1億円

彼は絵を描いている
今は1円にもならなくとも
いつかは1億円になるかもしれない絵を
彼女はそう信じてる
夜の街で愛想を振りまきながら
親からは勘当された
そんな定職にもついてない男の元へ行くのなら
親子の縁を切ると
でも彼女はそれで構わなかった
玄関の前で一礼して
二度と戻らない家を後にした
猪年の生まれのせいだろうか
昔からこうと決めたら一心に突き進む癖がある
その性格のせいか客ともめることも多く
給料は決して高くはない
二人で借りた木造アパートの一階で
つつましい生活をするのが精一杯
でも彼女はそれで幸せだった
彼の絵が完成する度
その絵に名前をつけるのが彼女の役目
彼女はそれが嬉しかった
きっと今に大先生になる人の作品に
私が色を添えていいなんて
彼女が仕事から帰って来た時
彼がまだ絵を描いていることがある
彼はヘッドホンをつけているので気づかない
その背中を盗み見るのが好きだった
一日の疲れも嫌なことがあった時も
全部忘れられるような気がした
でもちょっと悪いことを考えてしまうこともある
彼が売れて有名になって
大勢の人たちに囲まれるようになったら
私は要らなくなってしまわないかしら
捨てられてしまわないかしら
寡黙な彼は愛だとか恋だとか言わないし
きっとそういうものも全て作品に込めてるのだろうし
彼女は彼に一度も聞けたことがない
ねえ私を愛してる?
だめだわこんなこと悩んでる暇があったら
客にシャンパンの一本でも入れてもらえる
手練手管を覚えなくちゃ
セックスをするときも彼は何も言わない
ただ興奮してる時耳の後ろに汗をかいていることを
彼女は知っている
もし彼が汗をかかなくなったら
その時が終わりなのかしら
彼の成功を一番傍で
目の当たりに出来ないまま私は去るのかしら
彼がヘッドホンを外した
これ見てくれる
また名前をつけてほしいんだけど
そんなこと言うつもりなかったのに
こんなこと言うつもりなかったのに
口を吐いて出た言葉は
愛だった
彼は照れ臭そうにうんそうだねと答えた
プレゼントだから
初めて人の為に絵を描いたよ
何のプレゼントかと思ったら
ああ私の誕生日だ
生活に忙殺されてすっかり忘れてたのに
覚えててくれたの
これ1億円で買うわ
どこにそんな金あるんだよ
背中ばかり見ていたから彼の笑顔が眩しくて
柄にもなく涙が出た
店でどんなに怒られても泣かないこの私が
いつもありがとな
やめてよそんなに拍車をかけるのは
最高のバースデー
こちらこそありがとう
泣きながらやっと言えた言葉は
ごめん愛してる

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