一組客がいたので当日予約を受け付けたそうで、高橋が泊まることになっていなければ、俺も泊めなかったと女将は言った。
 津田が今の高橋の仕事のことを訊いたが、女将もはっきりとは知らないのだが、ここ一、二年、いつも大きなワンボックスで来るので訊いてみたところ、なんでも、会社は変えずに人足を集めて現場に送る派遣業のようなことをしているらしく、そのための車だと説明されたと言った。それがこの前は、銀色の小さなレンタカーでやって来たので出発の時に訊いてみると、いつもの車は修理中で、現場で怪我をした人を釧路の病院に転院させるために迎えに行くのだと言い、その前に仕事の話をしに行くことになったのでゆるくないんだと言っていたと話した。この場合のゆるくないは、仕事が忙しいの意味だと津田が解説してくれた。
 俺に話した内容とはまったく違った。俺のような風貌の奴に真面目に話をするのは嫌だったのかもしれない。いや、あの時は、「函館北斗から新幹線で青森に渡って福島に帰る」そう言ったが、その前に仕事の話をしに行くが抜けていて、そのあとはそういう予定でいたのかもしれない。帰ると言ったのは今、心の拠り所、生きる意味が福島にあったからではないだろうか?やはり最初から殺す気はなかったのだ。それに俺の知っている殺人者達は皆、胸糞悪い邪気を駄々漏らしに漏らしていた。あの人からはそれは感じられなかった。
 女将に見送られて宿を出ようとしたところで、ケイ君嫁のシマちゃんと鉢合わせた。
 「あっ」と言ってケイ君嫁のシマちゃんは後退りした。
 俺は勘違いされているのがわかって、咄嗟に笑顔を浮かべることしか出来なかった。
 「あっ、どうも。帯広署の川口です」
 とってつけたような笑顔と開いた手帳の威力は甚大で、ケイ君嫁のシマちゃんから安堵感が漏れ出した。俺への助け舟を出した気でいるらしい。
 「なんだ、捕まったの」
 ケイ君嫁のシマちゃんはあっけらかんと言った。川口は少しあたふたした。
 「違うのよこの人は……」
 作り笑いを俺に浮かべながら割って入った女将の説明で、ケイ君嫁のシマちゃんはやっと真実を理解したようで、「すみません。ごめんなさい」と何度も俺に頭を下げた。
 「いやいや、こちらこそ。あの時はお世話になったのにちゃんとお礼も言えず。改めて、ありがとうございました。お世話になりました。いい宿に泊まれて幸せでした」
 半分お世辞の混じった言葉だったが、ケイ君嫁のシマちゃんに無事に礼を言えたことで、俺の気持ちが少し楽になった。

 俺達は襟裳岬の駐車場の片隅に移動した。
 今日も風が吹いている。
 緑色が広がる中に無数に散らばったタンポポの低い花が、ユラリユラリと吹く風に揺れながら、目一杯に咲き開いている。
 「悪かったね。嫌な気したっしょ。すんまへんでした」
 川口は全開にした運転席の窓から乗り出すように顔を出して、大阪弁に迎合するように言った。
 「なんもなんも。仕事でしょ。それぐらいわかってますよ」
 俺は川口が良く使う北海道弁を揶揄して言ったのだが、川口は良いようにとったようで、ニッコリと笑ったあと、忙しそうに無線でやり取りを続けた。
 津田が缶コーヒーを買って戻って来た。俺にブラックを一本差し出した。手に持ったあとの二本は微糖だった。
 「これどうぞ」 
 「利益供与?」
 「いえいえ、捜査協力費です」
 素の顔で津田は言った。川口のコーヒーは様子を見て運転席の天井の上に置いた。
 「えらい、やっすいのう」
 俺は皮肉を込めて言ったが、津田は涼しい顔をしていた。
 「そんなことはないでしょう。北見方面の管轄のことで知りたいことがあったら、いつでも電話して下さい。今のあなたにとってはそういう情報の方が、お金よりも良いのじゃないですか」
 俺はグッと一気にコーヒーを流し込んで、「ご馳走様」と空いた缶を津田に手渡した。
 「もう行くのですか?」
 「早よ走って帰らんと、暗なったら走りにくいからなぁ」
 相棒に火を入れて、サングラスをかけて、ヘルメットを被り、グローブをはめた。
 「もう行くんかい」
 川口も窓から顔を出して、津田と同じことを言った。
 俺は笑顔で頷いて返した。
 「今晩、屋台からの連絡を待っています」
 津田が言うので、俺は「わかった」と返事をしてからアクセルをゆっくりと開けた。
 川口は窓から身を乗り出して手を振った。
 津田は缶コーヒーを飲みながら見送っていた。
 駐車場を左方向に出る時に、俺はミラーに映る二人に左手で手を振った。
 二度目の景色は、雲間からの天使の階段が美しかった。
 風が所々強く吹いていた。
 襟裳岬の異風景は、俺の心の中に深く刻み込まれていった。
 「ああ、帯広着いたら、あの店に顔を出すか」
 俺にはまだやることがあるのが、なんとなく心地良かった。
 はたして、高橋吉雄が本当に犯人なのだろうか?
 今日はもう、考えるよりも楽しもうと、俺は思った。


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