ロング・ロング・ロング・ロード Ⅱ 道東の霧 編 7
先にさっさとシャワーを浴び、バスタオルを巻いた彩香は、鼻歌を歌いながら出掛ける準備に入っていた。
本当に女は変わるものだ。
外は小雨が降っていて、昨日見えた窓からの風景は白がほとんどだった。
若さとはこういうことかと思いながら、一人でシャワーをゆっくりと浴びた。
もう伽奈のことを話すのに躊躇いはなかった。
念入りに身体を洗って、髭をそり、身体を拭いてから鶏冠をドライヤーで乾かした。
昼には雨が止むらしい。
今日の彩香は、バイカラーという黒とグレーの二色のチェックに分かれたワンピースに、黒いコンバース。おれが最初に思っていた通り、磨けば光る玉だったのだ。
それにしても、短期間でこうもお洒落に変化出来るなんて、誰か指南役がいるということだろう。この前までの彩香と比べると雲泥の差だ。一人で雑誌を見て勉強したとは思えない。とすれば、母親代わりとまではいかなくても、彩香の周りに、彩香が生きていける下地というものが生まれて育ちつつあるのだろう。なら、伽奈に対して殺したいという感情は持っていないと考えてもいいだろう。どす黒く湿った怒りを隠し持っている人間は、必ずどこかにその一端を垣間見ることが出来るのだ。
旭山動物園行きのバスは、小雨模様なのに座席はほぼ埋まっていた。
俺が動物園へ行くなんて、子供の頃、天王寺動物園に行った遠足以来だ。どう楽しめばいいのかわからない。隣で「ワァー」「オーッ」言って楽しんでいる彩香の表情を見ている方が楽しかった。
それでも、蝦夷梟を見た時には俺も少し感動した。アイヌコタンでのことを思い出した。そして、どの絵から抜け出してきたのか謎だったショウちゃんのことを思い出した。絵から抜け出た訳ではなかった。俺は、ショウちゃんと同じ顔の男を一人知っていたのだ。そういうことかと納得してスッキリした気分でいると、「フクロウが好きなんですか?それとも、ウサギの方ですか?」と彩香は俺の顔を覗き込んで訊いた。
それから、ここに丸まっている茶色い毛をしたエゾユキウサギは、夏のこのシーズンには主に夜に活動することと、冬になると茶色い毛が生え変わり真っ白になることを得意気に話して聞かせてくれた。
「私、初めて真っ白な雪兎を見た時、雪の上をビョンビョンと跳ねるのが楽しくて、夢中になって追い駆けちゃって、お父さんとお母さんとはぐれちゃったんです。雪の積もる夜の森の中で、気がついたら独りぼっちで、泣いて探したけれどなかなかお父さんもお母さんも見つからなくて、やっとお父さんに探し出された時に私もお父さんも大泣きしてた。抱っこされてお母さんの元に戻ったら、お母さんは泣きながら私を叱ったの」
俺は彩香の肩を抱き締め、しばらく丸まったままのエゾユキウサギを見ていた。
昼を少し過ぎた頃、雨上がりの旭川の街に戻った俺達は、新子焼きという鶏の半身焼き目当てで『ぎんねこ』へ向かった。彩香も初めてらしく、俺と一緒に行くのが楽しみだと店に向かう道中に言った。
ぎんねこは、昨夜行った串鳥と自由軒のちょうど間に在った。店に着いたがオープンは十三時からだった。少し早かった。
ラーメンでも少し腹に入れようかという俺の提案で近くの名店へ向かったが、俺的には今まで道内で喰ったラーメンと比べて見劣りした。接客も良くなかったせいもあるのかもしれないが。もっと別の旭川ラーメンも食べてみなければと思った。彩香は後のことを考えてか、麺を半分残していた。
新子焼きは塩とタレに分けることが出来るというのでその二つの味で注文して、あとで串のフルコースを注文した。
酒は地元旭川の日本酒、北の稲穂・男山と風のささやきの飲み比べを頼んだ。彩香も同じものを注文した。
別のものを頼めばいいのにと俺が言うと、一緒のがいいのと言った。
俺的には風のささやきの方が口に合ったが、彩香は北の稲穂の方がガツンと来なくていいと言った。
酒も新子焼きも串のフルコースも旨かった。さっきのラーメンが少し邪魔だと感じるほどだった。狭い店内で身を寄せ合いながらの飲食になった。その店の混み具合も心地が良かった。
杯の中の酒が半分になった頃、俺は彩香に伽奈のことを何処で話そうかまだ迷っていた。
店を出ると、雨上がりの路面の水溜りがあちらこちらで光り輝いていた。
彩香は、夕方まで部屋で休みたいと言った。
俺も賛成だった。身体が休憩を求めていた。
俺は彩香の手を引いてホテルへ戻った。会話はなかった。
部屋に戻って一息吐くと、彩香が口を開いた。
「何でも話して下さい。私、人の顔色だけを窺って生きてきたから、マコチンが私に言い難いことを言おうとしているのがわかるの。大丈夫。何でも言って、お願い」
俺が思うほど彼女は弱くはないし、脆くもなかった。俺よりもちゃんとした、今を生きている二十六歳の立派な女性だった。
デスクチェアーに座った俺は、ソファーに座る彩香をしっかりと見据えて、旅の途中で橋口伽奈という女性と出会ったこと、それから伽奈が、彩香に対して自らが犯した罪を今も悔いていること、そして、彩香に会ってちゃんと謝りたいと話していたこと、俺の知っていることで話してもいいすべてを伝えた。勿論、伽奈を抱いたことや、何処に住んでいるのかは言わなかった。
彩香は途中から俺の目を見ることなく、じっと斜め下の宙を見つめていた。そして、膝の上の左手をグーパーさせながら、俺の言葉を聞いていた。
話を終えた俺は、ただ彩香を見つめるしかなかった。どんな反応でも俺が受け止めるのだと決めていた。
「そっかぁ、伽奈ちゃん、そんな風に生きていたのか……」
俺は何も言葉が出なかった。ただ彩香の吐き出す言葉を全部受け止めるだけだった。
「別れた旦那さんも可哀そうだね」
「俺は、彩香が可愛そうやなんて思うことはないと思うよ」
「マコチンは私の味方なんだ。嬉しい」
「味方とかそんな話やない。やられたらやり返すんが当たり前やないか。お前、イジメられて、無理やり犯されて、輪姦されて、ボロボロになって子供も産めん身体にされて、それでもお前は伽奈のことを許せるんか?やり返せ、やってまえ、それが俺の考え、生き様や」
彩香は涙を溜めた瞳を、真っ直ぐに俺に向けた。怒りにも似た感情がその瞳には宿っていた。だが、放つ言葉はゆっくりで丁寧だった。
「私ね、仕返しなんて今まで思ったことがないの。そりゃ、あの頃は、何も考えられない状態で流されるのが精一杯で、ちょっと振り返ってみても、どうしてこうなっているのかわからなかった。男達は、如何に気持ち良く精子を出すかってことだけを求めていて、私は単なる捌け口の器として生きていた。生理が止まったら病院に連れて行かれて、同じ女の先生が無表情に私を掻き回した。それで処置が終わったら『お大事に』って言葉。そういうものなんだって思った。お母さんに話したことはなかったけど、私の思いが漏れ出ているのを察して、逃げなきゃって言って、男達から逃げたの。でも、何処へ行っても、私の周りに寄ってくる男は皆一緒だった。やっと、お母さんが連れて行ってくれた産院で、山崎先生という綺麗な女医さんが言ったの、『もう出産は厳しい』って。そして、『自分の身体を大切にしなきゃね』『自分を守れるのは自分だけだなんだから』って。けど、そんなことはわかっていても、上手くやれないよね。だから男のいない暮らしを選んだの。でも、そんなところにいる女が一番、男を必要にしてた。けど、私はもう駄目だと思ったから、全部この世にはいないことにしたの。だから、びっくりした。マコチンだけだよ。私をちゃんと一人の女の子として見てくれたの。嬉しかった。お母さんが死んじゃって、スタンプ全部押したあと、私はどう生きていけばいいのだろうって思ってた。誰のことも好きになれずに、誰のことも信じられなくなって……。今回の旭川は嬉しかった。伽奈ちゃんから聞いたかもしれないけど、サヤカって言ってくれて嬉しかった。アヤカって言われることが多いから。それに、出したいだけじゃなく、会いたかったんだなぁって、助手席に乗っても、部屋に入っても求めてこなかった。そんなことどっちでも良かった。けど、嬉しかったの。ありがとうね。だから、仕返しなんて考えないで。私、もうちゃんと前を向いて生きているから。マコチンが内地に戻ったって、私はちゃんと生きていくから」
俺は、何も言えなかった。
前を向いて生きている人間に対して、最後しか見えていない人間が放つ言葉など何もないのだ。
彩香はそこまで言い切ると、俺に抱き着いてきて膝に座った。
「マコチン。伽奈ちゃんに伝えて、ちゃんと会うからって」
俺はただじっと、彩香に抱き締められた。
夜になって、ホテルの人に教えてもらった居酒屋『天金』へ向かった。
本当はテーブル席が良かったが、カウンターしか空いていなかった。随分人気だった。
俺は魚が食いたかった。刺身も新鮮で、焼きも火の入り加減が巧かった。
彩香は、プチトマトのベーコン巻きとイカの沖漬けをお代わりして、チビチビと俺の頼んだ季節限定の地酒、雪中貯蔵酒・大雪をやった。
良い気分のまま旭川の夜の街を手を繋いで歩いた。
俺は自分自身が益々わからなくなっていっていた。こんなにも容易く人を受け入れるだなんて、こんなにも簡単に女を愛しく思えるなんて。
彩香は強くしなやかな女だ。俺が内地に戻っても生きていけると言った。この夏が短く冬の長い北海道で育ったせいだろうか?
先を考えるのも、今を存分に楽しむことも、俺は出来ないでいる。ただ相棒を走らせ、あるもの出会うものをただ受け止めているしかないのだ。その向こう側に何があるかなんてまったく見えていなかった。
二人は手を繋いだまま、会話も少なく、何処に入るでもなくただ彷徨った。
手から伝わる体温とは違う温かい何かが、二人の間を行き来していた。
そんな時にガラ携が鳴った。
手を繋いでいない右手でヒップバッグから取り出して電話に出た。徳永からだった。
「なんだ」
――どうだ、デッカイドウは?カサカサの心が潤うだろう。ハハハハハッ――
「なんやねん、しょうもないこと言いくさって」
――お前が返事よこさねぇからだろうが――
「ああ、そうか」
――返事がなかったら、もしかして死んだんじゃねーかって、モヤモヤすんだよ。どうせ旅を終えたらおっ死ぬ奴でも、ちーっとは心配になるんだ。これが――
「悪かった。でも、姉さ……。いや、あの人のことやったから」
――なんだ、誰かいるのか?――
「ん?ま、まぁ……」
――そうか、じゃあ用件だけ言う。絶対に美枝子さんのところへ顔を出せ。俺がお前を行かせると約束した――
「誰と?」
――ヒューマニズム・オムの角脇だ――
「カドワキって?尾塩組が囲ってるちゅう角脇か。そいつが何んで?霜島組の北里って奴が絡んでるんか?」
俺は隣の彩香に極力聞かれぬようにと、右を向いて小声で話した。
――いいや、角脇本人だ。もう北里とは完全に切れているらしい。賢いヤツだ、角脇は。北里は原発賠償金詐欺で捕まったよ。お前ニュースぐらい見ろよ。角脇は全部お前から学んだと言っていたよ――
俺の中で角脇の顔は、まったく浮かばなかった。
――お前の下で働いてた元、門倉だと言ってた。今は結婚して婿養子に入ったので名前が変わったそうだ――
それでも、顔は浮かんでこない。看護師が言っていた、丸顔でガッチリ体型しか出てこない。
「そいつは、入院時に俺の病室に荷物を運んだ奴だ」
――そうか、兎に角、俺が約束したんだ。美枝子さんに会いに行け、いいな――
そう言って電話は切れた。
俺はどうしたものだろうと思った。
「友達?」
「えっ、あっ、ああ……」
「いるんだ……」
「昔、昔、大昔からの腐れ縁や」
「どんな人?」
「東京の人間や。昔一緒に仕事をしてた」
「へぇ~。どんな仕事をしてたんですか?」
俺は何処まで話すべきか躊躇した。東京でのことを話せば、最後に傷害事件のことも話さなければならなくなる。
「まぁええやん。大昔の話や」
「どんな仕事かだけ教えて下さいよ。マコチン~」
彩香は酔いも手伝って気持ちが大きくなっている。俺はどうしても、マコチンは嫌だった。
「仕事だけやったら教えたるから、マコチンは止めてくれ」
「えーっ。ダメですか?マコチン」
「外では止めてくれ」
「はい、わかりました。でも、二人っきりの時はマコチンでいいですよね?外ではもう絶対言いませんから、教えて下さい」
「わかった。教えたるから、もうマコチン言うなよ」
ウンウンと彩香は喰い付き気味に大きく頷いた。
俺は正直に答えた。
「簡単にわかりやすく言うと、ボディーガードってやつや」
「えっ、すごーい。映画やテレビであるやつでしょ、ボディーガードって。かっこいいです」
「そんなことあるかい。現実は面倒なだけや」
「誰か有名人とかボディーガードしたんですか?」
「仕事だけって言うたやろ」
「はい。ごめんなさい」
彩香はペロッと舌を出した。俺は本当に舌を出す奴を初めて見た。
「でも、私のボディーガードはして下さいね」
そう言って彩香は俺の手を握る力を強め、嬉しそうに腕を振った。
気づいたら昭和通りをかなり進み、真ん中に棒状のモニュメントみたいなものが立っている常盤のロータリーまで歩いていた。国道40号線のこの先は旭川市のカントリーサインにも描かれている有名な旭橋だ。
「ロータリーまで来ちゃいましたね」
「それにしても珍しい。国道にロータリーって」
「大阪にはないんですか?」
「ない、ない。あったらそこら中でクラクション鳴り捲って、怒鳴り声が響き捲ってるわ」
「へーっ、大阪って怖い所なんですね」
「いや、怖くはない。ただ、せっかちなアホが多いだけや」
「じゃあ大阪に常盤ロータリーがあったら、お母さん一生出れなくなっちゃう」
「えっ、どういうこと?」
「あのね、東川に引っ越してきて、初めてお母さんとここを通った時、ニ十分ぐらいずっと、ここでクルクル回っていたんです」
「マジで?ニ十分も?」
「マジです」
「ハハハハハッ、おもろいな、それ」
「私もメリーゴーランドみたいで楽しくて。でも、お母さんそのうちに『このまま出れなかったらどうしよう』ってベソかいて。だから助手席の私が窓から手を出して、『入れて下さい。入れて下さい』って言ったんです」
彩香は昔から優しい子供だったのだと知った。
くるりとロータリーを時計回りに一回りした。
確かに初めて走る時には戸惑うだろうと納得した。
歩いて来た道の手前を進み、丸い人工池から左右の手首から先が突き出している平和通買物公園を戻ることになった。
駅前から続く賑やかさとは違って、この辺りは随分と静かで大人しい印象だった。
俺はそろそろ酔いが醒めてきていた。
「どうしょうか?何処か行きたいとこある?」
「んーん、一緒だったらどこでもいい」
それから二軒梯子して、テッペン少し前に部屋に戻った。
明後日は仕事に間に合うように、早朝、彩香は苫小牧へ帰る。だから明日の晩は酒は飲めない。だから今日一緒に飲んでおくと言って彩香はたらふく飲んだ。俺が補助しながら彩香を風呂に入れて、裸で抱き合ったまま眠った。
朝から快晴だった。
午前五時、彩香はまだ俺の腕の中で寝息を立てていた。
よく考えれば彩香や伽奈は、俺の子供でもおかしくない年齢だ。だけど、家庭や子供を持ったことのない俺からすれば、女でしかなかった。
すべすべした肌を撫で回し、俺は起立した俺に従った。
夢見心地の中俺に抱かれた彩香は、背中に爪を立てるほど昂りを見せた。
小一時間ほど微睡んだあと、二人でバスに入った。お互いの身体を洗いあい、ゆっくりと湯に浸かった。そして、今日の予定をどうするか決めた。
休日らしく道は混んでいた。といっても都会の渋滞に比べたらとても可愛いもので、車の量が多い程度だった。
国道237号線を南下して行く。俺もこの神楽岡駅辺りから真っ直ぐ続く道は初めてだった。大きな空の下、二車線の直線路も富良野線西御料駅を過ぎると一車線になる。ずっと横に線路が道に並んで引かれているのに、架線がないせいで列車(彩香は汽車という)でも走っていないと何もないように感じ、ひょっこりと駅だけが所々に現れる。
彩香の運転は慎重そのものだった。
西神楽の街並みを過ぎると線路は左手に離れていく。それでも直線は続いた。
彩香にはこの壮大な景色がどう見えているのだろうか?
国道452号線の手前でやっと直線は終わる。
「そこの信号曲がろうか」
「えっ、そっ、そこですか?」
彩香は右にウインカーを焚いて右折レーンのない交差点で対向車の切れ目を待った。行けるのに行かないが二回ほどあって、軽トラックの切れ目で遠くに大型トラックが見えるのに行くそぶりを見せなかった。
「行けるで。GOや」
「はい」
彩香はアクセルを踏んでジムニーは無事に右折した。
「私、右折が苦手なんです」
「お母さんも一緒やった?」
「はい」
遺伝らしい。それなら言ってもしようがない。上手くやろうとして事故るタイプだ。
「苦手やったらしゃあないわ。後ろからクラクション鳴らされても気にせず安全第一やな。それがいい」
「はい」
辺別川を渡っている途中、彩香が「本当にこっちで合っているんですか?」と緊張気味に訊いた。
「大丈夫、心配すんな。俺がこないだ見つけた道や。この天気やったら抜群の景色が見れる。あっ、その先のレンガ造りの建物の切れ目を左折ね」
「はい」
「次、信号があるから、それを越えたら右ね」
「はい」
「このまま真っ直ぐ行くと鳥居が出て来るから、そこから先は砂利道やし」
「えっ。本当に美瑛に着くんですか?」
「着く、着く。ええから行こ」
この道だって俺からすればこの上ない景色なのだが、地元の彩香はあまり心を動かされていない様子だった。
「旅して何か変わりました?」
唐突に彩香が言った。
俺はその言葉を受けてしばらく考えた。
小さく質素な鳥居がゆっくりと近づいて来る。
「行き止まりじゃないですか?」
「左にこの丘を登る道があるわ」
流石に四輪だ。砂利道の坂を難なく上っていく。もうすぐ丘の頂上だ。
変わったのか、昔からあったものなのかわからない。まだ、ちゃんと言葉に出来るほど変わってはいない気がした。
「うわぁー綺麗。道内に住んでる私より良い所を知ってますね」
俺の読み通り。彩香は歓喜の声を上げた。
それからは俺が運転を代わり、俺が良いと思った美瑛の風景を見て回り、色んな話をした。
コンロを持て来たので、ジェットコースターの道から少し入った場所に車を停めて、景色を見ながら珈琲を淹れて飲んだ。彩香はこんな経験は初めてらしく凄く喜んでいた。
そのまま富良野まで行って昼は彩香お勧めの富良野カレーを食べて、富良野岳と十勝岳を見に行き、今日は綺麗だった青い池を見て、また違う美瑛の丘を走った。
車内からの眺めは、やはり俺には物足りなかった。
就実の丘を通って突き当りを左折して、東川町には入らないようにして旭川へ帰った。
途中、回転ずしに入って、あとは彩香が運転するというので俺は酒を呑んだ。
「美味しそうに飲むところも好き」
彩香は言った。
さすが北海道、回転寿司だというのに魚が旨かった。
身体は小さいのに彩香も、美味しそうによく食べた。
部屋に戻って一緒に風呂に入り、部屋中でゆっくりと求め合った。まるで恋人同士のようだった。
「伽奈ちゃんと会う時は、マコチンも一緒にいてくれるよね?」
彩香は俺の腕枕の中で訊いた。
「もちろん」
「良かった。でも、伽奈ちゃんには私が何処に住んでいるとか絶対言わないで。私も訊かないから」
彩香の中では伽奈の謝罪をもって、在ったすべてを過去に仕舞い込むつもりのようだった。それで生きていけるなら良いと俺は思った。
「それで何時位に何処で会うのか、明日、苫小牧に戻ったら、会社の休みとか彩香の予定とか教えてくれる?彩香の都合がわからんと、橋口伽奈にも連絡出来ひんから」
「わかりました」
そう言うと彩香は俺の頬にキスして、
「マコチン、ありがとうね。すごく感謝してる。この前も、今回も、私の中にいる嫌なものがドンドンなくなっていってるの。それでね、私、やっと前を向いて生きられるようになったの。お母さんの友達のエリちゃんっておばさんがね、帯広から戻った時に言ったの、『何かいいことあったの?顔つきが良くなってる』って。マコチンに優しくして貰わなかったら……。うううん。優しくして貰ったから、詰まって何処にも行きようがなかった気持ちに、ふっと穴が開いて、ゆっくりと流れ出したの」
彩香が羨ましかった。俺の中に溜まったものは、もうすでに俺の中に固着してしまっている。前を向くには、少し若さが足らない。身体の中の力も足らない。それに気力も足らないのだ。こうやって誰かのためになっていることは、俺にとってくすぐったい気分にさせるのだが、これを続けることなど今の俺には不可能だ。すぐに持ち金が尽きる。
何もかも足らないのだ。
多分、明日、彩香と別れると、俺は相棒が直る夕方まで眠ることだろう。それを見越して、ここから歩いて二分の安宿に昼の十二時からのアーリーチェックインで予約してある。そうしなければ、本当に動けなくなる。厄介な身体だ。
「マコチン、今日も頑張ってくれてありがとうね。私ね……」
言葉を聞き終わらないうちに俺は眠りに入っていた。
ガラ携の着信音が五月蠅かった。
何だ、何があった。
部屋の中は薄暗くて、ガラ携が何処にあるのかも手探りだった。
彩香が起きるのではないかと、急いで音の元を探した。やっとあった。ヒップバッグの中で鳴り震えていた。
「もしもし」
――おはようございます――
聞き慣れた声だが、誰だ?俺は着信画面を見て確認した。えっ!
――まだ寝てましたか?無事に苫小牧へ着きました――
そういうことか。
「おはよう。ごめん、見送れなくて」
――いえ、誠さんが眠っていたから、ちゃんと仕事に行く気になったんです。もし起きていたら、マコチンから離れたくなくなっちゃいます――
気分がいいものだった。こんな気持ちのふれあいなど、今までの俺の人生ではあり得なかったものだった。どう対処するのが正解なのかが、今の俺にはわからなかった。
「ありがとう。その言葉だけで気持ちがフワフワするわ」
――そうですか。良かったです。私はマコチンに出逢ってから、いつもフワフワしています――
電話の向こうで短いベルが鳴った。
――仕事始まるから、また。バイク気を付けて下さいね――
そう言って彩香は電話を切った。
窓にはしっかりと遮光カーテンが閉められていた。俺はそれを開けて、空模様を見た。曇り空だった。
彩香と一緒の間、俺がPCを開けたのは今晩泊まる安宿を予約した時だけで、テレビもほとんど見ていなかった。
もうすぐ九時だ。いまからPCの入った纏めてあるバッグを開けるかどうか迷った。とりあえず、一度シャワーを浴びてから考えることにした。
まだ完全には体力が回復していなかった。
チェックアウトギリギリの十一時までここにいて、荷物だけ先に安宿に預かってもらい、チェックインまでの一時間で何か腹にものを入れようと決めた。
PCを出すのは面倒なので、高岡ちゃんから借りているスマホで何を腹に入れるか探した。
相棒を引き取りに行くので酒は呑めない。そうだ、旭川ラーメンを食べたかったと思い出した。近くにあるのは『山頭火』と『梅光軒』だ。
俺は昔、東京・恵比寿の山頭火にハマって通っていた。そういえば、ウトロで食べた旨いラーメンが山頭火に似ていた気がする。
ここはオーソドックスな醤油ラーメンにするべきだ。梅光軒に決めてスマホの電源を落とした。
荷物をまとめ起きたら出れる準備をして、十時半まで眠った。
チェックアウトを済ませ、安宿へ荷物を預けた。見た感じ、普通のビジネスホテルで、フロントの人が人懐っこい感じで、チェーン店にはない雰囲気を醸し出していた。
歩き慣れて何処に何があるかを把握した平和通買物公園を北に進み、梅光軒の入っているビルの階段を下りた。
上手くカウンターに滑り込めたが、もうひと足遅かったら店の前で待つ羽目になっていた。
運ばれてきた丼からは良い香りが上っていた。
熱いことを承知でスープを丼から一口入れた。ここの店の味は俺に合っていた。中細ちぢれ麺にスッキリとした醤油ダレWスープが絡んで旨かった。あっという間に完食だった
大満足で通りに上がったところでガラ携が鳴った。バイク屋からだった。十六時には出来上がるという。
少し時間潰しに散歩して、途中の銀行で金を下ろしてからホテルへ向かった。
チェックインを済ますと、手渡されたのは木製のキーホルダーがついた鍵だった。温泉旅館を思い出した。
部屋の造りはやや古いが清潔だった。
俺は、荷を解いていつも通りにセッティングしてから眠りについた。
撃たれたあとから意識を取り戻すまでの二週間の間に見ていた夢の片鱗を見た。
意味はわからないが、俺は世界を司る神のような、会社社長のような、一国の大統領のような存在になっていた。
この夢を見る時俺はいつも思う、夢の中まで俺を働かせるなと。
ガラ携のアラームで目が覚めた。まだ疲れが身体の中に存在していた。
若い女といると、自分も若くなった気でいるからなのか、どうしても無理をしてしまうのだ。けれど俺自身、本当に調子が良いと感じていたのだが。
もう一度シャワーを浴びて目を覚まさせた。
タクシーを呼んでもらってバイク屋へ向かうと、久し振りにみる相棒は元気そうに待っていた。クラッチの感触も前よりも良くなっている。
店を出て、取り敢えず旭川の街を流した。
ミッションの感触もマシになっているように思えた。
これで明日から旅を再開出来る。
今夜も早めにベッドに入った。
何故だか、無性に人肌が恋しかった。