想像と共感

発達障害関係の記事も少し書いてみようと思う。

アスペルガーを疑われたことがある。表現に時代性があるが、それはおいておくとして、自分にASD傾向があることには早くから自覚的だった。

他人の気持ちなど分かるわけがない。伝えたければ伝える努力をするし、分かってほしければその努力をしてくれ。そう思って生きている。

そんな自分でも、相手の行為はどういう意図で、どういう心情から出たのかと考えてみることはある。
相手に感情があることがわからないわけではないのだ。少なくとも自分の場合は。

既に答えを確認する手段のない内容だが、最近もそうして他人の意図や感情を考える機会があった。
そして、想像と共感は全く違うし、正解かどうか(相手の事実と一致するか)は更に別だと思ったので書き出してみる。

1.相手の意図や心情を想像する
行動の意図、背景事情から来る心情として、どんなものがあり得そうか考えていた。これは「人の気持ちを想像する」ということだと思う。

2.想像した内容に対して感情が動く
激しい喜怒哀楽を示さないまでも、「もし自分がその立場なら」起きるはずの感情の変化を起こす。これを「共感(だと自分が信じる体験)」だと考えている。
さぞ嬉しいだろう、悲しいだろう、という想像だけで十分に共感と言えるのか、それを追体験までするのが共感なのかはわからないので、曖昧にしておこう。
※そもそも「共」と言うのだから、自分の感情の動きと相手の実際の感情が一致した場合だけを共感と呼ぶのが正しいのだろうが、共感のつもりの感情を何と呼べばよいのだろう。

これらの組み合わせを考えていく。

(1)想像した意図や心情が相手のそれと一致したら正解。
自分が体験した共感内容も相手と一致したら正解。
これは分かりやすい。見本のような共感事例。

(2)意図や心情の想像は正しいが、感情の動きが相手と異なる場合。
これは共感失敗だろう。

(3)意図や心情の想像は誤りだが、その道筋で起きる感情の変化は相手と一致する場合。
例えば、映画を見て悲しみを感じた者同士が、どのシーンの何をどう悲しみと捉えたかを話し合うと全く異なる可能性がある。
それと同じように、相手を理解しようとして想像した内容は不正解でも、結果として出てくる感情は似通ったものになる場合。
これは共感成功なのだろうか。

(4)これまた分かりやすいが、残されたパターンとして、想像した意図や心情が的外れで、そこから導かれる感情も相手とは全く異なる場合だ。不正解とみなされる。

人の気持ちが分からないと言われてきたが、果たしてどこのプロセスの躓きなのかは不明のままである。

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