ロング・ロング・ロング・ロード Ⅳ 道南の涙 編 14
何とも映える場所での待ち合わせになった。
駐車場から二の橋の袂へ向かう途中、五稜郭の堀と急角度に尖がった石垣が、俺の中にある観光したい気分の頭を擡げるのを後押しした。そして、五稜郭タワーから見下ろした時の景色を思い出し、今どの辺りにいるのかを把握した。
歩きながら、美枝子ではないが、とっとと情報を集めて白黒つけなければと考え、擡げた思いを抑え込む。
時間どおりにやって来た児玉は、俺と変わらない年頃のようだったが、どうも頭頂部が心許ない様子だったが、ハネさんとは面識があるようで、キッチリと頭を下げた。天辺の地肌が眩しいほどだった。
久し振りの再会の挨拶を交わしたあと、児玉は俺のことをハネさんに尋ねた。それは警察官としては当たり前のことだった。
ハネさんが「相棒だ」と言うと、児玉は納得していない様子だったが、「ハネさんが言うのなら」と収めた。
児玉はスーツのポケットから折り畳んだ紙を取り出して、それを見ながら話してくれた。
森田由梨乃は八年前、国道39号線の山間部を上川町から北見市へ向けて走行中、石北峠でハンドル操作を誤り、ガードケーブルを突き破って谷に落ちた。深夜だったため事故発生の認知が遅れ、その後車は発火した。
車内にあった遺体は車と共に燃えたことで損傷が激しく、身元確認は、衝撃でちぎれたナンバープレートと、車外に飛び出していた鞄の中にあった免許証と三日前に買い替えたばかりのスマートフォンから判明したと児玉は言った。
そして、発火したのは事故直後、意識を取り戻した森田由梨乃自身が、タバコに火を点けたためだと思われるとつけ加えた。
ハネさんは、誰が森田由梨乃の遺体を引き取ったのかを尋ねた。
「それが、引き取り手がなかったのか、北見署近くの寺に無縁仏として引き取られたとあります」
「母親はいなかったんですか?それに、事故当時の森田由梨乃の住所は何処になってますか?」
そう俺が尋ねると、俺には話したくないような顔をした。そして「あとは此処に書いてあります」と言って児玉は持っていた紙を折り畳み、ハネさんの前に差し出した。
受け取ろうとハネさんが手を伸ばすと、児玉はその紙を引っ込めた。
「やはり、この人がどういう人なのか訊いておきたいのですが」
「この人か。名前は獅子王誠。ほら、五年前に大阪でヤクザが、ガサの最中に発砲して死んだ事件があったろ」
「五年前、ああ、検察のガサの最中の、あの」
「あの時にヤクザに撃たれたんが、この人だ」
「ああ。でも、撃たれた人間も関係者だったとか?」
「そのあと直ぐに組は解散して、今は堅気だ。それに」
「何です?」
「津田がこの前解決した帯広署の事件、その時に津田に協力した人間だ。この人がいなかったら、事件の早期解決はなかったと津田は言ってる」
「へーっ、あの津田が」
津田の名前を聞いて児玉は、俺の顔をじんまりと見つめた。
「まぁ、何を調べているのか知りませんが、無茶だけはしないで下さいね」
そう言ってハネさんに紙を手渡して、「それでは」と仕事場に戻っていった。
俺は、そんな児玉の背中を眺めながらハネさんに訊いた。
「津田がそんなことを言うてたんですか」
「そうだ。津田の言葉がなかったら、俺はあんたと組んでいない」
何とも言えない気持ちになりながら、俺はハネさんが持つ紙を覗き込むと、折り畳まれた中には写真が入っていた。森田由梨乃の免許証の写真だ。
ハネさんのスマホの中にある早川芽美の写真と並べてみた。
ハネさんは首を傾げたが、俺には二人が似ているように見えた。ビフォアーとアフターだ。
次に俺は、PCからガラ携に転送した津田のメールを開いて確認した。早川芽美が函館に転居してくるまえの音更町の住所と、児玉がくれた紙に書かれていた住所が同一だった。
やっと接点らしきものが見えてきた。俺の鼻は、まだ衰えていなかった。
ハネさんにそれを見せると武者震いしたあと、「どういうことだ?」と俺の顔を睨みつけた。
銭函建設に向かうのはハネさんが運転した。
俺は助手席で津田に連絡して情報のやりとりをした。
津田の話では、羽田心音の勤めていた会社には、十年前のことを覚えている人間は一人しかおらず、その人物も羽田心音の名前を覚えているだけで、当時の細かなことは憶えていないらしい。その頃の羽田心音のことをよく知ると思われる同期入社の人間が苫小牧と札幌にいるらしく、今、函館西署を出て、苫小牧へ向かっていると言った。
そこで俺は、森田由梨乃の母親のことを調べてもらうのと、早川芽美の十年前以前の写真の入手、帯広警察署の帳場の捜査員達に森田由梨乃と早川芽美の写真を持って、早川芽美が住んでいた近辺で聞き込みをしてもらえるよう依頼した。
だが津田の返事は良くなかった。森田由梨乃の母親のことはどうにかなるが、あとの二つは津田達が帯広に戻らなければ難しいと言った。帳場は前歴がある人物やマークしている人物の線を追っていて、今は割ける人員がいないらしい。
すると、横から川口の声が聞こえてきた。
――任せとけ。俺が署の奴らに言って、聞き込みに行かせる――
――川口さん、良いのですか?そんな無茶して――
――そんな、獅子王ばっかにいいカッコつけられんのは面白くないしょ。で、何をどう訊けばいい?――
川口が変なやる気を見せていた。
俺は、森田由梨乃の写真と早川芽美の写真を持って、早川芽美の住んでいた家近辺で、二人の女に何か接点がないかを聞き込んで欲しい。そして、二人に関係があったのだとしたら、それがどのようなものだったのか?それと、早川芽美が免許証を取得する前の顔写真。そして、家族関係や、何故、早川芽美は函館という地に移り住むことになったのかも調べて欲しいと川口に伝え電話を切ろうとした。
――それだけでいいんだな?――
「あと、早川芽美がタバコを吸っていたかどうかも調べて下さい」
――石北峠で事故死したのは森田由梨乃ではなく、早川芽美だとあなたは言うのですね――
流石、津田。理解が早い。
「そういうこと」
電話を切ったあと、会話中からずっと頭の片隅に浮かんでいるものを、俺は言葉にして呟いてみた。
「奴が避けているのはハネさんなのかも知れんなぁ?」
銭函建設に着くと、応接室で会長の志水が俺達の相手をしてくれた。今は社長を娘婿に譲り、会長に引っ込んだのだという。
ハネさんの先輩の村木の話でひと盛り上がりしていると、寿司桶が応接室に運ばれてきた。何でも、村木には良くして貰ったらしく志水の奢りだと言った。
俺は、癒着の関係でもあったのかと追及したくなったが、ハネさんが平然と食べているので、俺もそれに倣って頂いた。何故だろう。やはり北の大地で食う寿司は旨かった。
食後になってやっと、今は『La petite fleuriste』が入っている元森田クリーニングの工場の話になった。
何でも、施工の陣頭指揮を執ったのが志水自身らしく、図面を持ち出してきて詳しく説明してくれた。
見た目三階建ての高さのある建物だが、大きなシャッターのある工場側の半分は二階建てで、一階にクリーニングの大型機械が入るために高さをとってあり、二階部分は、取りに来ない人達の衣類の保管スペースになっている。
残りの一階部分は事務所と社員食堂と店舗スペースで、今の『La petite fleuriste』が入っている部分はクリーニングを受け付ける店舗だった。
現在の店内と比べると、保管スペースを潰してカウンターを奥に持っていってあった。早川芽美が出てきた扉は、事務所の入口前を通って工場へ預かった衣類を運ぶための廊下だった。
住居スペースは、事務所と社員食堂と店舗の上部分の二階全部。日照権の関係で造られた屋根があるため、一階部分よりも狭くなっていた。
二階に上がるための階段は二つ。俺が見た一階の玄関からと、社員食堂の一角にあった。裏口の鉄の扉は食堂にも繋がっていて、其処から二階へ行けるのだ。
とすると、あの一階の玄関は、今は使われていないのか。
二階の間取りは、食堂からと外の玄関からの二つの階段が行き着いたところに、広めの二階玄関があった。
暖気を逃さないためにか、そこに扉があって、リビングの扉まで廊下が続いていた。
面白いことにトイレとバスが二つずつあった。一つは、廊下の左右に配置されていて、右に浴室と洗面所、左にトイレ。もう一つは、広いリビングにある扉の奥にL型に伸びた廊下の一番左奥に並んでいた。
広いキッチンとリビングの他に部屋は五つあった。リビングとキッチンに入口が面している六畳の和室、L型の廊下に入口が面した洋室が四つ。和室と工場部分の壁に挟まれた、監禁するとしたら此処しかないと思える窓のない八畳の部屋があった。
だが、『La petite fleuriste』が入るまでは、別の会社でも入っていたかもしれないし、別の誰かが住んでいたかもしれない。そうなると、建物内は変化している可能性もあった。
だが、それは杞憂に過ぎなかった。二年前に早川芽美に売却するまであの建物を持っていたのは目の前に座る銭函建設会長の志水だった。六年前に森田から買い取った不動産屋が、建築費の未払いで金の代わりに差し出したのだという。シャッター奥の搬入口部分は壊して、保安資材の倉庫にしていたのだが、住居部分の間取りは昔のままで、次女夫婦が住めるようリフォームを済ませたのだが、旦那が根室支店に転勤になって住むことはなかったという。それに、店舗部分の内装のやり替えも売却と同時に受けたと志水は言い、「内緒だよ」とその図面も見せてくれた。
ハネさんが、森田由梨乃とは面識があったのかを尋ねると、志水は娘がいることは聞いていたが、会ったことは一度もないと言った。
ハネさんのスマホで図面を撮影してから、礼を言って銭函建設をあとにした。
森田からあの土地と建物を買い取ったという不動産屋へ向かった。
斎藤不動産は大手に押される昨今、細々ながらまだ経営を続けていた。
志水から話が通っていた斎藤不動産社長の斎藤茂助は、俺達の話を快く聞いてくれた。だが、茂助の皺だらけの顔の奥にある目は、まだ鋭かった。
斎藤は、「九年前にあの建物を売却したのは森田由梨乃だ」と言った。
森田由梨乃の母親はその二年前に病気で亡くなっていて、建物は工場以外の用途がなく、解体するにも金がかかるので、随分安く手に入れたらしい。それでも、森田由梨乃が残っていると話していた借金が返せて、その上、結構なお釣りがきたのでウィンウィンだと言った。
ハネさんが二つの写真を並べて見せると、斎藤は一層目を細めた。
「誰なの?」
「森田由梨乃ですが」
「どっちも似てるけど違うな。こっちの方、目をもっと細めたら森田由梨乃に似ているとは思うけど」
斎藤はそう言って顔を上げた。
「森田由梨乃は煙草を吸ってませんでした?」
「煙草は呑んでなかったなぁ。ワシが呑まんから、呑んでると直ぐにわかる。あそこはクリーニング工場だったから、至る所に火気厳禁と禁煙の文字が貼ってあったよ。二階の住居にも煙草の匂いや汚れはなかった」
そう一気に言い終わると、「間違いない」と斎藤は言い切った。
車に戻るまで、ハネさんは口を開かなかった。
「運転してくれるか?」
そうハネさんが言うので俺が運転した。
俺は久保奈生美の部屋へ向かった。一度確認をしておきたかったのだ、誰かが部屋に侵入していないかどうかを。
俺は気にせずに駐車スペースに停めた。まだハネさんは無言だった。
ハネさんが鍵を開けて、俺が真っ先に部屋に入った。空気の澱みがあった。誰も侵入していないかを、ハネさんのスマホに残していた写真と一ヵ所一ヵ所丁寧に見比べた。
なくなっている物や動かされた形跡もなかった。ただ変わっていたのは、水が変えられていないキッチンの窓際に置かれた向日葵が、力無さそうに俯いていたことだった。
俺は牛乳瓶の水を変えた。これで元気になるのかは知らないが。
「なぁ、あんたはどう考えとるんだ。スジを聞かせてくれんか?」
ハネさんは力が抜けたかのように、翔の描きかけの絵が置いてある前に座っていた。
「うーん、俺は、森田由梨乃は早川芽美になって、この函館に戻って来たんやと考えてる。けど、一ヵ所行きたいところがあるねん。そこに行ってからでええかな」
「わかった」
全くわかった風ではないのにそう言った。
俺は車を駐車場には入れずに、少し離れた場所に路上駐車して、二人並んで歩いて向かった。
野間の住むアパートは今日も綺麗に掃除が行き届いていた。
ハネさんをドアスコープには映らない場所に立たせて、俺は101号室のドアの前に立ってチャイムを鳴らした。もうハネさんは、俺のやり方に口出しはしなかった。
ドア越しに人の気配を感じた。俺は笑顔を作った。
「何ですか?」
嬉しいことにドアの向こうで声がした。
「小笠原君、ちょっと開けてくれへん?」
「だから、何なんですか?」
「訊きたいことがあるねん。一寸で済むから開けて話を聞いてくれへん?」
「もう」と言いながらも小笠原康介はドアを開けた。
俺がドアノブを引っ張ってドアを全開に開けると、小笠原は靴も履けずに弾けるように表に飛び出て転がった。そして、ハネさんの顔を見た途端、俺に文句を言おうとして口を開けたままの小笠原は、急ぎ立ち上がり部屋の中へ逃げ込もうとした。
俺の思ったとおりだった。
ハネさんが、素早くうしろから小笠原のズボンのベルトを掴んだ。
「なして逃げるの?ああん?」
「い、いえ、べ、別に」
「あんた、今、俺の顔を見た途端逃げたろ?ああん?俺を知っているのか?それとも、何か悪さしてるんか?ああん?」
ハネさんのああん?が出た。つい笑いそうになるのを俺は堪えた。ふと視線を感じて見ると、向かいの家のおばさんがこちらを見ていた。
「部屋入らせてもらうで。向かいのおばちゃんが面白そうに見とる」
俺がずかずかと部屋に入っていくと、ハネさんにベルトを掴まれたままの小笠原は従った。
小笠原の部屋は野間の部屋と変わらぬ間取りだったが、必要な物以外は置かれていない、キッチリと整理された面白みのない部屋だった。
「さぁ答えろ。俺を何故知ってるんだ?ああん?」
「こ、こ、こ、ココさんのお父さんですよね」
「ああん?おめぇ、心音のことを知ってんのか?」
ハネさんが珍しくヒートアップして、小笠原の胸倉に掴みかかった。
「は、はい」
小笠原は、怯えながらそう言うのが精一杯のようだったので、俺は二人の間に割って入ってブレイクさせた。
一先ずは俺も手伝って、小笠原が紅茶ならあると言うので入れさせて、ハネさんには「良いというまで一切喋るな」と釘を刺した。
独りが快適に過ごせるように造られた空間は、それ以外の異物には収まりが非常に悪かった。
それぞれ異なったデザインのティーカップで、それぞれ違った茶葉の紅茶を飲んだ。どうも小笠原には小笠原なりのルールがあって、数種類あったティーバッグを、小笠原が決めた順番に使わなければならなかったのだ。
オレンジペコを飲みながら、ハネさんはジッと小笠原を睨みつけるように見ていた。
ダージリンを飲んでいる小笠原は、少し落ち着いたようだ。
俺はプリンスオブウェールズが良かったのだが、仕方なくアールグレイを飲んだ。
「で、小笠原君は、心音さんとはどんな関係なん?」
俺が直球をぶち込むと、ハネさんは一層目力を強くした。
「ココさんは、中学の時の軽音部の先輩なんです」
険しい表情でジッと小笠原を見ていたハネさんの顔が一瞬で明るくなった。
「おめぇ、もしかして、ガリッキーか?」
俺は許していないのに、ハネさんは勝手に話し出した。
「は、はい。ガリッキーです。覚えていてくれたんですか。ご無沙汰しています」
「はぁーん。ガリッキーか」
二人の間に俺の知らないホンワカな空気が漂っていた。
「コイツ、レイラちゃんの後輩で、中学ん時は、マッチ棒みたいにヒョロッ長くて、ガリッキーっちゅうあだ名だったんだ」
そうハネさんは嬉しそうに言った。レイラちゃんの意味をそろそろ教えてもらおうと、俺は思った。
「そんな知ってる人やのに、小笠原君は何で避けてたん?」
「それは……」
「何だよ、昔みたいにハキハキ喋れよ」
「ココさんがいなくなったんは、俺のせいかなって思ってて」
ハネさんの顔色が変わる。それを俺は目で制した。
「何があったん?聞かせてよ」
小笠原は昔を思い出すように遠くを見つめながら、ゆっくりと話し出した。中学時代の出会いから、羽田心音が高校へ進学してからも、家が近かったので時々会って話をしていたこと。
長々と俺の興味が削がれる話を延々と続けたが、ハネさんは、自分の知らなかった娘の過去を嬉しそうに聞き入っていた。
「ココさんがいなくなる少し前に会った時に僕、相談にのって欲しいと言われたのに、当分会えないし連絡も取らないって言っちゃったんです」
「二人はつき合ってたん?」
「いえ、つき合っていません。僕が当時つき合い初めていた彼女が、凄いヤキモチ焼で、彼女以外の女性と会ってたりメールやSNSで会話してたりすると、凄く怒ってしまうんです。だから」
「相談って何だったの?」
ハネさんが堪らずに言った。
「さぁ……。夏前に彼氏さんとは別れていて、当分男は懲り懲りだって言っていたから、恋愛っちゅうことはなかったと思います。ただ……」
「ただ、何?」
「お父さんと、また喧嘩したのかなぁとは思いました」
その言葉で、ハネさんの身体から何かが抜け出ていったのを俺は感じた。
「なるほどねぇ。ほな、君が心音さんに会ったのはそれが最後ってことか」
「正確には、ちゃんと会ったのはです」
疑問符が浮かんだ俺の顔を見ると、小笠原は続けて話し始めた。
「そのあと何日かして、朝、駅の近くで見かけたんです。スーツを着てたから誰かに迎えに来てもらったのかなぁって」
「迎え?」
「はい。そうです。白い軽自動車に乗り込むのを見てました」
ハネさんがポケットから児玉がくれた紙を取り出して広げた。
「白っちゅうても色々あるやん。どんな白やったん?」
「確か、ラメみたいなキラキラ輝く感じの白です。でも、かなり古い車みたいで、だいぶんくすんだ感じでしたよ」
「パールホワイトか。ハネさん、スマホでその車の写真見つけて」
「わかった」
ハネさんは少し間誤付きながら探し出した。
「これか?」
「そうです。函館ではあまり見なかった車だったから。それに、昔、従兄の兄ちゃんが、女受けがいいからって乗ってたことがあったから」
「コイツが運転していたのか?」
ハネさんが、森田由梨乃の写真を小笠原の目の前に突きつけて言った。
「えっ、女なんですか?ずっと新しい男だと思っていました」
小笠原から、ずっと持ち続けていた恐怖心が薄れたのを、俺は見逃さなかった。
「脅迫受けてたんか?」
『えっ』
小笠原だけでなく、ハネさんもが声を合わせた。
「どんな脅迫や?」
「ど、どう、どうして。それを……」
「三年前に此処に越してきたんやろ。前住んでた家に嫌がらせでもあったんか?」
「いやぁ、嫌がらせっていうのか、変な紙が一枚、ポストに入っていたんです」
「それを今、持ってないのか?」
「怖なって捨てたよなぁ」
「は、はい。直ぐに捨てました。でも、どうして?」
「何て書いてあったん?」
「えっと、『昔のことは忘れろ』ってだけ書いてありました」
「それで怖くなって、三年前に実家を売って引っ越した?」
「はい、仰る通りです。それに、そのあと何度か無言電話もあって」
「何でハネさん、この羽田さんを避けたんや?」
「昔のことを忘れろって、ココさんがいなくなったこと以外、僕の中で思いつかなかったんです。だから……」
つくづく幸せな奴だと羨ましかった。俺には忘れたい過去以外にないのだから。
「だから、俺が訪ねた時に居留守を使ったんか」
「そうです。すみません」
「何で、十年前に言ってきてくれんかった?したら、レイラちゃんも生きてたかもしれんのに……」
ハネさんの目から流れ落ちた涙が、児玉がくれた八年前の事故の詳細が書かれた紙と、森田由梨乃が事故死した時に乗っていたのと同じ車種の写真が映ったスマホの間のラグの上に、ボトボトと垂れ落ちていっていた。
「えっ、えっ。もしかして、ココさん、えっ、ココさんが……」
オロオロとしながらも小笠原は事態を飲み込めたようで、青い顔をして肩を落とし、ボロボロ涙を流し始めた。
「すみません」「ごめんなさい」と、嗚咽交じりに何度も口にしながら土下座する小笠原の背中を、初めは中途半端に握った拳でポンポンと叩いていたハネさんも、壊れたおもちゃを愛しむかように、背中を撫でながら「わかったから」「もういいから」と何度も言葉を吐き出していた。
俺が美枝子から依頼された仕事は、久保奈生美を見つけることだった。
だから、俺の知りたいことは、久保奈生美が何処にいる可能性が高いか、それだけだった。
小笠原の証言から羽田心音死体遺棄事件の捜査を進めても、今の状況では被疑者死亡で直ぐに幕は落とされる。それをわかっていても報告せずにはいられないのが、元警察官そして父親というものなのだろうか?
俺は、小笠原を連れて函館西署へ行くというハネさんと別れて、『La petite fleuriste』に張り込んでもらっている長谷さんに電話を入れた。
今日の早川芽美の行動は、午前に宅配の車が商品を取りに来た時に店前まで出てきたのと、午後一番にイベントホールへ白い軽バンで配達に出ただけで、あとはずっと建物内にいるということだった。
訪問客は、午前中にカップルが一組と、高齢の女性が一人。午後はまだ誰も訪れていないという。
俺は長谷さんにそのまま張り付いてもらうことにした。
函館中央署の中年刑事・玉木から教わったカメラのない狭い道を通り、市電に乗って笹森邸へ向かった。
途中、十字街で下車して、『ラッピ』でカレーとソフトクリームを食って笹森邸へ戻った。
俺の早い帰宅で、静江さんは驚いていた。
風呂に入り、部屋に入って、ベッドで眠った。どうせ、津田からの報告がないと、俺は先に進めない状態でいるのだ。
けたたましい着信音で目が覚めた。部屋はもう暗かった。
ガラ携のサブ画面に、津田の文字が流れていた。
――札幌まで行ったのですが、思うような情報は得られませんでした。けれど、帯広署の方々が頑張ってくれまして、早川芽美について色々とわかったことがあります――
川口が誇らし気に胸を張った姿が目に浮かぶ。
――現在、早川芽美には家族がいません。父親が十三年前にガンで亡くなっていて、母親も十一年前に同じくガンで亡くなっています。早川芽美の住んでいた家は、二年前に土地を売却する時に更地にされていて、今は別の持主が家を建てて住んでいました。何でも早川家は土地持ちだったらしく、屋敷があった音更町以外にも帯広の駅前や芽室町の国道沿いに土地を持っていたそうです。ですが、早川芽美の祖父から父親の代に十勝の繁栄と共に農地を切り売りして、早川家はかなり裕福だったそうです。今、確認出来て残っている土地は、帯広の駅近くに建っているホテルの土地と、芽室の工場に貸している土地だけです。この二ヵ所は長期賃借権があったのですが、あとは綺麗さっぱり、芽美が函館に移り住む時に処分しています――
「なるほど、そうですか。それで早川芽美の昔を知る人から話は訊けたんですか?」
――それが、昔からあまり近隣との交流はなかったようでして、中学の頃の同級生の話では、高校二年の途中から不登校になり、そのまま引き籠りになったそうです。そして二十歳の時に自殺未遂を起こしたそうで、札幌にある療養施設で何年か暮らしていたそうです――
「もしかすると、その札幌で二人は出会っていたんか?」
――いや、それはまだ全く。何処の施設に入っていたのかも不明ですし、その話が本当なのかも……――
「そうかぁ。で、それで?」
――そんな中、同級生の一人が、十二年前に撮った早川芽美の写真を持っていたのです。偶然、量販店で見かけて、デジカメを初めて買った記念に撮ったのだそうです。その写真を今さっき、現在の早川芽美の写真と森田由梨乃の写真、その三枚を三次元顔画像識別システムにかけたところ、現在の早川芽美と十年前以前の早川芽美が別人だと判明し、森田由梨乃と現在の早川芽美が同一人物であることが判明しました。あなたの言うとおりでした。こちらとしては、もう少し事実確認を固めてから、任意で引っ張る手筈は整っています――
今までのネタだけで、俺が動くには充分だった。早川芽美こと森田由梨乃を逮捕するわけではない。俺は只、久保奈生美を探し出して翔の元へ届けるだけなのだ。だが、そんなことを津田に言えば函館の警察を動かして、俺を止めることだろう。元警察官のハネさんだって二の足を踏むだろう。
「それで早川芽美のガラを、コロシで獲れるんかいな?」
――今、色々と調整をしているところですが、まだ時期早々かと――
「わかった。じゃあしっかり固めてな」
――はい――
「川口さんおる?」
――おう、いるぞ――
「ありがとう。これで昇進出来るとええな」
――なんもなんも。昇進なんて気にしてねぇさ。当たり前のことしてるだけだ――
「ほな、あとはよろしく」
そう言って俺は電話を切った。
そうは上手く刑事を使えないのだ。結局、俺が貧乏くじを引くことになるのだ。
時刻は二十時三十分を越えていた。花屋はもうとうに閉店している時間だ。
そろそろ長谷さんを解放しなければ。そう思って電話をかけた。
長谷さんはツーコールで電話に出た。
「スーパーでヒレステーキを二枚買って、今、家に戻っているところです」
そう高揚した感じで実況してくれた。
「何か他に変化はありましたか?」
「そういえば閉店間際に、多分警察の方だと思うのですが、二人連れの男が店に入っていきましたよ。五分ぐらいで出てきましたけど」
参った。函館中央署が久保奈生美の件で動いたのだ。もしかすると、最後の晩餐か?やはり、今夜中に助けに向かわなければ生きている確率が下がる。
俺は、そのまま長谷さんに任せることにして、ちゃんと目を覚ますためと、どう動けばいいのかを考えるために風呂に入った。早川芽美達は、今から飯を食うのだから時間はある。
髪を乾かして部屋に戻り、身体が整う間に警察庁の仲野に電話を一本入れた。電話を取った神村にいつもどおりに「折り返します」と言われた。俺は保険をかけるのだ。
久し振りに相棒のキーとヘルメットを持って、玄関へ向かう。歩きながら、薄手のグレーのパーカーのジッパーを引き上げた。
玄関ホールには、何処で見つけてきたのか西瓜柄の半キャップを手にした、ジーンズにスカジャン姿の美枝子が待っていた。
「何してんすか?」
「助けに行くんでしょ?久保ちゃんを」
「さぁ?行ってみんと何とも」
「私も行くから」
「何を言うてるんすか?足手纏いですわ」
「監禁してるのもされているのも女でしょ」
確かにだ。だいたい逃げられないように素っ裸か、それに近い格好だろう。
「わかりました。俺の指示は絶対ですからね」
そう言った途端、ヘルメットの中のグローブの上でガラ携が震えた。
「はい」
――久しぶりですね。元気に旅を続けていますか?――
「なぁ、千歳の時の貸しを返してもらいたいねんけど」
――はぁいぃ?――
十分と少しで『La petite fleuriste』のある建物が見えてきた。
少し手前でキルスイッチを切ってエンジンを止め、惰性で建物に窓のないシャッター側の壁沿いに相棒を停めた。
グルッと遠回りをして、長谷さんの高級車が停まっている住宅街の道にでた、俺達は車内で長谷さんと打ち合わせをした。何故だか美枝子は西瓜柄のヘルメットを被ったまんまだ。
「お嬢様もご一緒に?」
「そうよ」
「静江さんはご存知なのですか?」
「知ってるわよ。これ、静江さんからのプレゼント」
そう言って西瓜柄のヘルメットを指差した。
「だから、長谷川君は、私がこうやってスマホの灯りを振ったら、入口まで迎えに来てね」
「はい、それは……。本当に大丈夫なのでしょうか?」
「大丈夫よ。コイツがいるんだから。ねっ」
「兎に角、二階の鍵を開けたら俺がワン切りするんで、そこからニ十分経っても出て来んかったら、110番通報して下さい。お願いします」
俺達は車を降りて、ぐるっとひと回りしてからあの暗い玄関に辿り着いた。やけに星空が綺麗に見えた。
此処にカメラがないことは確認済みだ。
ヒップバッグから小型の潤滑油のスプレー缶と特殊工具を取り出した。本当は、相棒の鍵が折れた時や紛失した時にイグニッションキーを回すために持っていたもので、こんなことになるとは思ってもみなかった。
別にあとで警察に突っ込まれようが構わない。そのために仲野へ電話したのだ。先ずは二つの鍵穴に潤滑油のスプレーを吹き付けた。これがないと俺には開けられない。
口にペンライトを咥え工具を使う。その間、美枝子が周りを見張った。
本当に使われていないようで動きが悪かった。集中するために俺は、頭の中で、森田由梨乃の犯罪の経緯予想を並べてみた。手先に伝わる感覚が鋭くなった。
森田由梨乃は、性的マイノリティーや。
親が経営するクリーニング会社が倒産して、父親の首吊り現場を発見した。そこで自分の中の何かが変わったんか、ホンマの自分に気がついた。
早川芽美とはSNS上で出会ったか、それとも大学時代にいた札幌で療養施設にいた早川芽美と出会っていたかだ。
それでも母親が生きていて、欲求解消を実行することへのストッパーの役目をしてた。そのストッパー役が病気で死んだ。これで誰も森田由梨乃を止める人間がおらんようになった。
金はもしかすると、母親が死んだことで借金はなくなってたんやないかと思う。返済には父親の保険金である程度の目処がついた。そして、今度は母親や。借金を返済しても充分に金が余った。そやから、その金で、早川芽美に近づくための整形を始めた。先に顎をほっそりとさせたんは、完全に印象が変わる目元を変えんためや。免許証の顔とゴロッと変わると、何かの時厄介やと思ったか。
獲物の羽田心音は、ここ函館で見つけた。いや、ずっと前に、見つけていたのかもしれなかった。
出勤前の心音を車に乗せて、そのままこの中へ引き込んだのだ。
二つの鍵を開けるのに、五分もかかってしまった。
まだ鍵はあるのだ。二人並んでも上がれるくらいの幅がある真っ直ぐな階段を上がった踊り場にあるドアの鍵だ。そこはもっと早く開けることが出来るといいが。
俺はそろりと扉を開いた。
「ドキドキするね」
呑気に美枝子は小声で言った。
俺はシッと人差し指を口の前に立てた。
中は埃臭い匂いがしていた。
靴のまま階段を上がっていく仕様だ。
中に入ると、薄っすらと積もった埃の上に足跡がついた。
二階のドアの前にはすりガラスの窓があって、白い鉄製のドアが漏れ入った街灯の灯りにボウッと浮かんでいる。
俺は足音を立てないように階段を上がっていく。美枝子もゆっくりとうしろをついてくる。
鉄製ドアに右耳をつけて中の様子を窺った。微かに音楽が流れているようだ。それ以外の物音はしない。何処か奥の部屋で流しているのだろう。
俺はしゃがみ込んで、鍵穴に潤滑油のスプレーをかけた。シュッという外では小さかった音が、階段の踊り場では大きく響いた気がした。
もう一度ドアに耳を当てて中の様子を窺った。
先ほどと変わりはなかった。
ペンライトを口に特殊工具を使って、俺は開錠に集中した。小さな音も立たないように気をつけていたが、金属と金属が僅かに擦れる音が、何倍にも大きく俺の耳に響いていた。
ガチャリと音が響いた。やっと開いた。
俺の額には汗が滲んでいた。
ドアノブを回して、少しだけ引き開けた。大丈夫だ。ドアは開いた。
俺はドアを戻し、美枝子に合図を送った。その時、美枝子はくしゃみを堪える仕草を見せた。
俺は手で美枝子の鼻と口を覆った。
クシュンと俺の掌の中でくしゃみが小さく響いた。だが、階段の踊り場中にそれは響いたようだった。
俺は、直ぐにドアに耳をつけた。クラシックが流れているのがハッキリとわかった。
もしや……。
俺の中に不安が過る。
俺達は身動きせずに、そのまま三分間我慢した。
だが、中に踏み込まなければ、久保奈生美を救えないし、翔の笑顔も見ることはない。
美枝子に目で合図して、俺は長谷さんにワン切りし、ドアをゆっくりと引いた。
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