ロング・ロング・ロング・ロード Ⅰ 十勝の空 編 4
目が覚めるとテレビが点いていた。
灰色の窓の向こうでは雨が降っている。
テレビの画面の右上にある時刻は、六時四十七分。この頃、あの時の夢を見ないなぁと思った。
ベッドのサイドボードには、缶ビールが置いてあった。寝転んだまま持ち上げると、三分の一ほど残っている。思った以上に疲労が蓄積していたようだ、気絶するように眠ったらしい。
昨日、宿に着いた時には、明日は一日中寝っぱなしになるだろうと考えていた俺は、ゆっくりと上体を起こしてみた。少し疲労感が残っているようだが動けそうだ。ゆっくりとベッドから起き上がり、飲み残しの缶をもってユニットバスに向かう。身体は思いの外軽かった。
そのままシャワーを浴びた。充分睡眠をとったおかげで頭の芯はクリヤーだった。さっき見えた窓の外がクリヤーでないのが、せっかく梅雨のない北の大地に来ているのに残念だった。
ゆったりと作られたユニットバスの鏡に映ると、傷跡だらけの身体の中で、胸の手術痕だけが大きく目立っている。弾かれた時の傷は、そいつらの自慢話を聞きがてら何度か目にしてきたが、これじゃあ何の脅しにもハッタリにもならない。ただの病人だ。
弾は大動脈をかすめて背中から出ていった。少しずれていれば出血多量で死んでいたと医者は言った。そしてどういう訳か、大動脈の外側に損傷を受けることなく、内側が乖離し血管自体が破裂寸前まで膨れ上がっていたのだ。血管の壁は三層構造で、中の二層が螺旋状に裂けて最後の一枚で生かされたのだ。生きることと引き換えに大動脈の一部を人工血管に変えた。しかし俺の生き様同様、それで丸く収まる訳は無かった。乖離した腹部の大動脈を、腕の良い医者が時間の許す限り縫ってくれたらしいが、老人のように動脈硬化にはなっておらず、血管が柔らか過ぎて縫いきれず、随分と乖離した状態を残したまま、タイムアップで胸は閉じられた。血管が柔らかかったことと、術後の検査結果から、元々裂けていた可能性は低いと医者は付け加えた。
まぁそれを聞いて理解が出来たのは、一週間以上ゆっくりと昏睡し、身体中に刺された数々の管が抜かれ、気管挿管のせいで医者に罵声を浴びせられないほどに、擦れた声しか出せない頃だった。
今日は相棒には乗らない。それに体調も寝込むほどではない。そうと決めたら冷蔵庫の中のビールだ。と、その前に、今日は薬を飲んでおくことにした。
本当の皮一枚で生きているのだから、毎日血圧を測り、毎日決められた薬を飲む。それが普通なのだという。しかし、出発直前の診察では、三ヵ月分の薬しかもらえなかった。だから冬までの旅中は二日に一回のペースでしか飲めない。どうせ手持ちの金が尽きれば死ぬと決めているのだから、それほど考え悩むようなことでもない。
ビールはサッポロクラシックではなかった。だが、最初に搾られた汁は喉ごし良かった。
時折喉を鳴らしながら、今日の予定をPCで検索して決める。帯広に来たのだから昼飯は豚丼か?いや、カレーも捨てがたい。デザートにも主食にもなりそうな回転焼の饅頭屋は歩いていくには距離があった。昼飯に「満寿屋」のパンでも帯広らしい。それよりも、それまでを、どう時間を潰すかだ。
ホテルの裏に映画館があった。HPで上映作品と時間をリサーチする。朝イチの洋画を観れば、昼飯時までの時間は潰れそうだ。
九時からの洋画に合わせてホテルを出た。
それにしても映画館に足を向けるのはいつ振りだろう?
昨日、本州の真夏のような日差しで暑かった北海道は、雨が降ると寒かった。
ホテルで借りたビニール傘を忘れないようにしなければ。雨はとても大粒だった。
洋画を見る前にホットドッグをコーラで流し込んだ。これで昼のチョイスから「満寿屋」のパンはなくなったが、上映中に腹でも鳴ったら俺自身興覚めだ。
洋画は、退屈することも、笑うこともなかった。エレベーターに乗り込み、映画館で映画を見たのはいつだったか思い出してみた。沢木に拾われてから観た記憶がない。それ以前ということか。一階に着いて扉が開いた。朝は閉まっていたパチンコ屋の扉が開いているようで、何ともいえない喧騒が飛び込んできた。そうだ、あの時だ。俺がまだカタギで、池袋にいた頃だ。確か、東急ハンズのところにあった映画館で見た、あいつが出ていた映画だ。いや、ロサ会館だっただろうか?もうあれから随分と時間が経った。映画が終わってキスをしてきたのは、あいつからだった。
まだ、雨は降り続けている。
有名な豚丼の店「元祖豚丼のぱんちょう」へ向かったが、大雨の中、オープン前だというのに店の前には傘の花が咲き並んでいた。俺にはまだまだ暇が腐るほどある。豚丼を知るには、元祖のぱんちょうから喰い進めるのが一番だ。今は諦めて洒落たデザインの「インデアンのまちなか店」へ向かった。インデアンルーのカツカレーを一匙腹に入れて、やっと落ち着いた。旨い。北海道はスープカレーで有名だが、ホテルの斜め向かいにある帯広の老舗洋食屋「ふじもり」発祥の、ドロッとして、まろやかで、甘さと辛さのバランスが絶妙なルー。ホットオイルで辛さの調節をする。北海道のカレーとして、もっと全国区になってもいいぐらいとても旨いカレーだった。俺の好みだ。
いっぱいの腹をさすりながら繁華街を散歩した。少し離れれば飲食店以外にも店が散らばっていて、古い石造りの倉庫なんかがまだ残っていて、少しだけ、この街の歴史を垣間見ることが出来た。しかし、帯広ではまだ飲み屋が開く時間では全然なかった。ひと通り巡ったあと駅まで行って、構内のショップでソフトクリームを食い牛乳を飲んだ。
ソフトクリームの方は、牛乳感が強くて、カレーのあとだからなのか、とてもさっぱりと感じられた。
牛乳は、コクと甘さ爽やかさと、舌の上での転がり具合が旨かった。飲みながら、俺はこの旅で、もっと旨いソフトクリームに出会えそうな予感がしていた。
まだ降り続いている。今の旅をしている俺にとって雨は大嫌いで、人生を振り返れば、凄くラッキーでもあった。
駅の南側にある長崎屋に向かった。スーパーに行けばその土地のことがよくわかる。これは俺が経験から導き出した持論だった。
運が良い俺は、機敏に立ち回り確実にシノギをものにしてきた。早くから一般企業のようにリサーチに重点を置いて、目をつけた有能なリサーチ会社にも強引に出資した。簡単に言えば、体のいい乗っ取りだった。シノギはオヤジに任された駅チカのたこ焼き屋から始まって、自分のシノギのためにカフェを手始めにキャバクラへ。他業種の建設会社や生コン会社、運送会社にレンタル会社などにも手を出した。
色んな会社を経営していくうちに、自ら考え自ら作り出すよりも、流行に乗っかる方が利口だということに気がついた。初期投資の少ない飲食に的を絞った。何も流行りものの最初の一番だけが、大金を手にするわけではないのだ。引き抜きや妨害など、多少の力尽くは、所謂、職業的なものだ。ラーメンだって、プリンだって、かき氷だって、パンケーキだって、高級食パンだって、サバ缶だって、タピオカだって、ヤクザは何だって金にする。俺はそんな流行りの商売を形にして、廃る前にカタギに高値で売却した。塵は積もるもので、その上がりでITビジネスや不動産業にも参入した。SNSのスタンプでは、嫌がらせで左腕をポン刀で切りつけられるほど儲けさせてもらった。
帯広の駅前の様子は、北と南では随分と違っていた。南口は綺麗で大きな建物が整然と建てられていて、北口にある鼻の奥で微かに感じる雑多な感じが微塵もなかった。歩いていても楽しい感じはしなかった。
昨夜、地図に長崎屋を見つけて、俺は懐かしさを感じていた。俺が生まれ育った大阪の街にも長崎屋があった。けれども知らぬ間になくなって、いつしか俺の記憶から姿を消した。
古い建物なのだろうか?店内は昔を思い出させるほどだった。
各階を上から見てまわり、食品売り場は見ているだけで楽しかった。標津羊羹というものがあったり、野菜売り場に陳列された半切りのレタスにはレモンのスライスが一枚のせられていたり、足寄のラワン葺の水煮があったり、加工品売り場では、小樽てんぷらの袋入りや、ソフトわかさぎの佃煮のようなもの、かずのこのワサビ漬けがあったり、片隅には、ホッケの開きがたくさん並び、鮭ハラスの醤油漬け、糠ニシン、鮭とばが並んでいた。鮮魚コーナーには茹でた花咲ガニや毛蟹が並び、調味料コーナーには、何種類もの昆布醤油があって、味噌売り場には、見たことも聞いたこともないメーカーの味噌が数多く並んでいた。肉売り場には当然のようにジンギスカンの袋詰めが各社並んでいる。十勝だからこその商品ばかりで楽しかった。
時間は確実に過ぎていった。
適当に外に出ると、入った時とは街の表情がガラリと変わっていた。小さなビルが乱立していて、会社が多くあるようだった。通りから見える奥の方には住宅もたくさん建っていて、人々が生活している息吹が感じられる街並みだった。こちらが建物の正面なのだとわかった。
雨は小降りになっていた。
けれど俺は、雨の中を駅の北口へ向かうのは嫌だった。もう一度建物に戻って入った所から外に出た。
入った時には気がつかなかったが、出入り口の横に宝くじ売り場があった。宝くじなど愚の骨頂なのに、欲を夢だと誤魔化した人々が買い漁る。今もニ、三人並んでいた。宝くじも数字合わせのギャンブルだ。競艇、競馬、競輪、オートの公営ギャンブルと中身はなんら変わりない。唯一、払い戻しに税金がかからないのが宝くじの良い所か。
俺は、腹の中で馬鹿にしながらホテルへと急ぎ歩いた。ホテルに着く頃にはチェックイン時間を迎えてしまう。人が増える前に洗濯をしておこうと思い立ったのだ。
ホテルの部屋は清掃が終わっていて、ピンと張った寝具が嬉しかった。
洗濯物を纏めたビニール袋を持ってコインランドリーへ向かった。時間が早いからか、俺以外に利用者はいなかった。エコにご協力をの紙が壁に貼られていた。
最近、エコだなんだといって、連泊中は清掃、シーツ交換を省くホテルがあると聞く。その分僅かばかりは安くなるのだが、俺はそんなもの論外だと思っている。ホテルに泊まり、その日の気分をリセット出来るのが、俺にとっての外泊のメリットだった。糊の効いたシーツに潜り込む醍醐味が、今日とは違う明日が待っていると思えるのだ。泊るところがなくて、車中連泊を強いられた時には、明日もまた今日と同じことの繰り返しではないだろうか?と悲観的な気分が湧いて、さもしい気分になったこともあった。
部屋に戻って、テレビを点けた。半グレの一味が逮捕されたというニュースが流れていた。
今思えば、ヤクザはブラック企業そのものだった。自分の才覚で幾らでも稼げる代わりに、上納金の額も上がっていった。俺も今の半グレと同じ立場だったので、暴対法に縛られることなく好き放題稼がせてもらっていた。オヤジ、沢木に先見の明があったということだ。先駆けの分、今の状況よりは多少メリットはあった。けど、肝心要はヤクザのルールの上にしかなかった。
どうして俺は、過去を振り返っているのだろうか?
馬鹿らしくなって、ベッドに倒れ込んで、少しだけ眠った。ガラケーのタイマーは、帰りのエレベーターの中でセットしてあった。
夢など見なかった。ガラケーに起こされる。洗濯が終わったら乾燥機に入れなければならない。
中途半端に眠ったせいで半分ボケた状態の俺は、のんびりとコインランドリーに向かった。
ランドリールームのガラスドア越しに人影が見えた。随分早いチェックインだと思いながら俺はドアを開けた。
ランドリールームの中には、彼女がいた。
道の駅・ウトナイ湖のスタンプを押していた彼女だった。今日も地味を背負って生きているようだった。シャワーを浴びたのだろう。まだ完全には乾いていない彼女の髪からは、シャンプー・リンスのいい香りがした。
濡れ髪の彼女は、三台並んだ真ん中の洗濯機に洗濯物を入れ、投入口に二百円を入れたあと財布の小銭入れをまさぐっていた。あと一枚の百円玉が見つからないらしい。
俺は素知らぬ顔で、手前の洗濯機に入っている自分の洗濯物を取り出して、上の乾燥機に入れた。
彼女はまだ、財布の小銭入れをまさぐっている。あと一枚、百円玉があったはずだとまさぐっていた。
俺は乾燥機が六十分回るだけコインを入れた。そして一枚、彼女の洗濯機に放り込んだ。
「あっ」
「これで洗濯機動くよ」
そう言って、俺はランドリーを出た。
本当なら、倍の時間乾燥させたかった。そうすれば、部屋中に干す手間が省ける。枯れた男に変な色気が出たのだ。余計なことをしたのは、寝ぼけていたからだろう。
俺は部屋に戻って、乾燥時間が終わるまで、これからの旅を模索した。時折擡げる疚しい感情を抑え込みながら。
ガラケーのアラームで再びランドリーへ向かった。
彼女はそこにいた。濡れていた髪が乾いていたかわりに、唇にはグロスが塗られていて、少しテカっていた。
素知らぬ顔をして俺は、乾燥機がまだ回っている様子を眺めた。
「あのう、ウトナイ湖では、ありがとうございました。ちゃんとお礼を言えなくて……」
彼女は声をかけてきた。俺のことを覚えていたらしい。あの日もキャップを被っていなかったので、強く記憶に残っていたのだろう。そして、北海道訛りではないのは、俺と同じ旅行者ってことだろうか?
俺は何故だかわからないが、イイ人を演じることにした。
「ああ。いいえ。気になさ、なさら、ずに」
日本語が怪しい。常日頃、俺は誰とも会話することなく生きている。生存確認のようにかかってくる徳永の電話でも、時々呂律が回らずに笑ってしまうほどだった。
「あの、これ、さっきの」
彼女はそう言って、百円玉をおれに差し出した。
俺は最初何のことだかわからないようにふるまった。すると彼女は、俺の手を取って一枚の百円玉を握らせた。
「ありがとうございました」
チラッと俺の目を流し見して、しっかりと頭を下げた。
「あっ、ああ……」
挙動不審ぽかった彼女の一連の動きからは想像しなかった、しっかりとした礼儀正しい振る舞いに、俺の中の好奇心がドンドンと膨らんでいくのが自分でもわかるぐらいだった。術後、俺自身の中で、弾かれる前の俺では理解出来ない何かが顔を出し始めているのは確かだった。
俺の乾燥機の回転が終わる前に、彼女の洗濯機が停止した。
「どうして、私みたいなのに優しくするんですか?」
彼女は、洗い終えた洗濯物をランドリーバッグに入れることしか見ないようにしながら、俺に投げかけた。手入れのされていない指先で掻き揚げて露わになった横顔も耳も、肌が火傷でもしたかのように真っ赤に染まっていた。
俺は、彼女が突き付けた思ってもみない言葉を理解しようと巡らせた。一瞬言葉が出なかったのはそのせいだ。俺は、しっかりと彼女の横顔を見ながら、
「どうして?そんなん知らんよ。君が俺をそうさせてるんと違うかな?」
恥ずかしいほど浮ついた言葉を、俺は緊張のあまりに羅列し、知らぬ間に口説いていた。
飾り気のない女を口説くのは、ガキの頃以来だった。それは、人間の奥底に刷り込まれている生物的な、死ぬ前に働くという種の保存の法則に従ったものか、単なる人肌恋しさだけなのかもしれないが。
乾燥機が予告もなく停止した。ふたを開けて中の渇き具合を確認した。まだ少し湿気ていた。もう少し乾燥機にかけたい気分だったが、俺も彼女に倣って乾燥機から生乾きの洗濯物を入れてきたレジ袋に入れながら言った。
「俺ね、独りで旅してるんやけど、たまには誰かと一緒に会話しながら食事がしたいなぁって思ってたんやけど、良かったら一緒に晩飯、食べてくれへんかなぁ?」
こちらを向いた彼女の顔には、もう赤味はさしていなかった。さっきまでの彼女とは違う、別の女が立っていた。怒らせてしまったのか?
「ついてきて」
そう言ってランドリールームから出て行った彼女を、何がどうなるのかわからないまま、俺は慌てて追いかけた。ちょっとドキドキしている自分が楽しかった。
エレベーターホールにいる彼女に追いついた。エレベーターはすぐにやって来た。彼女が乗り込んで下の階のボタンを押した。俺は、経験則からあらゆる可能性を思い浮かべてみた。しかし、どれも彼女には当てはまらなかった。彼女の押したボタンの階に着くまでの間、俺は何が起こるのかを想像し、どう転んでもいいように腹を決めることにした。そして、もう一度彼女を盗み見た。しかし、彼女の表情から、この先に何が待ち受けているのかは読み取れなかった。
エレベーターの扉が開いた。彼女は無言で廊下を進み、自分の部屋のドアをカードキーで開けた。
「入って」
開いたドアを手で押さえながら言った。振り返った背の低い彼女が、変に大きく見えた。
中に入った彼女は、俺のことを一度も振り返ることなく、カードキーを室内の差し込みに入れて奥へ奥へと進み、ベッドしかない空間で立ち止まると、灰色のスニーカーと靴下を脱いだ。そして、着ていた地味を絵に描いたようなダボッとしたオリーブ色のトレーナーを、洗濯物の入ったランドリーバッグの上に脱ぎ捨てた。華奢な背中に薄水色のブラジャーのラインが綺麗に引かれていた。
俺は唖然とした。
彼女の動きは止まることはなかった。ダボッとしたカーキ色の綿パンを脱ぎ下すと、ピンクのパンツに包まれた張りのある尻があって、その下にヒョロリと伸びた二本の脚があった。
上下の下着の色が違うところが彼女らしい、俺はそう思うことだけしか出来なかった。
彼女は両手の親指をパンツの両側に引っ掛けると、躊躇なく一気に脱ぎ下し右足を抜いた。両手が背中にまわりホックを外しながら、左足に引っ掛かったピンクのパンツを、足を振ってはずした。
下から脱ぐ派なのかと、俺は無意識に感心した。
「子供出来ないから、生で良いよ。男は生が好きだもんね」
裸体になった彼女は北海道訛りで言うと、ベッドに横たわり、俺に向けて大きく股を開いて見せた。
大の字に開いた両腕に“痕”はなかったし、足の付け根や両足指の間にもなかった。
小さな顔は天井を向いて、目を瞑った睫毛は豊かで、首から流れるような細身のラインに右だけが少し大きいアンバランスな乳房をのせて、細い脚を大きく開いた部分には毛がなく、くすんだ肌色が、ただ口を閉じているだけだった。
顔と身体と股間、それぞれが別のパーツのように思える。そう思うと、この部屋の何もかもがカオスだった。
俺も今まで、色んな女を抱いて、色んな女と関わってきた。野郎共からは、嘘か誠かわからないが、色んな女の話を聞いてきた。こういう女が本当にいるのだと現実を知った。興味が湧いた。
「舐めた方が良い?入れる時は唾いっぱいつけてね」
行動を起こさない俺にイラっときたのか、目を瞑ったままの彼女は、突き放すように標準語で俺に言った。
俺の答えは、彼女が脱いだ服を拾って、無言で裸の彼女に放り投げるそれしかなかった。
こんなナメた態度の奴には、髪の毛をひっ捕まえて引き起こし、何発かのビンタを放ったあと、掴んだ髪ごと頭をベッドに放り捨てて、喉元を圧迫しながら「殺すぞ」と醒めた目で見るのが俺だったはずなのに。俺自身がどうかしているとしか思えなかった。動揺という、昔どこかに置き忘れてきた滑稽なものを、知らぬ間に拾っていたらしい。
投げつけられた地味を胸に抱いた彼女は、不思議そうに、ただ俺をじっと見つめていた。
「お腹空いたから。はよ服着よか。俺の奢りやし、何が食いたいか考えといて」
俺はそう言ってドアに向かった。そして、ノブを回し引いたドアの前で、
「あっ、俺も洗濯物干さなあかんから、三十分後、一階のエレベーターホールで待ってるわ。来るまで待ってるから。いや、ニ十分だけ待ってるよ。嫌なら来なくていいからね」
それだけ言い捨てて部屋を出た。
ドアを後手に閉めて、(何をやっているんだ俺は)と胸の中で吐いた。
部屋に戻って洗濯物を干した。膨らんだ股間のせいで少し歩きにくい状態で、Tシャツ七枚に同数のパンツ、靴下も椅子の背凭れに並べた。
頭の中では勝手に、彼女が来た時、来なかった時のシミュレーションをしている。どうなろうと美味いものを肴に美味い酒を飲みたい。それしかなかった。ただ、彼女のことが気になって、知りたいと思って、そして、笑った顔を見てみたいと、俺の知らない俺が思っていた。
多分、五分前に一階のエレベーターホールに着いた。
昨夜アラビアータだかペスカトーレだかを食ったレストランの入り口横にある椅子に座って待つしか選択肢はなかった。
時間が気になった。しかし、時刻を確かめるためには、ヒップバッグの中からガラケーを取り出さないと見ることが出来ない。面倒臭い。だから我慢出来る。チラチラと腕時計を見て、時間を気にする馬鹿で惨めな格好をしなくて済むのだ。ニ十個ほどあった腕時計を処分して、本当に良かったと思った。
ガラスに映る俺の向こうに見える雨降る街を眺めながら、自身を落ち着けるために、今の俺がいったい誰なのかを考えた。こんな身体になってから、時折、悩み立ち止まらなければならないことだった。
死に直面し、死を自覚した人間は、それまで生きてきた人生の中で、自分に足らなかった何かを会得して、仏の心に近づくらしい。見知らぬじいさんが、喫茶店のテーブル席で話していたのを、ふと思い出した。
俺的には、神も仏もクソ喰らえだ。神は助けてくれたことはないし、仏は死んだあとに極楽浄土に連れて行くだけだ。人の人生なんて、生まれ持った運でしかないのだ。過剰な正義感から道を踏み外した俺は、好き放題、裏稼業を生きてきていた、狡猾に利己的に面白く。
それが術後、気がついた時には、矛盾で混沌としている俺がいた。今まで嫌っていた努力や忍耐、夢や希望に対して、心の中で賛辞を贈る自分が現れたからだった。それがなんとも理解出来ないでいる部分だった。俺が変わったのは、起きた出来事による心的要因よりも、輸血で他人の血をいっぱい入れたせいなのではないだろうか?
何度かエレベーターの扉が開き、その度にガラスに映る人の姿を自然とチェックしていた。
彼女は現れた。靴もズボンもさっきと同じ、上はダボッとした灰色のパーカーで中に黒いTシャツを着ていた。
俺は笑顔を浮かべて立ち上がり、「行きましょうか」とだけ言って、夜の街に足を進めた。
彼女もホテルで傘を借りたらしい。お揃いのホテルのロゴ入り傘を差しながら並んで歩いた。身長の差が大きいせいで、彼女の顔はほとんど傘で隠れて見えなかった。傘を打つ雨音が時々彼女の言葉をかき消した。それでも俺は彼女に言葉を投げかけた。そんな少なめの会話の中で彼女が勧める「鳥せい帯広中央店」へ、彼女の先導で向かった。彼女曰く、清水町が発祥の、十勝では美味しくて有名な焼き鳥屋で、から揚げが特に彼女のお勧めなのだそうだ。
個室のように区切られたボックス席に通されて、サッポロ生を一気に飲み干して、俺はやっと緊張感が和らいだ。それは、生を三分の一ほど飲んだ彼女も同じだった。やっと俺の顔を見てくれた。だが、俺の話を聞くだけで、問いかけてもモゾモゾと俯いてしまうだけだった。やっと訊き出せたのは、彼女はスタンプラリーが大好きで、二年に一度、道内の道の駅を回っているということだけだった。
若どりの炭火焼きとから揚げが運ばれてきた。一人前を二人で分けた。
炭火焼きもから揚げも絶品で、爽やかに鶏の香りが鼻腔をくすぐった。二人ともお腹を空かせていたので、あっという間に腹に収めてしまった。
「ホンマに美味しいね」
「良かったです。美味しいって言ってもらって」
彼女の初めての、ちゃんとした言葉だった。
「ここへはよく来るの?」
「三回目です。前の二回は母と来ました」
そう言うと、見る見るうちに彼女の瞳に涙が溜まり、そして零れ落ちた。
彼女は、灰色のパーカーのポケットから赤いチェック柄のハンカチを取り出して顔を埋めた。
「ちょっとトイレに行ってくるね」
俺は堪らず席を立った。そのままトイレに向かい便器の前に立つ。ますます彼女のことがわからなくなってきていた。まるでジキル&ハイドだ。精神が壊れてしまっているのかもしれない。俺まで悲しみが伝染したようだ。目が潤んだ。搾り出してやっと、小便が出た。可笑しくなってきた。この俺が、たかが親が死んだぐらいでめそめそと泣き出すガキに感情移入してしまうなんて。本当に笑ってしまう。共感するふりは散々してきたが、本当に共感するなんてお笑い草だ。
席に戻ると、彼女の涙は止んでいた。無理に作り笑いを浮かべた彼女の前には新しいジョッキが二つと、注文していた焼鳥が並んでいた。
「冷めたら美味しくなくなりますよ」
彼女は明るい声で言った。
「もう一度乾杯してもらってもいいですか?」
そう彼女は言った。やはり、ジキル&ハイドか?
乾杯をすると続けていった。
「わたし、こうやって男の人と二人きりで、お酒飲んだり食事をするの、初めてなんです」
やはりジキル&ハイドだ。俺は注意深く、二本ずつ乗った砂肝、心ぞう、レバーを俺の小皿に取り分けている彼女を観察した。
「あんなことするヤツがって、信じてもらえないですよね。でも、本当なんですよ。今まで誰とも付き合ったこともないし」
そう言って彼女はレバーを串から直接食べて、「おいしい」と可愛く言ってからビールで流し込んだ。
俺も砂肝を頬張った。旨い。続いて心ぞうを口にした。どれも鮮度の良さがわかる美味さだった。
「一つお願いしてもいいですか?」
唐突に彼女が言う。俺は、レバーのまったりした甘さに感動している最中だった。とりあえず頷いた。彼女はそれを見て、声を小さく抑えた口調で喋りだした。
「これから話すことは、今まで誰にも、お母さんにも話せなかったことで、でも、今話さないと、これからのわたしが……。いえ、これからわたし変わろうと思って、でも、自分一人で抱えているのには重くて。だから、ヤかもしれないですけど、私のことを知らない誰かに話してみたくて。だからって、誰でもいいわけではなく……わたしのことを欲望の捌け口と見なくて……」
「そうでもないかもよ」
俺には彼女がこれから話そうとしていることがどんなことなのか、薄々だがわかってきていた。
「えっ」
「話を聞いて、俺は君を捌け口にしたくなるかもしれん」
俺の方がジキル&ハイドだと思った。昔の俺と今の俺が混在している。
「その時は、そうしてくれてかまいません」
彼女は強い目力で俺を見た。
「わたしが吐き出すもの全部、全部聞いてくれるのなら、かまいません」
俺は黙ってビールを飲み切り、焼酎ロック二杯と彼女の酎レモンを頼み、ツマミに刺身わかめとオニオンサラダ、ひな皮と心ぞうを頼んだ。
話を聞く前に、俺はもう一度トイレに行った。戻って来ると今度は彼女がトイレに立った。
彼女の帰りを待っている間、変な女に引っ掛かってしまったという思いと、どうにか彼女の力になりたいという二つの思いが、頭の中で複雑に絡み合っていた。