
何かをしている人ではなく
一日一つはあまり大事でもないことをもそもそと咀嚼している。
大事ではないと前置きしておきながら、実はこれが大事で、ふとしたことや思いがけぬことに出会った時に効いてくる。日々の暮らしで考えることは、本質の考え方や見方のスタンバイ常態みたいなもので、どういうスタンバイをしているかはこうして日々積み重ねて、アップデートしているのだと思う。
人生の行路がら、発信をする、人前に立つことは多くしてきたが、それらについては怯まない勢いを盾にして邁進することで自分を鼓舞し、考えを多角的にも掘り下げることもしないようにしてきたところがある。
その辺りの業界のスタンダード、イデオロギーの変化も十分にある。“発信する、人前に立つ”に含まれる要素、やり方や受信する側の許容も大幅に増えた。
増えて、可能性や新しさも増えた分、ただ模倣するだけでは何も自分のものとしては成らず、自分の明確な思いがわからないと迷子になりやすい。
誰かが成功したから、自分が成功するわけではない。
だが反対に、明確な思いに気づけていれば、その明確なものを明確なまま外へ出せるやり方が見つかることもある。
そう、私はほとんど発信迷子のままでいる。
一つのカテゴリーでずんずんと推し進められる方でもなく(ことに気づいた…)、あれこれを組み合わせてアイデアを出せる勢いもなく(年々隙間は埋まっていくし、そもそも流行に敏感でもない)、たくさんの人に見てもらうには忍びなく、とはいえ自分を把握するためにも表現は止めてはならぬと思っている。
だが、そんな私でも、すとんとはまるようなやり方が今の世の中なら見つかる可能性はある。それは何なのか、今日明日で見つかるとは思えないが、日々の暮らしのそれこれ一つ一つがその欠片だと思って日々考えることにしている。
そして、日々取り組む作業に“自分らしさ”を落とし込んでおくことにしている。“自分らしさ”と言うとまた少しぼやけてしまうのだが、つまりは、真剣にやりたいようにする、ということ。
手紙を書くなら、字や挿し絵を入れたいとか、
パンを作るならもっちりで、ライ麦や全粒粉入りとか、買い回りして忘れたものは諦めるとか。
時々は、世の中のアイデアに感化されて自分の中に取り入れてみるけれど一つまでとか。
暮らしの其処此処で自分を真剣に試していれば、いつの間にか何処にでも“自分らしさ”が散りばめられてくる。
そしてその“自分らしさ”を持って抽出される発信のやり方こそが、自分が見いだした発信の答えのように思う。
そこに辿り着くには、もぞもぞしていないで試してみないといけないな。
自分から試すことも、誰かに“これどうだろう?”と聞いてみることもしないとだ。
そして、慌てずに目の前に絆されない確かな目と詰み上がってきた気持ちを忘れないで。
“何かをしている人”ではなく“何をしてもこの人”という生き方の暮らし方。

ささげ、レモンを蒸しそれぞれピーナッツバターや白味噌と合わせてペーストに。

蒸したさつまいもでブラウニーを。
