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- おじさんの追憶 vol.12- 1999年 ポーランドとウォッカ



極寒のポーランド

1999年のヨーロッパ周遊、滞在のベースにしていたミュンヘンで年越しをして2000年に突入。次に目指す先は、ポーランドです。途中チェコのプラハに立ち寄って。ポーランドはクラクフに行きました。本当はワルシャワとかも、時間があれば足を伸ばしたかったんですが、帰国の飛行機のスケジュールがあったんです。それにしても真冬だったんで、寒かったです。

ミュンヘンからプラハで1泊して、クラクフに入りました。

世界遺産の街、クラクフ

クラクフは中世の街並みが残ると言うことで、世界遺産に登録されている美しい街。印象に残っているのは、旧東欧の国っぽさ=無機質で野暮ったい垢抜けない感じの建物と旧市街のいわゆる中世の石造りの建築物のバランスが良かったこと。

こちらは旧市街の広場です。
街角で売っていたのは、ベーグルなのでは?というのを、ながつきかずさんの旅行記を読んで、ふと思いました。
これも旧市街の風景

オシフィエンチムへ

クラクフから電車に乗って、郊外のオシフィエンチムへ向かいます。ここは負の世界遺産が残っている街。真冬ってのもあって、訪れる人は少なかったです。現地へのアクセスもバスが少ないとか、大変。

歩いて移動したので大変でしたが、後世になってみるとこのカット、印象深いです。
旧共産圏で主流だったトラバントの変形タイプでしょうか。
収容所の入り口です。ガイドツアーはあったのかな。私は1人で周りました。

強制絶滅収容所

多くの人がピンとくるように、この街に来た理由は強制収容所です。もちろんそれはそれで、なんですが、ポーランドは収容所があっただけじゃないっすから、というのは後日思いました。他にもいろいろあるでしょうよ。

収容所に関しても、ユダヤ人(正確には以外も)たくさん殺された→悲しい→殺戮いけない、平和が大事ってことだと、そりゃそうだって話なんですが、ここに来たからには、もうちょっとガツンと殴られてもいいんじゃないかと思います。

実際、ここでやったことは、"人間"が"人間"に平気でできることなんすよね。人間はいかに醜いか。私はそんなことしないけどって?もし執行する立場になったら、それを拒めるんすかね。本当に?価値観が狂った時代の、どんな世論の中でも?どうなんでしょう。わかりません。

これをナチスっていうヒドイヤツらが悪いって話だけにしちゃうと、思う壺なんすよね。誰の壺だかわかりませんけど。日本人はこんなことしません、なんてことはないわけで。(似たようなことはやっていますし) 私も、あなたも、こういうことするかもしれないんですよ、やる方の醜さもやられる方の無力さもどう思うのか、考えてくださいよってのが、負の遺産としてここに残す意味なんじゃないかしら。戦争犯罪の教訓はどうにかして自分事にしないと、キレイゴトで終わっちゃいます。

もっと言うと、このピンポイントの出来事にとどまらず、ユダヤ人の歴史も理解したいところです。こういうことが起こった背景、そして子孫たちが今やってることは、はて、それは不問なのかしら。結局、千年、二千年と誰も何も解決できないことです。

ここはビルケナウというあとから作った収容所。この光景、行き着く先です。
気温はマイナス10度とか、めっちゃ寒いわけです。加えて深々として。
ほとんど人がいないんですよ。こういうところとか、各部屋の中とかもちろんガス室跡とか、思い返すと、ズシッと重くなります。

忘れたいクラクフでのウォッカ

オシフィエンチムから戻って、旧市街で食事をしているときに、地元の大学生と名乗るGuysと一緒になりましてね。ドンチャン、若者同士、いや~、ポーランドの良い思い出、といきたいところだったんですが、最終的に、とんでもない目に遭いました。

そもそも、ポーランド語は当然、英語もろくにわからないのに、なぜ盛り上がったんだろうという疑問は残ります。記憶をたどると、レストランで出会った彼らと、意気投合?して、二軒目に行って、そこでウォッカをパカパカ飲んで、酔い潰れたんです。

で、事件はそこから。ヤツら悪者で、クレジットカードが、限度額ギリギリまで使われてたんです。私がサインしたんだろうけど、支払いをどうやったんだか。何回も金額変えて決済トライしたのかな。確か日本円で50万円までだったと思います、学生のVISAカード。結果として彼ら(というか、その払ったお店、そこ経由で彼らの手に渡ったのか。わかりませんが、、)にぼったくられたんです。翌日、なんかでカードを使おうとして気づきました。アレッ、使えねぇって。残りの旅程をCity Bankに入れていたキャッシュだけで過ごしたんでした。ホントのインパクトは、確か20万ちょいだったかな、支払い請求が来た帰国後。あるいは、本当にウォッカとか他のお酒とか馬鹿騒ぎの代金がそれくらいだったのかもしれませんけど。

何にしても酔っぱらってたから、詳細はおろか全体像もなんだかよくわかりませんが、”不覚”と”軽率”を海外で学ぶと、そういうことです。死なないだけよかったと、そう思うほかないんです。

これが二軒目のクラブみたいなところじゃないですかね。こっちの方が酔ってる。
なんで彼らと盛り上がったのか、全く思い出せません。当然、翌日以降にこの二人に再会するはずもなく。交換したメールアドレスも適当でした。

さて、このあとは・・・

当時の日記を読むと、収容所で思ったことはいろいろ綴ってありました。いち青年が経験した、衝撃を受けたこととしては、価値があるなと思います。ただ結局、それ以上にボリュームが多かったのは、クレジットカードでトラブったことの悔恨でした。それもこれも、”旅”が教えてくれたことです。

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