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公教育現場の片隅で夢中で読んだシュタイナー教育の本【思い出】

シュタイナーの学校が娘には
合っているという娘の習い事の
先生からの思わぬ提案。

その先生はひとりひとりの個性に
向き合いそっと寄り添ってくださる
舞踏の先生で
踊りはかたちではなく
『心』から生まれるものだと
教えてくださった先生だ。

娘が大好きな先生のひとり。

「自分の『嫌』という気持ちを
ちゃんと表現できることは
素晴らしいこと」
ということにも気づかせてもらった。

★舞踏の先生にもらった絵↓↓↓★

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図書館で借りてきた
「ミュンヘンの小学生」にカバーをかけ
学校の付き添い中に、教室の後ろで
椅子に座り、もくもくと読んだ。

その内容は目の前で行われている教育と
ものすごく、ほんとうに
ものすごーく、かけ離れていた。

文字の読み書き能力が、たんに
"記号"と"音"を反射的に
くみあわせた作業を習得することに
ならないよう、子どもが感覚的に体験し
『心』で意味をつかむことのできる
やり方でおこなわなければならない。

文字をならう勉強が他科目の授業と
分離してはならない。
絵も音楽も体育も、手芸、工作、
外国語の授業も、たがいに
有機的に関連しあって、はじめて
子どもの知力と情操と意志力をそだてる。

約100分かけて、ひとつの数字、
ひとつの文字についてだけ学ぶ授業。

毎日コマ切れな授業がくりかえされる
娘の学校の授業からは想像が
つかないことだ。

子安美知子さんの本につづき
不二陽子さん、秦理絵子さんの
本を読んだ。

秦理絵子さんの本のなかで

体の基礎を作るために使われていた
成長の力がひと段落して
今度はものごとを習っていくための
力に変容する。
ちょうど
歯が頻繁に生え変わる時期が
子どもの成長段階のひとつの大きな
節目にあたり学習に向かう用意ができたという事だとシュタイナー教育では捉える。
だから、
同じ学齢期に歳は達したとしても
学ぶための力が芽をのぞかせる時期は
一様ではない。

と、あったのだ。

目からウロコが落ちた!!

まわりのお友だちは幼稚園の年中さん
くらいから歯が抜け始めていたのに
娘は1年生の2学期が終わるころ
ようやく生えかわろうとしていた。

だとしたら、1年生の入学当時はまだ
学ぶための力が芽をのぞかせて
いなかったのだ。
だから、教科書とノートを使って
じっと座って授業を受けるのは
娘には"苦痛"でしか、なかったのかも
しれない。

学校が『嫌』で行きたがらない理由は
他にも、もちろんあるし
それだけではない。

だけど、徹底して体の成長に即した教育。
わたしにとっては衝撃的だった。

シュタイナー教育。

とても理想的な世界だ。
だけど、この教育を実践している学校が
ほんとうに存在するのだろうか?
と、その時はまだ日本に
シュタイナーの学校が存在することすら
知らずにいたのだった。

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