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わりと日刊だらく[No.43]〜救われるとか思考とか〜
今日もテキトーにやっていきます。
今日の散文
救われるとか思考とか
タイトルをつけて1000文字くらい書いたけど、書き直した。だからこれは今日2回目の執筆になる。執筆ってカッコいいなと思って使ったけど、雑筆とでも言った方がいいくらい何も考えずに書いている。けっこう僕はこういうことが多い。同じく1000文字かそれ以上書いて2回書き直したこともある。
文章を書く力が足りていない。構成が頭に入っていないので、なんとなくそれっぽい書き方をすると大体失敗する。
また、そもそも思考が足りていない感じがする。問いを深めていって「これ以上はねえだろ」ってところまで考え抜いてから書きたい。
「文章のカタ」「日常的な思考」。
文章をうまく書こうとするからいけないんだろうかと思い、とりあえず、またタイトルをつけずにひたすらダラダラと思いつくままに書くというのをやっている。
テーマを決めてしまうと、その構成が頭の中にないままそれっぽく書こうとして失敗してしまうのかもしれない。
そもそも、これは今日の散文なのだからテキトーに書けばいいのだ。
いつも通り、まとまりがあるようでないようであるような文章を書こう。
今日はタイトルは最後につけよう。
ちなみにさっきは「救われない人、救われたと思ってもぜんぶ気のせい」ということを書いていた。
理由は簡単で「救われている人は救われたなんて思いもしないから」だ。救われている時点で、そのほとんどが今後も救われない人だと思う。
救われていない人が切羽詰まっている時に何かを他人から与えられて「救われた…!」なんてなることはよくあることだと思う。だが、次の日になると、また、しばらくすると、元通りに絶望していたりする。さらにひどくなる場合もある。ここまででワンセット。あるある。
そもそも、救われている人は「救われたい」なんて思われないし「愛されたい」とも思わない。救われる必要もないし、愛される必要もない。そんなものはなくても生きていける。
救われている人は、ひたすらにやるべきことをやり続けるだけだ。その中に快楽はあるが、救いはない。そもそも救われる必要がないから、救いだという認識を持たない。
ここ最近頭の中をよく巡っている思考のパーツとして「バックグラウンドで無意味に起動し続けてちるアプリ=呪い」というのがある。
電池も食うし、端末も熱くなる、そんなクソアプリ。
これは、ここ最近よく書いていた「脱力」とか「大人」に関係している。
呪いとは、我慢することによって無意識に入り込み、それがなんなのかを忘れてしまうと解除不可能になる呪いだ。それが稼働し続けることで自分を蝕み続ける。
どうやって解除するのか考えたことがないのでわからないのもあるが、そもそも、それが何なのか忘れてしまっているのでもう気付けない。
救われない人は、無意識に抑圧されている自分の感情をまず引っ張り出さなくてはならない。
日常が苦痛に満ちていて、それが原因で救われていない人は、そもそも何かに気付くことは救いにならない。それが「安い救い」だろう。
何かに気付いても、日常レベルに落とし込まなければ意味がない。気づくことは、快楽ではあるけれど、救いではない。それを忘れてはならない。
誰かの話を聞いて、映画を見て、アニメを見て、誰かの記事を読んで、本を読んで、感動する。それは自体はすごくいいことだ。
でも根本的な解決にはならない。
根本的な解決をするためには「不快を消す」しかない。
そのためには、まず「フロー状態になること(トランス・変性意識状態)」が必要だ。
認知の歪みによって引き起こされた痛みは、まずそれによって消し去られる。
そして、次に認知の歪みを矯正していく。
たぶん、順番が逆なんだ。
認知の歪みをなくせばこの痛みもなくなるだろうと考えたりするが、そもそもの話、痛みが認知を歪ませている。痛みが強い負の感情となる。
だから、まずは痛みを消さなければならない。
頭痛で何も考えられないのに、認知の歪みを治そうとしても無理だろう。少しものを考えられる程度の頭痛でも、影響は間違いなく思考に出てしまう。だからまずは頭痛を治そう。
そしてその状態をキープできるように、毎日工夫して生きていく。
キープできるようにとは言っても、僕たちは毎日、意図せずに無数の変化にさらされている。外に出れば無数の情報が、インターネットを見ればまた無数の情報がある。
だから変化は避けられない。その流れの中で、自分ができる限り良いものを選んでいく。
また祈りの話を書いていた。
僕の祈りはまず不快を消すことから始まる。
今日は労働をしている最中、珍しく思考が働いていた。
「あっ、思考ってこうやってするんだったな」となった。
脱力をベースにして、不快に思う出来事を想定内のこととした、という感じだろうか。ちょっとまだよくわかっていないが。
また、その思考できる状態そのものが、不快を感じない状態の維持に貢献している気がした。
このままの調子で労働をやっていきたい。
今の僕にとって、条件的に言えば労働は義務に近いものだが、同時に、感覚的にはただの祈りの修行となっている。
今僕がやるべきは労働である。
労働はすばらしい。
音楽
ドラガリ、速攻でやめたけど一瞬だけやってたのでナツいな〜となった。DAOKOボイス、良い。
一人組
くらがりチャレンジ
マックのビーフペッパーチーズ食べた。濃厚さよりもスパイシーさが際立っている。
贈与
なし。
パブリックを思い出す
やった。
小休憩
やった。キツくなったら10分休憩はデフォ。
超小休憩
やった。
観察と感想
やった。
テーマを見つけて問いを立てて答える
やった。今日から導入。フローに労働ができている時には思考が訪れる。これを基準にしていこう。
愛を思い出す
やった。
本とお話しする
やった。
死を思い出す
やった。
人生の物語をイメージする
やった。
終わりに
二日の休日を挟み、労働した。
労働中に思考が訪れた。
「何かをしている時に思考するってこんな感じだったな」と思い出した。
休憩中に気を抜いてしまい、パブリックの意識が抜けて不快が強く出てしまった。
そのせいで頭痛に。自分のせいだという自覚がある。
気を抜くとか抜かないとかそういう次元にいる時点で間違っていると僕は思う。
負けている。
自分のパフォーマンスを最大限に発揮するために、自分が最大限に幸福を手にするために、いつも僕の身体がそれを維持できるように、思い出し続けられるようにしていかなければならない。
また明日もしっかりやっていこう。
今日も良き日であった。
明日はもっといい日になるよね、有象無象。
ほんじゃ、また、あした。
良い夜を。