最近noteで読みがいのあった小説2023.8
読んだ順です。
「マッハの子」夢蔵子さん
新潟を舞台とした中学生の陸上競技ものです。時代を感じさせる「半ドン」などの言葉や、その地方特有の風土、公害などが描かれていて、地に足の着いたノンフィクション風の小説です。語り口はルポのように軽くて読みやすいと感じました。どんどん次 次って読みたくなるんですよ。そして、読み終えた後、これは本当にいた人かもしれないと思って、評者はネットで陸上の日本記録などを調べてしまいました。こういうのも愉しいですね。
2020年代の「あまり前傾にならない」「足を上げない方がいい」といった、そういう陸上の技術そのものが当時は拙いので、技術的な説明はそんなにないんです。地方の中学レベルの指導では、それが自然だと思いました。
「銀河皇帝のいない八月」沙月Qさん
宇宙レベルの壮大なSFです。主人公は地球人の空里(アサト)なんですが、彼女は人を疑うということをほとんどせずに、どんな人や物体でもまず信じようとする真っすぐで強くて純粋な心を持っているんです。これがとても重要なことで、この物語を突き動かす原動力になっているんですね。
ただ、彼女の信じる心に報いよう 応えようとするのは すこし変わった宇宙人や 評者には心があるように見えるジューベーなんです。もちろん使命感や責任感からでもあるんですが。結局 地球人は彼女の真心を本気で観ようとしていなかったのではないか それはクラスメイトもそうだったのではないかなと思うと それまでの彼女の生活が悲しみを帯びて見えてきます。友人には心の中でツッコムのに、ネープやシェンガといるときには、そういったツッコミは一切なく、言葉にして伝えているところからもそれはわかります。
もちろん それは現代の日本で多くの人が経験していることでもあると思います。それがこの小説にも反映されているんだと感じるんですが、日常にはそんなに自分が本気になれることがないというのも事実です。なにかに真剣に打ち込む、それも仲間と一緒にという経験ができていない人は多いと思います。彼女もそうだったのかもしれません。それがこの大冒険を通じて、はじめて仲間ができた、本気にならないといけないことができたということなのかもしれません。
この小説は、10代が主人公だとよくある成長物語として安易に終わらせることをしていません。もちろん、この年代は放っておいても大なり小なり成長はします。けれど、この物語を通して、彼女の芯は変わっていないことに評者は好感を持ちました。
SF的な仕掛けはたくさんあって、SF映画は見ているので馴染みの技術などは盛りだくさんで、そうしたガジェットの楽しみもあります。そこにもSFだからこそ、すべてを論理的に説明するという真摯な姿勢が貫かれてもいます。
戦闘シーンも盛りだくさんで迫力、臨場感があります。視点の移動も巧く書いています。
スラップスティック的なと言うか、ジェットコースター的と言うか、気持ちが忙しく目まぐるしく変わっていくというのは、読み手を飽きさせない工夫です。noteで連載という形で読ませるには必要な要素だと思います。そういう効果なのか、あまり長いと感じないんです。
伏線はたくさんあるんですが、ジューベーのところがいちばんウルッと来ますね。儀式という制約も物語を引っ張る力として、十分に機能していると思います。
このようにSF的な楽しみもさることながら、いろいろに楽しめるお勧めの小説でございます。
「女の子はみんな」清繭子さん
「見る側」「見られる側」をテーマにしています。世の中では 少し前まで見る側の性が男性で、見られる側の性が女性というジェンダーの役割が常態化していました。この小説では女の子同士にもそういうものはあると示しています。縦の境界であるスクールカーストとは別に、明確に横の境界を描いた点は上村にとっては新奇に感じました。
主人公である橋田深雪が人をかわいいものだという感覚に気付くシーンで、細かな観察をしている点がユニークだと思います。ここで深雪が観察者としての生き方が定められたと言えます。漫画を描くことも観察の結果なので、深雪にとっては必然的につながっているのでしょう。
中学への転校生 藤原さんはヒロインとも言うべき存在で、口数が少なく 仕草の描写も少ないので 深雪にとっても読み手にとっても行為の意図はわかっても、内面を推し量ることができません。もっとも読み手は深雪の視点で固定されて 強制的に見る側に参加させられているので、人間に人間の内面なんて分かりっこないという当たり前の状態があるだけです。そして、所詮読書というものは受け取る側、読む側の行為にすぎないというところまで思考が飛んでしまいました。だから表現者 書く側の人間になりたいと上村も含めて思うのかもしれません。
どこまでいっても人間は謎です。藤原さんも謎です。つまり、なんでもかんでも心理描写をして説明して 「人間が描けている」なんていう文学新人賞でよくあるような一面的な評価を受けることを断固拒否する作品として仕上がっています。「人間なんて描けない」 これが「人間を描けている」に最接近した表現ではないでしょうか。そんなことまで思わせる小説です。
幼馴染と言っていいヨンちゃんとの空気を合わせるところと、その後の本音を思わず言ってしまうところ、男として意識するようになってしまうテラへの態度の変化やチクッとした物言いなど、藤原さんを除いて、深雪と付き合いのある人はみんな本音もどこかで覗かせる。それが深雪に刺さるという遣り取りは自然です。こういうの日常であるよねって思わせます。母親の気遣いが鬱陶しく感じられるのもあるあるって思いますね。最後に近いシーン 深雪が藤原さんを守りたい 贖罪に近い気持ちで必死になってクラスのみんなに話すところは作者の必死さも伝わってきました。けど、それにたいする残酷な反応 印象的なシーンです。
読み手としては 藤原さんの視点でなにかしらのエピソードを読みたいという欲を持ってしまいました。
「紘太と結里子」月切漣さん
現実に倦んでいる読み手にとってはありがたい作品です。嫌な人間が出てこないからです。小説には 世の中にはこういうことで苦しんでいる人がいるんだよ こういう嫌なことがあるんだよ 気づいてよという役割もあるだろうし ああ 自分だけじゃないんだと気付いてほっとする そういう役割もあるとは思います。けど、上村が小説という架空の世界に求めるのは、脱日常です。自分で描く作品は別として、他の方の作品に救いのないいじめ、虐待、貧困、思考停止のルール、葛藤のない指示命令、不正、政局の類を見るとすぐに読むのをやめてしまいます。だって そんなの日常で見慣れていますから。
作品全体が幸福感で柔らかく包まれていて、心地いいのです。きっと作者さんは心根の優しい暖かい人なんだろうなと勝手に想像してしまいます。
内容に触れると、「結里子は内心、小躍りしたい気持ちを抑えて」って読むと、上村は顔がにんまりしてしまいました。
最初の待ち合わせも不安だけれど、紘太が来ない方の待ち合わせはまさかって思って読んでいました。そして、丁寧語の期間が長いけれど、最初の待ち合わせで思わずくだけた言葉が出る結里子 敢えて気を使って慎重に くだけた言葉にしていく紘太 それでもまだ丁寧語が残っているというのがいいですね。とても気を使って書いていると思います。
「いつも祖母が手作りしてくれたアップルパイが、誕生日のお祝いケーキでしたから」こういう家庭環境のわかるセリフも好きですね。
連載途中なのですが、続きも読みます。
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