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鎌倉街道 下道を走る 土浦~石岡

 3連休の中日に下道の続きを走りました。
 曇りで若干肌寒かったのですが、風が無く途中日差しも出て気分良く走りきることができました。

 前回と違い、今回のルートはまっすぐ北上します。目的地の石岡は常陸国府が置かれた場所であり、この区間は国府を繋いだ古代駅路のルートと重なるところが多いと考えます。

古代東海道推定ルート

 しかしながら、無理してもまっすぐな道を作った古代駅路と違い、鎌倉街道はその地で使われてる道を繋いだものなので、きれいな直線道にはなっていません。また、古道が失われた箇所を迂回したり、鎌倉街道の伝承地に寄り道しながら進みました。

 今回も参考にした書籍は、高橋修・宇留野主税編「鎌倉街道中道・下道」になります。
 古代道路としては、武部健一「完全踏査 古代の道 畿内・東海道・東山道・北陸道」と、近江俊秀「古代道路の謎 ー奈良時代の巨大国家プロジェクトー」を参考にしました。



荒川沖~上高津 12km

 土浦の南端から北上し、花室川を越えて土浦の平地を見下ろす丘陵地の端まで進む。

荒川沖〜上高津

 荒川沖に10時頃到着し、スタートする。自宅から2時間半程度なので、この先は特急を利用しよう。
 あきらかに古そうなY字路を右に進む。

土浦市荒川沖東・馬頭観世音

 鎌倉街道が通っている西根集落は高い生垣を張り巡らせた農家が多いことが特徴的である、との記載の案内看板があった。

土浦市中村西根付近

 薬師堂わきの未舗装路を進む。

土浦市中村西根付近

 薬師堂の森を抜けると、その先にも木々に囲まれた未舗装路が続く。鎌倉街道の雰囲気があるが、、

土浦市中村西根付近

 本日1社目の鹿嶋神社の参道だった。

土浦市中村西根・鹿嶋神社

 花室川に向けて丘陵地を下る。

土浦市中村西根付近

 永国台への現道は花室川を西根橋で渡るが、その脇に源兵衛橋があった。土浦市史によると、鎌倉街道は源平橋(源兵衛橋)を渡ったとのこと。橋を渡った先は田畑になっていて今は使われていないのでは。

土浦市中村西根・源兵衛橋

 永国台は宅地開発され、豪邸が立ち並ぶ高級住宅地になっていた。

土浦市永国台付近

 高級住宅地の裏から再び未舗装の古道に入る。このギャップが楽しい。

土浦市天川付近

 宍塚(ししづか)大池の脇の道が「鎌倉街道」との情報があったので、寄り道した。確かにGoogle MAPにも表示されているのだが、現地には特に案内看板のようなものは無かった。

土浦市宍塚付近

 変則的な五叉路の交差点が古道らしい。

土浦市上高津新町付近


下高津~神立 10.6km

 高津の台地から桜川を渡るため東に迂回し、土浦市街地を横断し、真鍋、神立の丘陵地に進む。

下高津〜神立

 土浦市史によると鎌倉橋で桜川を渡ったとあるが、現存しないので東に迂回する。
 右手に見える下高津が古代東海道の曾祢(そね)駅の比定地とのこと。

土浦市下高津付近

 土浦橋を渡り、土浦市街に入る。

土浦市下高津・土浦橋

 土浦市街地は区画整理により、古道の道筋は辿れない。1箇所通ったであろう場所に最短コースで向かう。

土浦市文京町付近

 八幡神社は創建が平安末期の1153年と伝えられ、周辺からは遺跡も確認されている。古道はこの周辺を通って真鍋に向かったと推定されている。

土浦市田中・八幡神社

 筑波山は進行方向の左ななめ後ろにそびえるが、手前の低山が遮って、遠くから眺めるより存在感が薄れる。

土浦市田中町付近

 真鍋の台地は鎌倉坂の名称のある坂を上る。
 タイトル画像にしたが、市指定史跡の表示が手すりに張られたステッカーというのはちょっと寂しい。

土浦市真鍋・鎌倉坂

 鎌倉坂を上ると真鍋小学校に突き当たる。校庭をぐるっと回ると、本日2社目の鹿嶋神社があった。

土浦市真鍋・鹿嶋神社

 住宅地の間に古道が残っている。宅地開発される前から人が住んでいたのだろう。

土浦市真鍋付近

 この辺りだろうと思ったルートに古道は残っていないので、旧水戸街道を進む。松並木が保存されているエリアがあった。

土浦市常名・旧水戸街道

 Google MAPに「神立町の鎌倉道」と表示のあるルートに行くと、ひっつく種の藪に行く手を遮られた。これまで何度も種まみれになって取り除くのに一苦労しているので、ここを進むのを諦め旧水戸街道に戻って正面の丘を目指す。

土浦市東若松町付近・「神立町の鎌倉道」

 境川を越えて、先ほど見えた板谷の丘の先っぽを進む。

土浦市板谷付近

 板谷の丘を下り、次の神立の丘陵地に向かう。

土浦市神立町付近

 神立に入ると古道は幹線道路に合流する。

土浦市神立町付近


上稲吉~国府 10.7km

 古代東海道を踏襲した直線ルートを進み、天の川、恋瀬川を越えて石岡市国府に至る。

上稲吉〜国府

 丘陵地の尾根に沿って進む本ルートは、古代から現在まで幹線道として使われている。

かすがうら市下稲吉付近

 変わり映えしない風景が続く中、気になった鳥居。樹木の中に愛宕社の祠があるようだ。

かすみがうら市新治・愛宕社の祠

 新治の丘陵地から下り、先の東野寺の丘陵地に向かう。

かすみがうら市新治付近

 低地の天の川を越える。晴れ間が出てきた。

かすみがうら市新治付近

 胎安神社には、源義家が奥州攻めの際、内室の安産祈願を行ったとの伝承がある。向かいの子安神社にもあり、この辺り一帯に伝承があるようだ。

かすみがうら市西野寺・胎安神社

 丘陵地を下り、石岡市の丘陵地を臨む。

かすみがうら市東野寺付近

 恋瀬橋を渡り、石岡市に入る。

石岡市・恋瀬川

 金比羅神社は、1827年に勧進して祀ったとあるが、元々この場所には大掾氏のゆかりの神社があったとのこと。大掾氏は、鎌倉時代に頼朝から常陸大掾職に任じられたことが起源である。

石岡市国府・金比羅神社

 石岡市街には歴史を感じさせる商店の建物が多く残っていた。

石岡市国府付近

 石岡駅に入る交差点をゴールとしたが、西の石岡小学校に寄り道する。
 校舎の改築時に大型の柱穴など多くの遺構が発見されたことから、常陸国府の跡地として特定されている。

石岡市総社・常陸国府跡

 15時前に石岡駅に到着し特急で帰宅する。約2時間で自宅に着いた。

石岡市・石岡駅


 坂東における頼朝政権を確立した史実として、佐竹氏征伐があります。富士川の合戦において平家軍を破った後、西国に攻め入るのはなく、坂東武者たちの意見を聞いて従わない佐竹氏を討ちに進軍しました。そのルートが下道と言われています。

 吾妻鏡から佐竹氏征伐までの経過を抜粋しました。

治承4年(1180年)
10月20日 富士川の合戦
10月21日 佐竹氏征伐を決定
10月27日 佐竹追討軍、鎌倉出発
11月4日 頼朝、常陸国府到着。佐竹秀義は金砂城に籠もるが、兄の佐竹義政は頼朝に参向し、上総広常に討たれる。金砂城への攻撃を開始するが攻めあぐねる
11月5日 広常の奇襲により金砂城が陥落する

吾妻鏡入門より

 鎌倉から常陸国府まで約9日間掛かったことになりますが、自分のこれまでの行程の延べ日数7日間と、当時の道の状況や各所で渡船を利用したことを考えると、妥当な時間かと思いました。
 ただ、国府到着日に佐竹氏が籠もる金砂城へ攻撃を仕掛けたとありますが、金砂城があったとされる常陸太田市と石岡国府はざっと見ても50kmぐらい離れています。頼朝は国府に留まって指令を出していたとしても、攻撃隊は大変だっただろうと思います。吾妻鏡の曲筆のひとつかも。

 次は水戸まで進み、下道のゴールとする予定です。この区間には、古代駅路を継承する古道が多く残っているとのことなので、また違った雰囲気が期待できそうです。距離が若干これまでより長いので、体調を整えてのぞみたいと思います。


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