自分は信じられなくても身体は信じられる
今月を振り返り導き出した一つの答えである。
失くしものや忘れものが多くなり、無意識下でやったこと、例えば鍵をかけるなど、に自信が持てないことが多くなった。今までの、自分の癖や性質への扱い方がうまく嵌らなくなってしまって、どうしたらこういうことを未然に防げるのかがいまいちわからない。幸いデジタルの発達やサービスの発達した世の中なので、いろいろな方法があり、それらを頼りにすれば解決できるのではあるが、例えばアラームそのものをかけ忘れては元も子もないように、どれだけ発達しても最後の要は人間自身ということはずっとついてくる。
未然に防ぐ、防ぐことのできるやり方をするということ大事にしたい。
一つ変えてみた思考は“ついで”を止めること。
生活や暮らしは一日に一つのこと、一人の人間で成り立つわけではないので、できれば“行ったついで/やったついで”で行動したほうが効率的である。“ついでだからやっておいて”と頼まれることもしばしば。
買い回り、様々な用件を出掛けついでにやってきたがその分、必要なものを多く持って出掛け、出掛ける前以上の荷物を抱えて帰ってくる。それも手に抱えきれないほどたくさん。しっかり抱えていられないから、落としたり失くしたことに気づけない。
なので、それを止めた。自分の目の届く範囲、手の上に余裕があるように、効率は悪いかもしれないが、期日や予定で優先順位をつけ、再び出向くことも良しとすることにした。
どうしても、その日にやりきりたいことはしっかりメモにしておき、もしやれたらいいなくらいに思っていることは、やり忘れたことを悔やまないことにした。
なんでも序列をつけるやり方がいいわけではないが、ある程度の区分けができることで、自分自身の見直しにもつながっている。もしやれたらいい、あればいいなと思うことを忘れてしまってもやはり困らないということがわかった。ちょっと欲張り過ぎていたのかもしれない。
頭の中の欲張りを抑えられたことで、不思議と身体で感じる強張りが解かれる。頭をきちきちと精密に動かそうとすると、身体が緊張して強張る、そんな感じなのだと思う。余計なものがないことで、身体を身軽に感じる。頭と身体はやはり連動しているのだ。
身体には外気や体内の臓器の運動に応じて、脳の私たちが意識している指令以外で反応していることが半分くらいある。緊張、不安、高揚、刺激に応じたそういう反応は身体の、また私自身の本当の反応の一つだ。顔では取り繕えても、冷や汗は抑えられないように。
だから、自分がわからなくなったり、迷ってしまったときは、身体を信じてみることにした。
身体の引き起こす実際の反応もしかり、肌で感じる空気の違和感みたいなものも含めて。
人間はその昔、第7感まであったと言われるように、本能や身体の感覚が研ぎ澄まされていた頃は、そういうものを身体で感じ取り判断の基準の一つとして大事にしてきたように思う。
現代でそれが通用するのかはわからないが、“第7感”を信じてみようと思う。
そのためにも、身体は常によく通るようにしておくこと。滞りや強張りのないようにしておくこと。