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小説家の才能 その本質

初めて書いた小説で文学賞を受賞、すごい、そういう人いますよね。
そういう人はこれまでに小説を全的に読んできたんだと思います。自分で書いているとわかるんです。
上村は 他の作家の小説をたくさん読んでいますが、基本的に語彙、意図の解釈、伏線、セリフ、物語、小道具、知識を愉しんできました。語尾や時制、句読点には注意を払っていました。
キャラクターの魅力にはそんなに注意を払わないし、「相好を崩しながら言った」のようなセリフの処理はほとんど無視、比喩の存在意義はつい最近、文学賞の選評を読んで気付いたし、主人公が成長か気持ちの変化がないと納得しないなんてこともないし、心理描写、風景描写はじっくり読むことはないし、拍手をしていてもわたしだけみんなとずれている、いいんだ全体主義はきらいなんだというくらいにリズム感がそもそもないので、リズムやテンポには鈍感です。文の美しさ、よくわかりません。
読み手として興味がない、関心を払ってこなかった、注意して読んでいなかったところは、身に付いていないんです。栄養の偏りがあったんですね。インプットしていないものはアウトプットできません。
困ったことです。

いい読み手は、いい作家になれると思います。
素晴らしいトップレベルのサッカー、卓球、バレーボールを愉しんで見てきた人、将棋や囲碁やチェスの棋譜をのめりこんで研究してきた人、塾の講師からすべてを吸収しようとして講義の真似をしている人、ダンスの完コピをしている人、そっくりの声と歌い方で歌っている人、こういうひとはハイレベルな素養があるので、プロを目指しても、きつい努力をする部分が少ないと思います。それも才能なんだと思います。バスケでも3ポイントシュートにしか興味がなくて、レイアップシュートやショルダーチャージやポジション取り、トランジションに興味がないという人は、プロになれません。
作家とおんなじですね。
ちなみに 小説家になるような人は国語が得意だったというのは 違うと思います。国語の能力で物語を紡ぐ力、世界を構築する力なんて問われません。言葉に敏感なので、足りない部分を磨いていく素養としては有利かもしれませんが、それだけのことです。

読み手として全的に読んできた人というのは、ハイレベルな作品で小説家が意図しているところ全てを、掬い取って読んでいる、好きで夢中になって読んでいるので、デビュー前から小説家に必要なすべてを身に付けている、エリート教育を自分でしてきた人なんだと思います。羨ましいけれど、誰かがそう読みなさいと言ったのではないし、そこにはなんら人工的な不公平はありません。すべて自業自得です。小説を書くようになって、選評を収集するようになって、そういうことに気付きました。
中学生の時に気付いていれば―。

上村もいまでは 自分では興味がないし、必要もないと思う要素、上村の才能がない部分にもなるべく注意を払って読むようにしています。
いちばんいいのは書写なんですけど、メンドーなので、ここ勉強になるなあという個所は、端末のグーグルで音声入力して、PCに送ります。セリフの処理は青、風景描写はオレンジのように、PC上で線を引くことで、代用しています。p400の小説を読み終わると、p40くらいのストックができています。繰り返し読んでいると、なじんできます。体に染み入ったかどうかはわからないけれど、すぐに短編で活かします。そうすると身に付いていくような気がするんです。


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