「アガンベン ホモ・サケルの思考」上村忠男
プロティノスが『エンネアデス』第六論集第九論文「善なるもの一なるもの」で神々と「神々のごとき幸福な人々」、すなわち哲学者たちの生活を定義するのに用いている「ピュゲー・モノウ・プロス・モノン(phygē monou pros monon)」=「単独者のもとへの単独者の亡命」という定式について、
アガンベンによると、「ピュゲー・モノウ・プロス・モノン」という定式において賭けられているのは、親密さのなかにあっての亡命、自己のもとにあっての自己の追放である。
この結果、哲学は同時に〈超ポリス的でもあれば非ポリス的でもある生を構築する試み〉として提示されることになるという。
それはポリスから追放されて切り離されながらも、「単独者のもとへの単独者の亡命」という形式をもつ「関係なき関係(non-relazione)」のうちにあって、親密で自分自身から切り離せないものに転化する。
〈生の形式〉とは、「もはや紐帯というかたち、剝き出しの生の排除‐包含というかたちをとらず、関係をもたない親密さ(un'intimità senza relazione)というかたちをとる、この追放のことにほかならない」
(生存の輪郭のなさについての様々な哲学者による様々な言及 使う言葉によって、受ける展望の効用が違う。となると読書/本や詩も どう、この世界を展開するか が超越的なものや絶対的なものはまた別の実際的な、)
(アガンベン『インファンティアと歴史』(邦題『幼児期と歴史』の序文)
人間の声は存在するのか。ミンミンというのが蝉の声であり、イーアンというのが驢馬の声であるように、人間の声であるといえるような音声は存在するのだろうか。存在するとして、この声は言語活動なのだろうか。音声と言語活動、フォーネー(音声)とロゴスとの関係はどのようなものなのか。 人間の声のようなものが存在しないならば、どのような意味において人間はなおも言語活動をもった動物として定義されうるのか。
こういった人間の声にまつわる問題こそが「まだ書かれていない」作品の主題をなす、とアガンベンは言うのだ