鎌倉街道 中道を走る 鎌倉〜鶴ヶ峰
鎌倉街道上道に続いて、中道を走ります。
この日は早めに帰宅する必要があったので、鎌倉から鶴ヶ峰までをサクッと走るつもりで出発しましたが、後半はだらだらと歩く時間が長くなりました。まだ、足の調子が万全ではなかったのもありますが、上道よりアップダウンがきつかったのが要因だと思います。
中道は、頼朝の奥州征伐に使われた軍道といわれているそうです。確かに通常の往来に使う道としては、人里から離れすぎだと思います(現代は住宅地ですが当時は山道がほとんど)。人目を避けて行軍するには、丁度よかったのかもしれません。
今回のゴール地点の鶴ヶ峰は、鎌倉幕府設立時の有力な武将である畠山重忠が、北条氏と戦い、討ち取られた場所であり、関連の史跡が多くあります。なぜここで戦うことになったのかも最後に考察したいと思います。
今回も芳賀善次郎の「旧鎌倉街道探索の旅 中道・下道編」を参考にしました。この書籍の中でも、いくつか支道が紹介されていますので、今回辿ったルートは1例だと捉えてください。
鎌倉街道は、江戸時代の五街道のように官製の決まった道ではなく、後の時代の人(主に江戸期)が古道をそう呼んだのが起こりだという説があります。それからすると、どれが正しく正しくないかは意味が無く、各自が思う鎌倉街道でいいのかと思っています。
鎌倉〜柏尾 14.9km
上道が境川沿いの平坦なルートを進んだのに対して、中道は山間部を北上します。
午前中で帰るつもりなので、鶴岡八幡宮を7時すぎ、早めにスタートする。朝の鎌倉は、観光客も少なく地元の人の散歩風景が見られる。
巨福呂坂(こぶくろざか)を越えるルートもあったようだが、現在は抜けられないようなので、亀ケ谷坂(かめがやつざか)の切り通しを越える。勾配はきついが舗装もされ現在も生活道路として使われている。
大船駅に近い旧道区間に、地蔵尊と鎌倉街道上道の標識があった。この辺りは離山と呼ばれ、かつて山が三つ連なり、一番南の山が地蔵山だったとのことなので、その名残だろう。
迅速測図から今昔マップで、大船駅周辺の変遷をGIFにしてみた。昭和に入って徐々に平地化されたようだ。現代は多少高めの傾斜が見れるだけで、街中に埋もれている。
㹨川(いたちがわ)に架かる新橋のたもとに立つ道標。「従是とつか道」とあり、右側に「従是ぐミゆうじ道」とある。芳賀本によると、この先の日限山で弘明寺へ別れる道があったためとのこと。
坂がきつくなる。芳賀本の地図だとこの辺りがすりこばち坂になるが、もっと西側の説もあるようだ。
小菅ケ谷北公園脇を過ぎて、舞岡公園に入る手前の旧道区間は荒れていた。
日限山まで上がると宅地開発により古道は残っていない。日限山地蔵尊の側にかろうじて古い道筋が残っているようなので、そこを北に進む。
日限山一丁目公園の階段を上がると、わずかに残る雑木林から見晴らしが得られた。
下永谷駅入口交差点から、芙蓉苑わきの未舗装路に入る。ここはいざ鎌倉のときに馬で馳せ参じる道だとの伝承があるようだ。樹木で見晴らしは無いが尾根を進む。
未舗装路を抜けても尾根道は続くが、尾根近くまで住宅が迫っている。
下永谷と柏尾町の境界を進み、下永谷市民の森に入る。
尾根は平坦で歩きやすいため道が形成されるが、水の確保が難しいので人が住まず、田畑にも使われないので古道が残りやすいのでは。そんなことを考えながら進む。
柏尾町と上柏尾町の境界に残る尾根道を進む。両サイドがぎりぎりまで宅地化され、境界に尾根道が残っているのはよく見る光景だ。
尾根道を抜け、柏尾の街中におりる。
国道1号、東海道線、柏尾川を越えて、次の丘陵地に進む。
柏尾〜鶴ヶ峰 10.3km
柏尾川と帷子川(かたびらがわ)の間の丘陵地を北上する。途中ゴルフ場に入り蛇行する。
横浜新道を越えて、名瀬町と川上町の境界を進むと、旧道はゴルフ場に突き当たる。ゴルフ場内にも町の境界が尾根上に続き、旧道がところどころ残っているそうだ。
クラブハウスを過ぎたところで、ゴルフ場内の旧道と現代道路が合流する。道路脇の小高い丘に地蔵尊が隠れていた。標識には「鎌倉の都が一望できたと」あるが、いくら昔でも無理だと思う。
タイトル画像の「南鎌倉道」の道標はここにある。
道路側壁に木の根が伸びる印象的な道があった。雑木林の間を切り下げて道路を作ったためだろう。
本宿町と川島町とのまっすぐな境界上を進む。芳賀本によるとこの道は長堀通りと呼ばれているとのことであるが、ネットからは確認できなかった。
丘陵地を下り、帷子川にまたがる交差点のわきに畠山重忠が討たれた合戦の碑がある。
この辺りに宿場があり、川の合流があることにより二俣川宿と呼ばれたそうだ(二俣川の由来)。
16号線を越えて、神奈川往還を走ったときの旧道を西に進み、重忠を供養するために建てられた薬王寺に行く。ここには、合戦で亡くなった畠山一族を祀る六ツ塚もある。
重忠が討たれたことを知り、悲嘆して駕籠中で自刃した妻を供養する駕籠塚にも寄る。
鶴ヶ峰周辺には畠山重忠関連の史跡が多く、坂東武者の鏡とされ、過去から現在に至るまで人気があるのが感じられる。
11時半ごろ相鉄線鶴ヶ峰駅に戻り帰宅する。
鎌倉街道が、畠山重忠の乱にどう関係したのかを把握するため、吾妻鏡より二俣川の合戦までの経緯を抜粋します。
重忠が進んだ経路を推定すると、出発地の嵐山町は上道沿いになるので、上道を南下し、上道のどこかから中道へ連絡路を使ったと思われます(多分本町田から鶴ヶ峰)。迎え討つ北条側は、中道に本隊を進め、退路を断つためか上道にも一部進軍しています。両者とも行軍に中道を選んでいますので、中道は軍道として使われていたのは正しいようです。
それにしても、22日の朝に守りを固めてから大軍勢が出発し、正午に二俣川に到着し合戦が始まったというのは時間的に無理がありそうです。もっと早くから準備をしていたのではないかとの疑惑が残ります。吾妻鏡が、北条氏の都合の良いように事実を曲げている(曲筆)になっている箇所のひとつと言われています。
次回は、中道のこの先を進みます。