シャーンティ✖️3 の意味とルーツ
シャーンティって平和のことでしょって?
「他人と争わなければ平安でいられる」なんていう日本人的な考えを外して、インド人だったらどう考えるか?と考察してみましょう。
『平和とは戦ってでも手に入れるものである』というのがインドに限らず、どこの国でも標準的な考え方のようです。特に米国で誰もが銃を持てるのは、この考えが基本に有るからです。勿論それによる功罪はいろいろ有るので無条件に賛同は出来ませんが、そういう考えが大多数である。ということはおさえておく必要があります。
バガヴァッドギーターでも「殺せ!戦うことが[戦士として生まれた]お前の使命(ダルマ)だ!」というのが基調です。日本人が大河ドラマ等で過去の偉人を知る様に、ほとんどのインド人はギーターを、演劇やドラマ、小説等で『正義(ダルマ)の為に戦うものである』と子供の頃から刷り込まれます。
「ギーターの戦場とは“人生の困難”を暗喩している。殺人を肯定しているのではない。」とヴェーダーンタのスワミが言ったりしますが、ほとんどのインド人にとってその言葉は「馬の耳に念仏」でしかありません。
マハーバーラタでは小型原爆のような超兵器の使用が描かれているし、過去の印パ戦争では原爆攻撃のスイッチに指が触れていたそうです。
そんな前提で『シャーンティ=平和』といってみると、間違いではないんだけど、そんな単純じゃないよね。と思えてしまいます。
また、言葉の辞書的な意味でも、本来のサンスクリットが持つ豊穣なイメージが抜け落ちて、なんというか携帯電話の通話機能でライブ音楽を聴いているような気がするんですよ。
さらに言えば「peace peace peace」と英語で言われると、昔吸っていた煙草の銘柄にしか聞こえないのでありがたみが無くなってしまいます。
サンスクリットの発音で、日本語の『シ』に該当する音は(Ś Ș S)の3種類有って、最初のŚ(श)は日本語の『シャ(シャ シュ ショ)』に相当し、新聞のシの音が近いです、最後のS(स)は『サ(サ スィ ス セ ソ)』に相当します、真ん中のṢ(ष)は“唇を尖らせて”『シャ(シャ シュ ショ)』と発音すると、それっぽく聞こえます。
さて、ここで問題です。
イナゴのポーズをサンスクリットで“何アーサナ”と言うでしょう?
答は「シャラバアーサナ शलभः [śalabhḥ] + आसन [āsana]」です。
蝗という蟲は蝗害という字が表すように地上のありとあらゆる植物を食べ尽くし、通り過ぎた後には生き物の姿さえ見かけない荒涼とした世界が残るのみ、と言われます。
シャーンティの『シャ』はシャラバーサナの『シャ』と同じŚ(श)です。(शान्तिः [śāntiḥ])
シャーンティの意味は、静けさ/静寂/安らぎ/休息/飢えの満足/破壊/終わり/死 etc
つまり蝗が飛び去って、動くモノの何も無い死の世界です。マハーバーラタ(バガヴァッドギーターを含むインド最大の叙事詩)で、最終戦争が終わった後の世界かもしれません。
単純な平安ではないのです。
コレは以前にも書きました。
そして『シャーンティ』は3回唱えます。
発音は śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ
です。どの単語でも語末には ḥ が付いています。
日本語読みだとシャーンティヒ シャーンティヒ シャーンティヒ
半角のヒと全角のヒで表しましたが実態は(最初の2回は)語末の i + 息吹+ 次の単語先頭の ś で連声し、シャーンティシュ シャーンティシュ シャーンティヒ(最後は i + 息吹)に聞こえます。
3回唱えることのソースを調べると、サーンキャ学派(ヨーガスートラのヨーガ学派と並べられる印度哲学の学派です)のサーンキャ・カーリカという聖典の『3種の苦しみ』に辿り着きます。
「一個の生存者としての自身、それに対立する他の生存者、その両者から独立していてしかもその両者に支配的影響を及ぼす自然界(あるいはそれを支配する神々)とが対立していることによる苦しみ」だそうです。
◆〈自身に由来する苦しみ〉ādhyātmikam [duḥkham] とは、肉体的なものと精神的なものの2種類。
〈肉体的な苦しみ〉とは、アーユルヴェーダでいう「ヴァータ(風)」「ピッタ(火)」「カパ(地)」の3つのドーシャのバランスが崩れる事による苦しみ。
〈精神的な苦しみ〉とは、佛教で言う「四苦八苦」に相当します。
特に8番目の苦(五蘊盛苦)は、深く考えると自分で自分を苦しめている事も含んでいるので要注意です。
◆〈外的な生存者に由来する苦しみ〉ādhibhautikam [duḥkham] とは、母胎から生じるもの、卵から生じるもの、湿気から生じるもの、芽から生じるもの(人間(肉親、他人)、野獣、鳥、蛇、蚋、蚊、虱、南京虫、魚、鮫、大魚、植物)との対立と言われます。
◆〈運命(天命)に由来する苦しみ〉ādhidaivikam [duḥkham] とは、天変地異や暑さ・寒さ・風・雨などの自然現象やそれを司る神々の行い、つまり人間にはどうすることもできない苦しみを表します。
少なくとも人と人の争いは無くしたいものですね。
上記3種の苦しみが無くなりますように。
私の身体や精神の苦しみが無くなりますように。私の周りの全ての生き物が幸せでありますように。世界中の自然現象による苦しみが無くなりますように。
生きとし生けるものが幸せでありますように。