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論語と算盤⑥人格と修養: 1.楽翁公の幼時

楽翁公(らくおうこう、松平定信のこと)の伝は、すでに広く世間に知れ渡っていることであるから、今あらためて述ぶるまでもないのであるが、ここに述べんとするは楽翁公の御自筆で、松平家の秘書となっている『撥雲筆録(はつうんひつろく)』というものによりて、いささか公の御幼時における一端を窺うと同時に、その御人格御精神等の非凡なる所以(ゆえん)を紹介しようと思うのである。すなわち
『六つの年に大病に罹(かか)りたり、生くべきほど心許(こころもと)なかりけれど、高島朔庵法眼(たかしまさくあんほうげん)等、多くの医師打ち集いて医(なお)しぬ。九月の頃平癒す。七つの頃にやありけん。孝経を読み習い仮名なんど習いたり。八つ九つの頃、人々皆記憶もよく才もありとて褒めののしりければ、我が心ながらさもあることよと思ひしぞはかなかれ。』
これは御利巧(りこう)だ御利巧だと、皆が御世辞言うから、自分自身は悧巧なつもりでいたのが恥かしいという、懐旧の情を叙べられたので、甚だ床しき述懐である。
『その後大学など読みならいたる頃、幾かえり教えられ侍(はべ)りても、得覚え侍らずして、さては人々の褒めののしりけるは、諂(へつら)い阿(おもね)るにこそ、実はいと不才にして不記憶なりけりと、九つの頃ふと覚りぬ。これを思えば幼き時褒めののしるは、いと悪しきことなるべし。十余りの頃より名を代々(よよ)に高くし、日本唐土(もろこし)へも名声を鳴らさんと図りけるも、大志のようなれども、最(い)と愚かなることにぞ侍りける。』
これによって見ると、十歳ぐらいの時から、海外にまで聞こえるほどの人物になりたいと思われた。実に非凡なことである。しかし御自身では、それは大志のようではあったけれども、烏滸(おこ)の次第であったと謙遜しておられるのである。
『その頃より大字(だいじ)など多く写して、人の需(もと)めに応じたりけり。皆々乞い需めしも諂いの種に生い出でしことなれば、その需めに応じて書きける心いと浅かりけり。』
私どもも時々字などを書かせられるが、あるいは楽翁公がここに言われたようなことがあるかもしれない。
『十余り二つの頃、著述を好みて通俗の書など集め、大学の条下にある事々を書き集めて、人の教戒の便りにせまほしく思い立ちて書きけれども、古きことも覚え侍らぬ上、通俗の書は偽り多しと聞きければ止めたり。』
もう十一、二歳の頃から著述をして、人の教えになろうと思うことを書き始められたのであるが、しかし古いことは知らず、また通俗の書を参考にする。事実を失っていることがあるから、読者を誤らしめてはならぬと、思い返して止められたのである。
『今思えば真西山(しんせいざん)の大学術義の旨趣に類したる大旨なれば、蒐(あつ)め侍らざりしぞいともいうべきにぞ。この頃より歌も読みたれど、皆腰折れの類にて覚えもし侍らず。また頼る人もなければ、自らよみて反古(ほご)にのみしたり、鈴鹿山の花の頃、旅人の行きかう様画きたるを見て、”鈴鹿山旅路の宿は遠けれど振捨てがたき花の木(こ)の下(もと)” と詠みたるも、十余り一つの頃にありけん。』
十一歳の時にすでに、こういう歌を詠まれたのは、文芸上においても天才であったように思われます。
『十余り二つの時、自教鑑(じきょうかがみ)という書を書きたり。大塚氏に添削を請いたれば、そのうちの書にしては見よきなり、今もあり。清書の頃、明和は七つとあれども五年の頃より作りたり。父上悦び給いて史記を賜う。今も蔵書になしぬ。十余り一つ二つの頃より詩を作りけれど、平仄(ひょうそく)も揃いかねて人にも言いがたきなり。
雨後の詩に、
     虹晴清夕気  雨歇散秋陰
     流水琴声響  遠山黛色深
また七夕の詩に、
     七夕雲霧散  織女渡銀河
     秋風鵲橋上  今夜莫揚波
とよみたるも、多くの師の添削にあいたれば、かかる言葉とはなりける。』

これで見ると、楽翁公は性来(せいらい)非常に多能で、少年の時分からよほど優れた御人のようである。自教鑑というは公の蔵書中に出ているが、自分の身を修めるということを自ら戒めた書で、あまり長篇ではないように記憶している。私も昔、これを読んだことを覚えている。楽翁公はまた、甚だやさしい性質の御方であったが、しかし老中、田沼玄蕃頭(たぬまげんばのかみ)の政治をひどく憂えて、とてもこれでは徳川家は立ち行くことはできぬというくらいに憤慨して、ぜひこの悪政を除くには、田沼を殺す外はないから、身を捨てて田沼を刺そうということを、覚悟したということが、この書の中にも書いてある。元来、至って温和な思慮深い御人であったが、ある点にはよほど精神の鋭い所のあった方のようである。なお続いて読んで行くと、癇癖(かんぺき)の強い所があって、それを侍臣が厳しく諌(いさ)めたことが書いてある。
『明和八年、予は十余り四ツになれり。(中略)予この頃より短気にして、僅かのことにも怒りふずくみ、あるいは人を叱怒し、または肩はり筋いだして理をいいなんどしたり。みなみななげかしとのみいいたり。大塚孝綽(おおつかこうしゃく)ことによくいさめたり。水野為長(みずのためなが)常にいさめて日々のよしあしをいいたり。聞けばいと感じけれど、ふずくみの情に堪えがたきに至る。床(とこ)に索道のかきし太公望の釣する画をかけて、怒りの情おこれば独りそれに打ち向かいて、その情をしづめけれども堪えかねたり。ひと日全く怒りの情なくくらしたく思いしかど、終にその頃はなかりき。かくても十八歳の頃より洗いそそぎしようになりたるこそ稀有なれ。全く左右の直言ありしゆえなるべし。』
これによりてみると、この御方は天才を有っておられて、しかしてある点には、よほど感情の強い性質を有っておられたが、これと同時に大層精神修養に力を尽くされ、そして遂に楽翁公の楽翁公たる人格を、築き上げられたものと見えるのである。

楽翁公、すなわち松平定信がその非凡な人格と精神をいかに修養されたかということが、彼の自筆による記録「撥雲筆録」を基に述べられています。楽翁公は幼少期に大病を患い、治療を受けて回復しました。学問に勤しむ幼少期を送り、特に六歳の時に孝経を学び、八、九歳頃には記憶力や才能を褒められることが多かったと記されています。しかし、楽翁公自身は、周囲の褒め言葉を単なるお世辞とし、自身を謙遜しています。また、十歳頃からは名声を高めようと考え、さまざまな分野での努力を続けました。十一歳頃には詩や歌を作り、文学的な才能も示していたことが記されています​​。

楽翁公が六歳から学んだとされる「孝経」ですが、「四書五経」とともに藩校の教育の中心となる儒学の教科書の一つでした。

四書

  1. 大学(だいがく) - 個人の道徳的修養と社会的責任について述べた書。

  2. 中庸(ちゅうよう) - 道徳的なバランスと調和をテーマに扱っています。

  3. 論語(ろんご) - 孔子と彼の弟子たちの言行録で、儒教の基本的な教えが記されています。

  4. 孟子(もうし) - 孟子(メンシウス)の思想と教えが記された書で、人間の善性についての議論が中心です。

五経

  1. 詩経(しきょう) - 古代中国の詩が集められており、歌や礼儀、政治に関する内容が含まれます。

  2. 書経(しょきょう) - 古代中国の歴史書で、歴史的な文書や演説が収録されています。

  3. 礼記(れいき) - 礼儀や儀式、社会規範に関する教えを集めた書。

  4. 易経(えききょう) - 陰陽の原理や占いに関する書で、宇宙や人生の理を解説しています。

  5. 春秋(しゅんじゅう) - 春秋時代の魯国の年代記で、孔子による編纂とされています。

藩校の教科内容は、江戸幕府直轄の昌平坂学問所の影響を受けており、漢学である儒学、特に朱子学を中心としており、これに武芸を加え文武両道を教育理念としていました。従って、 藩校の教育の中心となる儒学の教科書は、主として「四書・五経」と「孝経」だったわけです。

このように中国から伝来した漢文は今で言う道徳・モラルを学ぶのに大変優れた書物ではありますが、楽翁公は六歳から「孝経」のほかに仮名も学び始めたとあります。要は大和言葉も学び始めたということですね。

話は飛びますが、上智大学名誉教授で専門の英語文法史のほかに日本文学にもお詳しい渡部昇一先生が「お雛さまのもととなる源氏物語と大和言葉」について面白いことをおっしゃっています。

ここでは平安の女流作家による日本文学は世界最高の文学であり、これを儒教・漢文が重用される江戸時代に自ら学び、広く大衆に広めたのは徳川家康公であったと言及されています。

本文の後半には、楽翁公は文学的才能も豊かで、「感情の強い性質」を持っておられ、「大層精神修養に力を尽くされ」たとあります。

本書のタイトルは「論語と算盤」ですが、教育に大切なものは「論語・算盤と情緒」だと思わされた今日この頃でした。

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