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レフト イズ ライト 密室蒸発事件

【あらすじ】
左利き専用のホテルでホテリエとして仕事を始めたばかりの宇羽川くんは、史上最高のホテリエを目指している。彼には人の顔を憶えられない欠点があるが、耳の記憶力、持ち前の観察眼と推理力で、言葉は冷たいが気の利く保安部の女性 神野さんと共に、ゲストルームのドアが開かない謎に挑む。二人は推理と行動力でドアを開けることに成功するが、実はその裏でゲストが密室から蒸発するという事件が起こっていた。そして、そのゲストは死を予感させるメモを残していた。宇羽川くんと神野さんはゲストを助けるべく、渋谷を駆け回る。二つの事件に共通して、ホテルのモットーである「レフト イズ ライト」 左(利き)は正しいが証明される。

-密室01-


 朝のフロントは忙しい。チェックアウトするゲストは集中するし、買い込んだお土産を一足早く家に送るように依頼があったり、出掛ける先の情報をコンシェルジュではなく、フロントに訊いてくるゲストもいる。この時間は、先輩の助けは最小限しか受けられず、新人のぼくでも一人前のように振舞わなければいけない。史上最高のホテリエを目指すぼくとしては、早く慣れたいところだ。ふうっと下を向いて一息つくと、宇羽川と書かれたネームプレートが少し曲がっている。ホテリエは身だしなみが大事だ。さっと直して、顔を上げる。
 親二人子一人のゲストがフロントに近づいて来る。母親が左手にカードキーを持っている。空いているのは、ぼくのカウンターだけだ。ぼくは笑顔で左手を挙げて、「どうぞ」とやや遠くから声をかける。
「おはようございます。チェックアウトでございますね」
 このゲストは、チェックイン時点で既にクレジットカードで支払いが済んでいる。全く顔は憶えていないが、記録上は、ぼくがチェックインのお相手をしたようだ。一泊二食付きで、レストランやカフェの未払いも記録にないので、お帰りいただいて問題なさそうだ。その時、「ムートンヴィレッジに寄ってソフトクリームを食べるんだよね」という幼い声が聞こえてきた。この声は聞き覚えがある。そうか、この三人組だったか。ようやく思い出す。たしかこの小学生の娘さんはぬいぐるみを抱えていたような気がする。見ると、今は小さなバッグだけを持っている。基本的にゲストは帰る時の方が荷物が増えている。そうでない場合は、部屋に忘れ物があるということだ。
「お客様。娘さんはぬいぐるみをお持ちではありませんでしたでしょうか」
 ぼくがそう声をかけると、母親は「あっ」と声を上げた。娘さんも「部屋に忘れた、どうしよう」と言っている。ゲストが取りに行くのを待ってもいいのだが、ホテルの印象をよくするにはホテリエが取りに行った方がいい。ベルポーターはいないかと周囲を見回すが、あいにく二人とも車までゲストのトランクを運んでいるらしく、見当たらない。まずいぞ、どうしよう。心臓の鼓動も感じてくる。この時点でフロントには四人のホテリエがいて、ちょうどカウンターからゲストが一組離れるところだ。後ろに並んでいるゲストはいないし、ロビーのソファで空くのを待っているらしきゲストもいない。左に目を向けてもエレベーターの階数表示は動いていない。誰もフロントに向かっていないということだ。チェックアウトの混雑が途切れたところのようだ。カウンターの端にいる先輩の帯さんを見ると、こちらを見て頷いている。今ならフロントを抜けても大丈夫ということだ。
 ぼくはマスターキーを持ってツインの部屋に向かった。子どもさんが五歳ということで、追加のベッドは不要ということだった。これがツインにエキストラベッドどころか、ジュニアスイートでという要望だったら、別棟まで行かなければならなかったところだ。ぼくは無事、白くて大きめの動物らしきぬいぐるみを椅子の上に発見して確保すると、部屋を一回りして他に忘れ物がないかを確認して、通路に出た。本館の各部屋は回廊に沿って配置されているので、ドアから出ると、吹き抜けを通して、ロビーの様子やフロントで唯一ピンクの制服を着ている帯さんも見える。波は去ったかと思ったけれど、フロントはまた混み始めているようだ。ぼくがすぐに戻れることを伝えるために大きく手を振ると、さっきまでぼくがいたポジションで帯さんが頷くのが見えた。こういう時に吹き抜けの構造と、ぼくらが着ているような目立つ色の制服は役に立つ。そして、左手に持った架空のペンで、右の掌に何かを書きつける仕草をしてから親指を立てている。チェックアウトの作業を完了させてくれたらしい。ぼくは史上最高のホテリエを目指しているけれど、一人ではなれないものなのかもしれないとふと思う。ロビーに降りて、娘さんにぬいぐるみを左手で渡すと、三人に笑顔が戻った。顔憶えはわるいけど、声憶えはよくて助かった。ぼくは三人にお辞儀をした。
「ザ レフト ホテル神山のホテリエ一同、またのお越しをお待ちしております」

 チェックアウトの波が引きつつある。つまり、今度はハウスキーパーが忙しくなる時間だ。スイートルームはアーリーチェックインも多いから最優先だが、ぼくと同時期に入った顔の思い出せない彼もいまごろは別棟のスイートの掃除に入るころだろうか。

 「まえに仕事をしていたホテルでは、一人が掃除をしてもう一人がチェックをしていたんだけど、ザ レフト ホテル神山では二人一組で掃除をするから、チェックされるプレッシャーも少なくて楽だよね」
 エレベーターという密室で男性と二人きりなので、呼吸が浅くなるし、心臓の鼓動も感じてしまう。どうしても必要ないことでもしゃべって、少しでも相手に変な気を起こさせまいと、言葉で二人の間の空間を、そして関係を満たそうとしてしまう。緊張のせいで、いつもより声が高くなっているし、早口になっている。けれど、新人の麻田くんには、そんなつもりはないだろうし、私の不安にも気付いていないのだろう。
「そうなんですか。僕が掃除をして、三根さんにチェックされる。それだと、たしかにプレッシャーですね」
 と言っても、のんびりした口調だ。実際、いまプレッシャーを感じているのは私のほうだ。三階に着いて、エレベーターを降りると、少しほっとする。
 ジュニアスイートの301号室は、普段なら掃除に時間がかかるけれど、今日は一部屋分の時間が浮く。親御さんが出掛けているもののベッドルームでお子様が眠っているとのことで、そちらの掃除はしないからだ。
 ドアベルは鳴らさないようにと言われているので、ノックもしない。新人の麻田くんがハウスキーパー専用のカードキーでドアを解錠、左手でドアを引いて開け、ストッパーを固定する様子を見守る。彼を先にスリッパに履き替えさせて、私は後から部屋に入る。一応、小声で「失礼します」と口に出す。二人がすれ違えるくらいの幅の廊下を通って主室に入る。椅子が定位置からは少しずれているが、マニュアルでは椅子は戻さないことになっている。ゲストが座りやすい位置に変えているという前提でいるからだ。机の上にメモが乱雑に置いてあっても触らない。蓋が少し開いていても金庫にも触らない。蓋を閉めるのは冷蔵庫だけと定められている。ベッド関係では枕や、ベッドの足側に密着させて設置しているオットマンの位置まで含めてすべて定位置に戻す。海外からのゲストは2mを越す人もいるので、ベッドからはみ出した足をオットマンに置くこともあるし、荷物の整理の時に物をおいたり、時にはルームサーヴィスでホテリエが食事の支度をしている間、オットマンにちょこんと腰掛ける場合もある。ただ、本日のゲストは日本人なので、使い慣れていないのか、オットマンは昨日の時点から微動だにしていない。特に難しいこともなさそうなので、私はバスルームを掃除して、麻田くんにはこちらの部屋を任せてみよう。
「麻田くん、こっちの部屋任せていい?」
「はい。三根さん、任せてください」
 頼もしくなったものだと思い、私はトイレとバスルームの掃除に取り掛かった。そう言えば、主室の窓際で空気清浄機が回っていた。ハウスキーピングユニットのリーダーである中根さんからは、ゲストの要望として、空気清浄機を切っておくようにとの指示を受けている。臭いが気になるのだろうか。もちろん、私たちハウスキーパーが掃除機をかける時は窓を全開にするが、空気清浄機を回しているくらいだから、床掃除を終えた後も細く窓を開けておくことにしよう。後で麻田くんに言い忘れないようにしないと。そう言えば南米を旅行した時に蚊が媒介する黄熱病やマラリヤが流行しているというのに、部屋に戻った時に窓が開けっぱなしにしてあったので、思わず息を呑んだことを思い出す。夜には蚊が五匹も飛び回っていたので、刺されたら死ぬ、絶対死ぬと思って、蚊が寄ってこないように、マスクをして二酸化炭素を口から極力出さないようにした。頭にはTシャツを巻いて、靴下を履いて寝た。結局、息苦しくて全く寝られなかった。
 そんなことを思い出しているとドアが閉まるカチリという音がして、思わず「わ」と声をあげて飛び上がった。素早くバスルームから上半身をのぞかせてドアを見たが、誰もいない。恐る恐る主室の前まで行くと、掃除をしているピンクの制服の背中が見えた。以前、派遣で働いていた時に、いくつかのホテルで怖い目に遭ったことがある。それ以来、大柄な男性と同じ部屋にいると動悸が激しくなってしまう。幸い、このホテルに専属で雇用されてからは怖い思いをしたこともないし、そもそもハウスキーピング部門には背の高い女性はいても、大柄な男性はいない。小柄な麻田くんは色白で童顔で、ともすれば「女性に間違われることもあるんですよー」とよく不満を口にしているくらいなので、威圧感はまるでない。それなのに、男性と二人でいる空間が密室化したと思ったとたんにこれだ。気を取り直してドアを開けに行く。麻田くんがドアのストッパーを忘れたのだろうか。ドアを開けてかがむと、ドアの下部に取り付けられているストッパーを確認する。

ドアストッパー

 ドアストッパーはぐるぐる回るハンドル式で、時計に例えると三時から九時の位置まで下部に半円の可動域がある。ハウスキーパーやルームサーヴィスが部屋に入る際は、当然左手でドアノブを外から引くので、空いた右手でストッパーを六時の位置に下ろす。そうすると、棒の先に付いたゴムが摩擦になるので、ドアが閉まらなくなる仕組みだ。ホテリエは基本的にストッパーを戻す際も、自分がバランスを崩して倒れないように、ストッパーを手前に引き、普段は横向き、つまり九時の位置にしておく。だから、麻田くんがドアストッパーをいいかげんに扱ったとしたら、六時ではなく、六時三十分くらいの位置にあるはずなのに、なぜか五時三十分の位置にあった。気を取り直して、今度こそは不意に閉まって驚くことのないように、念入りに六時の位置に合わせる。よし、これで大丈夫。
 トイレ掃除を手早く終えて、バスルームの掃除を始める。規定通りに掃除を終えると、バスタブやベイシンに水はねが残っていないか、蛇口の栓が閉まっているかを、もう一度確認する。このホテルのベイシンでは、蛇口は捻る方式ではなく、上げ下げする方式なので、左利きでも使いやすい。さらに、左利き用なので、右に向けると温水、左に向けると冷水が出るようになっている。わざわざ使いたいのは温水の方が多いので、左手で右に押すという自然な動きに対応しているのだ。最後に、天井の照明に埃が溜まっていないかを確認して、主室まで行くと、麻田くんに声をかける。
「どう?終わった?」
「今終わりましたあ。十五分。規定通りの時間ですね」
 麻田くんは仕事を始めて一ヶ月になる。物覚えは悪いが、まじめに努力をしている。部屋の掃除も少しずつ早くなってきて、規定の時間で収まるようになってきた。先週からは、私が主室の掃除を手伝うこともなくなった。
「空気清浄機止めた? あ、それから天井の埃見たね?」
「はい。そこだけは任せてください。前にも言いましたが、子どものころ泊まったホテルのベッドでうつらうつらしていたら、埃が鼻の上に乗っかっていたんですよ。口じゃなくてよかった」
 これは今後の定番のネタになりそうだと思いながら、二人で「あはは」と控えめに笑う。
 話を切り上げると、ゲストの残したスリッパを慎重によけながら、外に出る。スリッパは二足あり、一足は先の方がひしゃげている。どう履くとこうなるんだか、と思いながらも、ストッパーを規定の位置に戻して、ドアを閉める。
「いつも気になるんですけど、スリッパ使うゲストって、ベルポーターが荷物を持って部屋に案内する時や、ハウスキーパーが土足で部屋に入るのをどう思っているんですかね。いや他のホテルの話ですけど」
「まあ そこはそれ 我慢しているんじゃない?」
 麻田くんもフロント周り全般の荷物や車の手配と管理をするベルと、荷物を運ぶポーターの違い、このホテルではそれが一体になったベルポーターが仕事をしていることをようやく憶えたみたいで安心する。
「このホテルみたいに、どのホテルでもスリッパに履き替えるべきじゃないですか?」
「それ、オーナーに言ってみれば? 全日本ホテル旅館協議会で提案してくれるかもよ?」
 麻田くんは「うーん」とうなっているばかり。それもそのはずで、このホテルで仕事をして二年になる私もオーナーには会ったことがない。中根さんからは、「オーナーはいつも近くで私たちを見守ってくれているよ」という謎の言葉を聞いてはいるけれど。会っているのに、気づいていないだけなのだろうか。
 二人で次の部屋に入る。この部屋はもうチェックアウトしているので、ドア付近においてある擦れた布製のスリッパをすぐに回収袋に入れる。左側にあるシューボックスの戸を開けると、スリッパが残っていない。どうやら記念になのか、家で使うためなのか、未使用品をお持ち帰りになられたようだ。元々フロントで持ち帰っても構わないと説明しているので、問題はない。ビニール袋に包まれたスリッパを台車から二足取り出して、シューボックスの定位置に置く。
「三根さん。さっきの部屋もそうだったけど、この人、ドアのぎりぎりまでスリッパを履いていたってことじゃないですか。ドアに擦れるくらいの位置にあったってことは」
 麻田くんは、よほどスリッパに興味があるらしい。
「そうね。だから連泊だけど、昨日は掃除は不要だって伝えてきたんじゃない?」
「どういうことですか?」
「すごく綺麗好きで、一歩でも土足で入らないし、入らせないっていう意思表示だと思う。スリッパの存在感があるでしょ?ぎりぎりのところに置いておくのは」
 初めてのご利用だとハウスキーパーが土足では入らないということを知らないゲストもいる。だから、仕方のないことなのかもしれない。けど、こういうのを見ると、昔を思い出してしまう。
「なんだか、私たちを監視しているみたい。実は、私の母がそういう人だったの。極端に家に誰かが来るのを避けていたし、だから私も友達を一回だって家に上げたことはなかった」
「へー」
 勝手に話を膨らませたうえに、益体もない愚痴を言ったのは私の方なのに、興味がなさそうな麻田くんに腹が立ってしまう。
「軽いね」
 少し意地悪く言ってしまう。
「いやあ、僕、友達っていたことないから。家に来るのなんて借金取りだけで。親が居留守使って、小学生の僕が言い訳をする係だったんですよ。だから、誰かが来ない方がいいってのはなんかわかるなあ」
「そう、なんか.…..ごめん」
 悪いことを話題にしてしまったと反省する。ああ、駄目だ私、先輩なのに。なにやってるんだろ。
「いやあ 気にしてないっす。昔のことだし。ここボーナスも多いし、いま人生で一番金持ちで、貯金とかしてるんすよ、すごいでしょ。あ、すごくないか、普通ですよね」
「ううん、麻田くんはすごいよ」
 愚痴ではなくて、後輩には誉め言葉だと思い直して、先輩らしいことを言ってみる。少しは挽回できただろうか。ううん、このくらいでは駄目だろうな。

 チェックアウトする予定のゲストはみな出てしまったし、近隣の方がお昼に外からカフェやレストランを利用しに来るにもまだ間があるので、この時間のフロントは暇だ。それで、まだまだ新人のぼくは、先輩である帯さんに仕事の細かなことを訊くことにしている。三十歳の帯さんは先輩という感じをかもし出していて、気さくで話しやすい。話に聞く限りは、いい夫でもあるようだ。
「ピアノも左利き用なんですか?」
 ロビーにはゲストがいないけれど、念のため二人とも小声で話す。
「そう。左の鍵盤に行くほど高い音が出る。弾きやすくていいよね。ただ、楽譜はユニバーサルだから、五線譜が縦に並んでいるんだ。オタマジャクシが右に一つ行けば一つ低い音、左に二つ行けば二つ高い音になっている。鍵盤と平行だからわかりやすいよ」
 それがわかりやすいかどうかは弾いてみないとわからないと思いながら、さすが左利き専用のホテルだと感心する。
「このホテルに右利き用の物ってあるんですか?」
 そこまではあの精密なマニュアルにも書いていなかった。たぶん、機器類はその都度買い替えや、レンタルする機種が変更になるからだろう。そのたびにマニュアルを書き換えるのも大変だ。
「そうだねえ。TVの本体、エアコンの本体、空気清浄機、充電器、ベッドサイドのデジタル時計かな。ああ、厨房の電子レンジもそうだ。あとはエレベーターも、各種のリモートコントローラーも左だし、冷蔵庫は両側から開くタイプだし、そのくらいかな」
 こういうことも時折ゲストから訊かれるので、知っておくに越したことはない。フロントはホテルの顔なのだから、ありとあらゆることに精通していければならないのだ。特に、ぼくは史上最高のホテリエを目指しているのだから。そんなことを考えていると、フロントの電話が鳴った。これは内線の音だ。帯さんが出て、「神野くん」という声が聞こえる。保安部は仕事の都合上、手を自由に使える状態にしておきたいので、胸ポケットに本体を入れて、耳にはイヤホンマイクというインカムのセットを装着しているが、内線ということは端末で連絡してきたのだろう。電話を置くと帯さんがぼくに近づいてきた。
 「宇羽川くん、保安部の神野くんから連絡があって、301号室のドアが開かなくて困っているゲストがいるということです。マスターキーを持って、見に行ってください」
 丁寧ではあるが、いつものように気さくな感じで指示を出してきたので、ぼくは大したことはないだろうという印象を持った。ドアが開かないというのは、たいてい部屋に鍵を置いたまま外に出てしまったというインキーだ。他の原因としては、外開きなのに内開きと勘違いしている、またはカードキーのセンサーが故障しているということも考えられるが、滅多にない。そんなことを考えながら、マスターキーを持ってフロントから出ていこうとすると、帯さんに呼び止められた。
「宇羽川くん、301号室は君が昨日のチェックインを担当したんだけど、ゲストの顔覚えてる?」
「う」
 思わず酸っぱすぎる梅干を食べたような顔を作ってしまう。怒られるかもしれないと思って、身構えるが、そうではなかった。
「やっぱりねー」
 帯さんは朗らかな笑顔だ。ゲストルームが百室もあるようなホテルだと、ゲストの顔と部屋番号を結びつけて憶えていないホテリエもいるだろう。だから、ゲストの名前やどこに鍵を置いたかを聞いてから鍵を開けることにしているし、身分証明書などで本当にその部屋のゲストかどうかを確認する必要がある。そうしないと、間違えて別の部屋を開けてしまいかねないし、そもそもその部屋のゲストではないのに、ゲストが不在の部屋に忍び込もうという人間もいる。歌手や役者に執着するストーカーや、芸能人の浮気の証拠、経営者の汚職の証拠を掴みたい記者などだ。ただ、ザ レフト ホテル神山は二十五室の小規模ホテルなので、ゲストの顔と部屋番号を憶えることは通常のホテリエであれば容易だ。ただ、ぼくは人の顔を憶えるのが何より苦手だ。それを察して、帯さんが囁いてくれる。
「坂下様は左の頬にホクロがある。あと、お嬢さんが一緒だった」
 そんなことまで教えてくれるなんて、今日は格別に機嫌がいいのだろうか。
「ああ。なんとなく思い出しました。声は憶えているんですけどね」
「お嬢さんは元気がなかったから、風邪気味かもしれないね。だとすると、坂下様にも感染して、今頃は声が変わっている可能性もある」
 少しの言い訳をしたものの、結局、帯さんに論破されてしまった。言い訳しなければよかったと反省する。


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