自分の小説世界を広げるために アフリカ篇
いつものシリーズ記事です。
日本だけでなくて、海外の作品も読んで自分の肥やしにしましょうという主旨です。
植民地にされて、20世紀の後半から独立をする国が多いし、独裁国家が多いということで、アフリカの小説というのは、落ち着いた日常を描くものが少ないように見受けられます。
貧乏な日常を書くと「政府に不満があるのか―」と非難されますし、身の危険があるのでしょう。汚職を書いても同じで、なかなか難しいのでしょう。だから、独立当初は昔の民話、寓話だったり、最近では植民地時代のことを書いたりという傾向にあります。
これは南米でも同じですね。
抑圧的な政権下では、日常を書けません。
フランコ独裁の長かったスペインでは、外国が舞台ということが多いです。
韓国のドラマがひところ宮廷ものばかりだったのもそうですし、いつか中国に復帰することがわかっている香港の映画が清末期のアクション映画ばかりだったり、現在の中国の小説に歴史やSFが多いというのも、基底にはそういう理由があると思います。もちろん勇気をもって現状を書いている作家もいます。
日常を描く小説が充実していることは、その国や地域が言論の自由を尊重している、作家も民も息苦しくない社会という証拠だと思います。
ナギーブ マフフーズさんの「バイナル・カスライン」(上下巻.河出書房.「張り出し窓の街」という題名で、国書刊行会からも出ています)
ノーベル文学賞を受賞しているエジプトの作家です。エジプトは1920年代には独立しているのですが、強権的な長期政権が続いたので、日常を書くのは難しいと思いますが、この小説はなんということもない、イスラームの風習を守っているエジプト人の静かな日常が描かれている稀有な作品です。上村は好きです。
マアザ メンギステさんの「影の王」
ムッソリーニの軍が侵攻するなかで、立ち向かう男性、銃後に甘んじない女性たちが如何なく描かれているスペクタクルなエチオピアの小説です。上村は面白いと思いました。
ターハル ベンジェルーンさんの「砂の子ども」(紀伊国屋書店.1985年)
モロッコの寓話です。裕福な商人の末子は、女性なのに男性として育てられます。イスラームの規範通りに生きる女性は影の薄い存在なのですが、彼女は男性として教育を受け、教養を身に付け、けれど本当の自分ではないところで評価されているという苦しみがあります。女性にも男性にも共感できないという点が悩ましいですね。
グギ ワ ジオンゴさんの「泣くな、わが子よ」ケニア、1964年の作品です。
暴力と憎しみの連鎖にある当事家のふたり、俊英の主人公ジョローゲとガールフレンドのムイハキが失意の中会います。実はお互いの父親が双方の側によって殺されています。ジョローゲは周囲の期待のまま生きてきて、巻き込まれて挫折します。ジョローゲは街を捨てて、ムイハキと一緒になろうと迫るんですけど。ああああ。この時代のケニアで、教育は、英語と西洋思想を学ぶことを意味します。英語のできるエリートでないと、出世できないんです。つまり自分たちの伝統を捨てることになるんです。もどかしいですね。ケニア人も階級差があって対立しているんです。正解はないんですけど、安易にこうしたらいいという道を示さないところが、いいのかな。
エイモス チュツオーラ/トゥトゥオラさんの「やし酒飲み」(河出書房新社と岩波文庫から出版されています。)ナイジェリアの寓話です。ファンタジーのようにも読めますね。自分専用のやし酒の作り手が死んだので、困って、死んだ彼を捜しに出たやし酒飲みは、死神を捕らえたり、かどわかされた娘を取り戻したり、居所を教える見返りにと様々な困難を魔術で乗り越えるんですけど、結局誰も教えてくれない。その後も鷲に助けられたり、おそろしい生物や精霊と戦ったり、助けられて旅を続けて、最後には故郷の町に帰ってくるのですが、飢饉になっていたというお話です。
チヌア アチェベさんの「崩れゆく絆」(光文社古典新訳文庫)1958年のナイジェリアの作品。植民地化がすすむ過程でキリスト教の布教があります。ヨルバ族の男らしさ、伝統を守りたい主人公なんですが、息子は西洋文化に惹かれるんです。部族では強いとされる男が追われてしまい、息子はキリスト教徒になって、苦悩します。世代間の断絶、伝統文化と西洋文化という二項対立の中で、伝統が失われていくとともに、家族の絆さえもという、抗しきれず押し流される人たちのそれでも抵抗を書いた小説です。
テジュ コールさんの「オープン・シティ」(新潮クレストブックス)
ナイジェリアの小説です。ナイジェリアが舞台と思ったら、アメリカ生まれ、ナイジェリア育ち、アメリカの大学で医学部という作家なのです。それで、9.11後、更地になったNYで、黒人男性が医師研修中に、閉じこもって静かな環境にいるのでバランスをとるために、街を歩かないではいられなくなっているという設定です。一人称の視点で会話も観察されているという独特な効果があります。祖母に会いたいと、ブリュッセルの老人ホームに行くと、若い女性店員にカフェで誘われたけど、無視。50歳で努力してきれいにしている女性には惹かれています。600万人が死んだから批判するな、というユダヤ人は、特別だと思ってるけどそうじゃない。「俺たちアラブ人が中世にはイベリア半島にいたからって、スペインもポルトガルも俺たちのものだって言ったらおかしいだろ」。美術館では黒人の警備員にまた会おうといわれ、郵便局でもあんたはわかる人だと言われて詩人の集まりに誘われる。街を歩行者、移民の視点、住人の視点で観察して、記録して、移民の話を聞いて、彼らがどんな歴史を背負っているかを知る。観察者の小説と言えますね。
ジャブロ S ンデベレさんの「愚者たち」(スリーエーネットワーク.中編集.1995年翻訳)
南アフリカの作家。表題作の「愚者たち」。ザマニは長年教師で三年前まで教えていたけれど、かつての教え子で成長したミミへの行為を断罪されます。駅でケガをした男性の手当てをすると、彼はミミの弟だったことがわかります。ここから主人公は物の見方を変えます。真っ当な生き方をしたいと考えるんです。読後感は悪くありません。
JMクッツェーさんの「恥辱」(ハヤカワepi文庫)
ブッカー賞を得た南アフリカの小説です。クッツェーさんは、ノーベル文学賞を受賞している白人系の南アフリカ人です。
女学生に対する行為で失業した白人の教授は、家に帰ると、娘が黒人に酷いことをされていたと知ります。もはやアパルトヘイト廃止後で、白人の特権などというものはない時代なので、どんどん転落していきます。彼にはまだ価値観としてアパルトヘイトの時代の名残があったんでしょう。白人は何をしてもいい、白人は守られている、そういう感覚です。
ナディン ゴーディマーさんの「バーガーの娘」 (みすず書房)1979年の作品です。ノーベル文学賞を受賞している南アフリカ人で、リトアニアと英国のうちを引く、ユダヤ系白人女性です。2014年の7月に死去しました。反アパルトヘイトで、共産党の幹部だったけれど獄死したバーガー夫婦の娘として社会からは見られる主人公。けど、そんなものを世襲しないで、自由に生きていったっていいじゃない、という自分探しの小説です。
読んでみたいのは
ウォーレ・ショインカさんの「死と王の先導者」という戯曲です。邦訳がないので、後回しにしています。ナイジェリアの詩人でもあって、ノーベル文学賞をアフリカ人として初めて受賞した人です。
他の地域の紹介本も、気になったら読んでみてくださいね。
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