熱海と遺物

蛍が指先にキスをした。
こんなにも人を怖がらないものなのか。
抒情というものをおおよそ理解していない彼も
暗闇の中を舞う無数の小さな光の玉に
心を奪われているようだ。
観光タクシーは2時間貸し切りで約5千円。
熱海を知り尽くした運転手が、夜にしか味わえない体験スポットを
次々と案内してくれるなら安いものだ。
高台の丘から見た夜景は、山を切り開いて作ったのか、
もし乗ったらこの世ではない場所へ連れて行かれてしまいそうな
オレンジ色に輝く一本の線のような電車が
さぁっと駆け抜けてゆくのが見えた。
わざと、時代に取り残されたような宿をとった。
バブルの時代、新婚旅行でさぞにぎわったであろう
巨大で、だからこそ、可哀そうな、亡霊に魅入られし遺物。
バカみたいに広い大浴場と、熱海を一望できる露天風呂は
もうその価値を讃える者の不在には慣れたのだよとばかりに
諦念を以ってして私を温めた。
心づけを渡してもやる気を見せてくれなかった中居の顔は
記憶の中ではのっぺらぼうだ。
ただ、私が行きたいと言った場所には全部付き合ってくれた
彼とはもうお互い違う相手と結婚した今でも
頻繁に連絡を取り合うほど仲がいい。
でも、彼の働くBarへは決して行かない。
数えきれないほど通い、仕事が終わると
一緒に彼の部屋へ帰り、予め当たり前のように合鍵で、
掃除洗濯料理を済ませ、私の作る料理をいつも美味しそうに食べてくれた
あの戻らない、全てが楽しくて美しかった日々。
会うのが怖いのだ。
会いたいから。
見たくない顔を見たら、何かが決壊する気がして、薬指のプラチナに
それを抑止するだけの効力はないことをわかっているから。
本当にあの蛍は美しかったね。
笑って語らえる日がくるまで、あの店には行けない。
そんな日は永遠に来ないかもしれない。
それならば、それもまたいいではないか。
溢れそうな思い出をくれた彼を、忘れることなど出来ないなら、
彼の幸せを希おう。
電車に飛び乗ればあっという間に着いてしまう距離に彼はいる。
だからこそ行かない。
愛してたよ、と笑えるまでは。

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