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シベリウスとブルックナー


 レイフ・セーゲルスタムが指揮するシベリウスの交響曲は悠然としたテンポ設定や雄大さを指摘されます。デンマークでの旧盤の方がより顕著ですが、初めてその第五番終盤を聴いていて一体どこまで盛り上がるかと期待していたら、なんと終結の6回の和音に向けて突然急加速、アッチェレランドしそれまでからすると駆け足で通り過ぎる感じであっけなく終結、唖然としました。セーゲルスタムにも師事してた近年話題のクラウス・マケラの演奏もこれに近いと思います。後にスコアを見てまた驚いたのは確かにアッチェレランドの指示があるんです。しかもその後テンポの指示がないのでセーゲルスタムの解釈はスコア通りと言えばそうなるかもしれないですが…頭で考えればアッチェレランドの程度とその適応範囲をどう考えるかで違いが出る事になりそうですが、実際に現場で起こっているのはどうもそうではない。アッチェレランドはほとんど無視されている。むしろリタルダンドするくらい。聴き慣れたベルリンド(ベルグルンド)やネーメ・ヤルヴィ、オスモ・ヴァンスカ等。
 交響曲第三番の第3楽章冒頭もスコアを見ると、頻繁なテンポ変化、加速減速の指示があって、これもセーゲルスタムの演奏で気付かされたのですが、ベルリンドやネーメらにはほぼ無視されているように感じます。
 唐突ですがここで私が連想するのはブルックナーです。シベリウスはブルックナーの交響曲を好んでいたと聞きます。諸井誠さんはシベリウスの交響曲にブルックナーの引用を指摘してました。シベリウスが耳にした演奏はきっとフルトヴェングラーからヨッフムに代表されるとてもロマンチックな様式のものだった筈ですし、使われた楽譜も所謂改訂版でしょう。レーヴェやシャルクら弟子達の関わった改変はシベリウスの生きた時代にむしろお馴染みのものだったと思います。
 ブルックナーの交響曲第七番を例に挙げてみますが、原典版として最初の所謂ハース版からストイックなまでに排除された改訂版の跡が、後に所謂ノヴァーク版に(括弧付きで)復活します。第1楽章コーダのアッチェレランド、第2楽章クライマックスの打楽器追加や第4楽章冒頭主題にフレーズ毎にリタルダント、アテンポがかかるところなどがその例です。ぶっきらぼうというか即物的な表現が特色かと思っていたクレンペラーが第4楽章をまさに時代がかったメンゲルベルクかよという演奏をしていてのけぞりました、楽譜に書いてあるんですけどね。


 ハース版を信奉していたギュンター・ヴァントの演奏はテンポ変化を極力控えたストイックなスタイルでした。一方で彼はブルックナーは作曲者の最終結論を尊重すべしとして、交響曲第一番は晩年に改定した所謂ウィーン稿で演奏しました。この稿は晩年の様式とも言える滑らかな繋ぎ、細かなテンポ変化の指示がみられ弟子達の関わった改変と合い通ずる特徴がありますがヴァントはテンポ指示についてはことごとく無視しています。このあたりは金子健志さんの分析が詳しいですね。
 シベリウスの交響曲第六番や第七番のスコアを眺めていると細かいテンポ変化が少なく感じられ、いやむしろ欠けているようにすら思われます。第六番の第1楽章と第4楽章はどちらも序奏部があってから第一主題部に移行する構成ながらテンポ変化が示されてません。実際の演奏では何らかの変化をつけてない指揮者はいないと思います。第七番では多彩な曲想の変化に比べればテンポ変化の指示は少なく各々の解釈に委ねられる部分が多くなっています。
 なのにあの第五番終結部での指示は私には不可解に思えます。終結の6回和音の空白を嫌った? いやいやわざわざあんなに大胆な終結にしたのにそれは意味不明でその前まで加速してその後は普通にということなのか、書いてないけど。
 そんなこんなで最近の録音ではクラウス・マケラよりもサントゥ・マティアス=ロウヴァリの第五番の方がお気に入りで、最新の第四番に続いて六番七番が待ち遠しい私でした。


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