生命は「生きたい」が既にインプットされていてるもの。雪山の絆♯103
【ストーリー】
1972年、ステラマリス学園のラグビーチームの選手たちとその家族を乗せた40人と5名の乗員がウルグアイ空軍機571便に乗った。
チリのサンティアゴで行われる試合に向かう為だ。
しかし航空機は山々を覆う雲に突入しセレール峰に衝突した。墜落した機体は雪に埋まり停止。9人が即死し、3人がその日のうちに亡くなった。
アンデス山脈という寒い高山に残った28人は取り残されてしまう。
【解説というか、レヴューというか、】ネタバレ含む
極限の状態で人間はどうなるのか。
72日間も遭難して生き残った若者たち。
彼らの生命力を描いている実話です。
もし自分だったらと考えると、この絶望的な状況に間違いなく生きる気力を失うだろう。でも彼らは違う。希望を見つけ、なんとか持ち堪える。
何がそうさせるのだろうか。
一体感を持つとか、〜してはならないが多くある
カトリック的な考えを持つウルグアイの人たち。国民性だろうか。
墜落してから数日が経ち、食べ物は無くなり飢えが襲ってくる。そしてついには死者の人肉を口にするのか議論が始まる。
この映画は苦難の連続だが、いちばん辛い出来事とは食べるのか食べないのか決断を迫られるところである。
主人公のヌマは神に背く行為だと頑なに拒む。当然である。
だが雪山の中で空腹に苦しむ仲間たちは次々と耐えられなくなっていく。助けが来ると信じていたら食す事はないだろう。しかし捜索が打ち切られてしまったと知った瞬間ヌマは「信じる力」の無力さも有効さも同時に味わい絶望にひれ伏してしまう。次第に弱っていく彼に、仲間は強引に食べさせる。そして言葉をかける。どう言えばヌマは食した己を赦すことが出来るのか。
ヌマを納得させる言葉だ。
ここに伺い知れない深さを感じる。
上手い言い訳を考えなければ生き残れない状況なのだ。
仲間は1日でも長く生きて欲しいから言うのだ。
サバイバルの中で哲学的な会話が、観る者の魂を揺さぶります。
食べた肉は血となり肉となり、下山できる身体を作る。事実である。この場所で人肉を食すと言うことは、まだ生きている人の為に命を繋ぐリレー。これが彼らの言う絆なのだ。言葉以上の重みがあります。
終始ヌマ・トゥカッティさんの視点で語られるこの映画。作品としても興味深い点を残しています。救助がやってくる直前息を引き取ります。つまり、クライマックスの手前で主人公が亡くなり、語り手がいなくなってしまうのです。この事故ですでに亡くなっている人が何故主人公なのか。
それは歩いて助けを求めに行った仲間の為に、自らの肉体を捧げても良いほどの絆を持ったからである。
きっとこの映画は、大きく揺らぐヌマの倫理観を一点一画もおろそかにせず捉えたかったのだ。そして人の知恵や行動力はどこからみなぎるのか、生命の根源たる姿を映し出した作品と言える。
生命とは「生きたい」が既にインプットされていてるもの。人間が凄いのは、それを自分以外の生き物も同じように思っていると理解出来る事なのです。