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茶人とは何か、茶道とは何か

 教室で教える人が茶人ではない気がする……それは茶道家であろう。

 では、茶人とは何か

 茶道を修め、茶の湯を為す人ではないか。

 つまり、茶会を催す人である。

 すなわち、茶道をただ習い、茶会に行くだけの人は茶人ではない。

 また、茶の湯の茶会を催さぬ人も茶人ではない。

 では、茶道とは何か、茶の湯とは何か。

 茶道と茶の湯は異なるものであり、茶の湯が遊びで茶道が求道であることを否定できる人は少ないだろう。

 では、茶道のハードルの高さとは何なのか。

 私は一つに茶の湯と茶道が混同されていることかある気がしている。

 茶道は決して愉しいものではない。

 愉しいのは道具を集めたり、集めた道具を実際に使ったり、物語を考えたり、知らないことを知れたり、問答の広がり方に感心したり、教養が深いことに感動したりといった、ソフトウェア的な付加価値の部分であり、茶道教室が愉しいならば、それは教える先生が愉しませているに過ぎない。

 そして、それはスポーツにおける練習が苦しく辛いものであり、試合で勝つことが愉しいものであることに通じる。

 勿論スポーツには遊びでやる部分もあり、それを否定するものではない。

 すべからく、茶道とは愉しいものである茶の湯を支える練習と様々な道具に精通し、その扱いをおぼえるための場である。

 そして、そのやり方や理論を共有するのが流派である。

 故に、茶道そのものに愉しさを求めるのは、スポーツにおいて練習を否定するのと同じということになる。

 茶道と茶の湯は異なるものであり、茶道を修めたものだけが茶の湯をできるのかというとそうでもない。

 無手勝流でやれないものでもないからだ。

 では茶道とは何か。

 茶道とは、茶の湯をより美しく、合理的に無駄を省き、なぜそうなのか?という理論を組み立てた教えを実践し、人が人であるために修練していく修行である。

 だからこそ、誰しもがやらなければならないものではない。

 享楽的に過ごしたいものは茶道をすべきではないからだ。

 ここに市井の茶道教室の矛盾が出てくる。

 茶道は地道なものである。
 音楽のように音は鳴らさない。
 長時間の正坐に、点前の順番を繰り返し巻き返しやって身につけて頭でなく体で覚える。

 ときには師匠の家の草むしりや、掃除までするのが当たり前の時代もあった。

 さらに、時代の要請でカルチャーセンターが生まれる。求道者で弟子ではなく、お客さんという感覚になっていくことで、間違いを正せない辞めてしまうことを怖がる状態になっていく。

 市井の教室は安易に弟子を増やす道に進み、無闇矢鱈に教える人が増え、碌な知識もなく、実践もできない先生が氾濫することになる。

 当庵では稽古場の掃除など、弟子の稽古である。

 準備も片付けも弟子の稽古である。

 これが嫌だ!というような人は、習うものではないと私は考えている。

 故に弟子が増えずとも気にしない。
 これをしない弟子を育てる気がないからだ。

 流儀には拘らないが、茶人になってもらいたい。

 しかし、そうではなく、先生がすべてを用意し片付けるというような教室も多いという。

 何故か?

 弟子に道具を壊されたくない……からというのが多いそうだ。

 確かに茶道具は安いものではない。
 だからこそ、弟子は大事に扱ってくれるし、例え安くても「同じものは二つと無い」と分かってくれれば丁寧に扱ってくれる。それは、人間関係であって、弟子だからであり、お客さん感覚の人ではそうはいかない。

 時代錯誤と言われようが、形式ではない精神性というものは、案外二千年経っても変わらないものである。

 だから、国民全員が茶道をしたことなど、嘗て無いのである。

 私に言わせれば、七十年ほど前から二十年ほど前までのここのところの茶道ブームがおかしかっただけのこと。

 肥大化してしまった茶道界はしばらく冷え込むことだろう。

 道具屋は減り、茶道人口も半分ほどに落ち込むと見ている。職人も篩に掛けられ、かなり減っていき、茶道具は高くなっていくだろう。

 それでも、無くならない。

 離れるのは茶道をしていなかった、愉しんでやっていた人たちであり、半可通が淘汰されるだけのことだからだ。

 本当に茶の湯が好きな人たちは残る。

 その人たちは、茶道が好きなのではなく、茶の湯が好きなのだ。

 茶の湯を愉しむために、つまらなく苦しく辛い茶道を習うのだ。

 茶道とは、規矩と道具の扱いを骨子とする知識体系の集大成であり、もてなしの在り方を解く教えである。

 辛く苦しくとも、そこには美を形造る規矩があり、様々な知識の入口となり、たくさんの知らないことを知る機会をくれる。

 自分を高みに登らせるために最適な物がそこにはある。

 故に、私は茶道が好きである。

 師匠ら先達から受けた恩を次の世代に返すために、私は教室を開き、弟子が来るのを待っている。

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