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ルイジ・ノーノの「愛に満ちた偉大なる太陽のもとで」(1974)

 この詩もテクストとして使用されており、その一節“Au grand soleil d'amour chargé”のイタリア語訳“Al gran sole carico d’amore”をタイトルにした「二章からなる舞台アクション」です。チェ・ゲバラの死(1967年10月9日)、更にはサルバドール・アジェンデの死(1973/9/11)が色濃く影を落としている。挫折した革命の記憶。

 意外に見過ごされている重要な点が、台本作成の時点から一世を風靡していたモスクワのタガンカ劇場、ユーリー・リュビーモフYuri Lyubimovとの共同作業が始まっている事だと思うんですが。初演の演出を担い、指揮者はアバドでした。

 Come preludio(前奏曲風に/として)
  美しさと革命は仲たがいしていない(チェ・ゲバラ)
   ソプラノ、合唱、打楽器、テープ
  闘争:昨日 - 今日          (マルクス)
   オーケストラ、テープ、女性
ここまでで既にスペイン語、フランス語、ドイツ語が交錯する。が歌詞内容は到底聞き取れない。

 第一章「わたしたちは再び帰ってくるだろう、数限りなく大勢で」第1-9場とフィナーレ。1871年3月のパリ=コミューンを主題とするブレヒトの「コミューンの日々」イタリア語訳を一応主軸にチェ・ゲバラと行動を共にしたタニアTamara Bunke、レーニン、ランボーの詩句、マルクス、ルイーズ・ミシェルのテキスト、聞き取ることは不可能。
 第二章「夜は長いが夜明けは近づいた」第1−7場とフィナーレ。1905年のロシア(血の日曜日)、チェーザレ・パヴェーゼ、トリノの1950年、キューバ(1953年モンカダ兵営)、南ベトナムが交錯する。女性、母の存在が強調される。が耳からその情報は得られないよ。
 正しい素材を使用した音楽作品、それが耳で感じられるかどうかは問題ではない、というのは十二音技法セリー主義から一貫している。手法への賛否はともかく、出来上がった音楽作品の表出力には凄まじいものがあると思う。意味内容については演出が担う部分が大。

 本盤はシュトゥットガルトでの1999年上演ライヴ、ツァグロセク指揮で演出はMartin Kušej

 これをキッカケにか各地で上演が相次ぐ。ハノーファーでのコンヴィチュニー演出。コラージュとしてのテキストに一貫したドラマ、ストーリーを見出し(捏造?)ていて、観に来ていたノーノの盟友マウリツィオ・ポリーニが衝撃を受けたと伝えられる。

 メッツマッハー指揮ザルツブルクでの上演。

スイスはバーゼルでも。

 常に挫折、敗北を強いられる革命の歴史への絶望、諦念みたいなものがこの後の作品に通底している気がする。

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