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勉強遍歴

高校受験が終わった日のことを覚えている。
第一志望の公立高校だ。絶対に外せない。私はこの高校に受かる為に全精力を注ぎこんでいた。友だちの遊びの誘いを断り、好きだったゲームも読書も絶ち、休み時間も休まず問題を解き続けた。
「あいつ、勉強ばっかしててキモいわ。優等生ぶってる。あれで落ちたらウケるよね」
同級生が聞こえるように話していた。しかし耳を貸さなかった。

午前から、昼を挟んで英数国理社の5科目を解き終えて帰路に就いた。寒い日だった。しかし確信があった。

「これは受かった。」

体温が上がっていくのを感じた。その足で通っていた学習塾に向かい、模範解答と照らし合わせた。1科目50点満点で、英国社が満点、理数が48点とか、そんな感じだったと思う。
高校受験は内申点も合否に関わる。私はオール5だ。漢検は2級、英検も数検も3級を持っていた。これもプラスになる。部活に入っていないことは少々マイナスではあったが、ペーパーテストのスコアに比べれば誤差といっていい。
合格発表の日、浮足立った気持ちで結果を見た。勿論、合格だった。学習塾のインタビューに写真付きで載った。
同級生の中には志望校に落ちて教室で泣き出す者も沢山いた。勉強しない奴はバカだと思った。オレはお前らが遊んでいる間、ずっと自分を追い込んで来た。この高揚をお前たちは知らないだろう。勝った。人生に勝った。
オレの人生は波に乗っている。オレは今日も明日も明後日も自分を追い込み続ける。お前らが油断している間もずっと走り続けてやる。誰も追いつかせない。
このカスみたいな田舎の中学校を出て、まともな人間の世界で生きるんだ。私は興奮を覚えた。

私は発達障害者である。そういう病名がついたのは成人してからだったが、子どもの頃の方が顕著にそういう特徴をあらわしていた。
小学生の頃は、落ち着いて授業は受けられない。癇癪もちで、暴力で物事を解決しようとする。部屋は片付けられないし、宿題はまともに出したことがない。あやうくのびのび学級に入れられるところだった。のびのび学級とは、支援学級のことである。
私は小5になるまでカタカナと九九もまともに出来なかった。
余りの不出来に、親は私を近所の戸建ての家で開いている公文式の教室に通わせた。何故公文式だったかというと、公文式には入塾試験が無かったからだ。
それ以外の学習塾には全て、入塾試験で落第して入ることさえ許されなかった。
公文式も本来年齢的には小5の内容から入るところを小2の内容から始めることになった。私の周りには、明らかに私より身体も小さく言動の幼い子どもしかいない。なのに私はそんな子たちと一緒に足し算引き算のプリントを解かされ、しかも私の点数は彼らにも劣っていた。小学校に行けば同じ教室で会話をしているはずの同級生らは別室で談笑しながらプリントを解いていた。
彼らはきっと私を下に見ているのだろうと思い、痛く傷ついた。

その頃、小学校の渋谷先生という副担任がクラスの生徒各々に自分の蔵書をランダムに一冊ずつ貸してくれ、私たちはそれぞれ与えられた本の読書感想文を書かされることになった。私に割り当てられたのは、「ハリーポッターと賢者の石」だった。
恵まれない出自の男の子が、ある日自分が魔法使いとして稀有な才能を持っていることを見抜かれ、別世界の学校へ旅をする話だった。ハリーポッター。全部カタカナである。他にもカタカナの名詞が大量に出てくる。当時カタカナの覚束なかった私にとって読み進めるのは容易なことではなかった。しかし文章が簡易で、内容も面白くどんどん引き込まれた。
辞書を片手に言葉を調べながら読み進めることにある種の快感を覚えた。
一冊読み終わるころにはカタカナをマスターしていたし、公文式で勧められ受けさせられた漢検5級に受かっていた。
そこから教科書に書いてある意味が解るようになり、授業の意味が少しずつ理解できるようになった。小6になる頃には公文式のプリントも何度も飛び級し、気付けば小6の内容も難なくこなせるようになっていた。しかし同級生とケンカし、公文式は辞めることになった。

中学生になり、また勉強についていけなくなった。特に英語だ。
当時私は陸上部に所属していた。朝練、夕練、合宿、大会と忙しい日々を送っていた。市大会で優勝し、県大会に出場した。県大会の結果は振るわなかったが、それでも学年で1番足が速かった。ある日、「こんなことをしている場合じゃない。」と思った。

当時、家にデスクトップのPCがやってきた。Windows99だ。そして、ネット上にpatoさんという人の運営するnumeriというテキストサイトを見つけた。これが抜群に面白かった。部活から帰ってnumeriの過去ログを読むのが楽しみだった。読み進めていくと、patoさんは国立大学の理系学部を卒業した高給取りのサラリーマンだということが判った。
もうひとつ、くすきはいねさんという人の運営する『勘。』というブログもよく読んでいた。当時20代前半だったのだろうか。都会の大人の女の私生活を短いエッセイにして毎日更新していた。そういう姿に憧れた。過去ログも読み進めていくと、彼女もまた国立大学を卒業して広告代理店で働いていることが判った。

二人に憧れてネットにテキストサイトを立ち上げて公開した。しかし全く思うように書けなかった。
中1の私は、自分は別にそんなに賢くなくても良いと思っていた。しかしpatoさんやくすきはいねさんのように面白い文章を書くためには、どうやら賢くなくてはいけないらしい。国立大学を卒業するくらいの賢さだ。
中1の終り頃、私の成績はほぼ2、たまに3だとか、そんな感じだった。アホな私でもこれはまずいと思った。親に頼んで学習塾に入りなおすことにした。小学生の頃に入塾を断られた学習塾だったが、今度はギリギリ入ることが出来た。

賢いということの具体的な意味は解らなかったが、国立大学という学歴が賢い人の称号であることは知っていた。まずは地域で一番頭の良い高校に入らなければ話にならない。
私は部活を辞め、頭を丸坊主にし、ゲームを捨て、休み時間も休まないことを誓った。ブログだけは書き続けた。そのうちネットで沢山知り合いが出来、現実の友達は要らないと思った。
公文式と同じだ。中2になろうとしていたが、中1の問題集を最初から何度も解いていった。
理解力がなく授業をまともに受けられないというADHDの気質は相変わらずだったが、一人でいるときは腕に噛みついて机に向かった。
最初は結果が出なかったが、何度も問題を解いていくうちに「身体が解き方を理解していく」という感覚になった。成績はどんどん上がっていった。
私の通っていた学習塾には月1のテストがあり、そのランキングが名前と点数付きで廊下に掲示される。私の名前もぼちぼちそこに載るようになった。しかし1位、2位を競っていたのは、敦子さんと海野さんという、隣の市の中学校に通う生徒だった。
学習塾の同級生の間では、「この二人、いつも名前載ってんな~」と話題になっていた。

中3の夏休み、学習塾には夏期講習がある。私の住むA市と、隣のB市の学習塾の合同で実施されることになっていた。
初日、クラスの席割を見ると私の名前の隣に敦子さんの名前があった。
席につき横目で見ると、敦子さんは実際以上に大きく見えた。何故かスカジャンを着ていて、怖い顔をしていたが、勇気を出して話しかけた。

「あの、敦子さんですよね。ランキング常連の。」

「だっちゃんでしょ。知ってるよ。あなたの名前、よく見るもんね。私、負けないからね」

敦子さんは私の方をちらっと見てそう言った。
あのランキング上位の常連の敦子さんが、オレのことを知っている!?
自分が見も知らない人に名前を知られ、賢い人として認識されていることを知った。これは凄いことだと思った。

「あ、オレも負けないんで」

初対面からバチバチである。

「あの端っこに座ってるのが海野くんだから」

敦子さんが指さす方を見ると、海野くんがこっちを見て、「どうも~」といって手を挙げた。他の生徒も皆、ランキングに名を連ねる常連ばかりだ。このクラスは学習塾の成績が上位の人達だけが集まるモンスターハウスだ。目的の為にストイックに努力できる熱い魂の持ち主しかいない、最高の空間だと思った。

中3にもなると、私の成績は田舎の中学校では圧倒的にトップに立っていた。当時は未だ定期テストの結果が掲示されていたので、自分の立ち位置は一目瞭然に判った。そして中学校の同級生の話す内容が幼稚で取るに足らないこと、授業の内容も頭の悪い人に言って聞かせるようなことばかりで私にとっては時間の浪費でしかないことに怒りを覚えた。
学習塾でだって、集まる生徒の中で私より成績の優れた者はいなかった。

日々、退屈だった。敗北を知りたい。オレは陸上で県大会に出る実力があったのに部活を捨てた。なのに何の結果も出ないのにダラダラ惰性で部活を続け、危機感も覚えずヘラヘラしている奴らばかりだ。オレは喧嘩も辞めた。しかし不良たちは今日も無意味にオラついている。あんな風に悪ぶったって都会では通用しないだろう。何の為にあんな非生産的な活動に精を出しているのか、あいつらは一体何の為に生きてるんだろう。
オレを燃え上がらせてくれるような、何もかも捨てて勉強に注ぎ込むような熱い魂の持ち主としのぎを削り合いたかった。
そして私の世界では、ただ学習塾のランキングで隣の市の生徒だけが私を何度も打ち負かしていた。
オレはこんな小さい田舎町に留まる人間じゃないと確信した。早くもっと広い世界に出て、国立大学に行って、高い世界で生きたい。

夏期講習最終日の試験、私の成績は敦子さんや海野くんに次ぐ3位だった。仲間たちとお互いの健闘を讃え合った。
あの二人は必ず第一志望の高校に来るだろうという確信があった。私の住んでいた地域では、ある程度の成績以上になるとその公立高校を受験するか、かなり遠くの私立高校に行くしかなかったからだ。
中3の秋頃、全国高校模試を受けた。私の偏差値は全て70を超えていた。国語にいたっては75だった。全国でも上位100位内の成績だ。
しかし私に慢心はなかった。高校受験を越え、大学受験を越え、東京の大舞台でこの100人と戦うのはもっと先のことだ。油断はしない。戦いはまだ長いのだ。

そうして中学生活のほとんど全てを勉強に注ぎ込み、華々しい成績で第一志望の高校に合格した。私は誇っていた。努力だけは裏切らない。
高校で再会した敦子さんや海野くんともすぐに友だちになった。俺たちはこれからもずっと努力して、ずっと勝ち続けていくんだ。そのことが嬉しくて仕方なかった。

だけど敦子さんも海野くんも、蓋を開けてみたら普段は大して勉強していなかった。
同級生も皆んな、中学の同級生たちと同じように部活や遊びに勤しんでいたし、不良じみた奴もいた。
私の他には、ほんの数人だけが勉強に齧りついていた。

初めての定期テストの結果は最下位だった。その後、どんなに何かを犠牲にしても私が下位から浮上することは無く、努力が報われることはなかった。
大学は、私立文系の下位に進学した。

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だっちゃん
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