ハシシとユイの子③ そもそもの難しさ
サブカルチャーを単に語るのならば作品についての文脈整理或いは作品の内容解題をして何となくの評価と大枠を設定していけば良いのだろうが問題はそもそもそんなことにはないのは誰もが知っていることである。何故ならば物語の評価としての批評それ自体にはもはや価値がないからだ。既にあらゆる文芸誌における批評合戦は重要ではなく、多くの人々にとって、そもそものアクセスしうるかどうかのプラットフォームの議論になりえている。この問題意識を掲げていたのが『思想地図』における東浩紀の一連の動きであり、何とか総体的な視点を取り戻そうと努力した訳であるが、結果として彼はそれをミニマムな方向、しかし確実な方向性へと動いた。もはや作品の解題それ自体に、「金を払って読む」意味はないと言って良い。そもそもそれが特殊な事例であるのだが、問題は有り余るコンテンツと、自分自身の関係性をどう取り持つのかという、極めてストア的な世界観へと移転していると見るべきだ。私はここにおいて、批評=詩という、ヴァレリーが明記し、小林秀雄が受け継いだ議論へと立ち返る必要があるように感じる。もっとこういってしまっていいだろう。批評するのに作品は必要が無いと。
この議論には多くの問題がある。批評という作文形式上、何かしらの作品を念頭に置く必要があると。だが考えてみると、そもそも読書は不完全であるという伝統的な大陸哲学の暗黙の了解を持ち出して、「ならば、そもそも読まなくて、解説しなくてよろしいでは無いか」という禁忌の法律を言ってみよう。しかし、彼らは転向後の中野重治の如く、「それでも読んで、書いてみようと思います」と語るだろう。よろしい!勝手にしたまえ!こうして、島宇宙と化したこのサブカルチャーと批評の関係性は現代の構図のまま終わるだろう。さて、我々はどうするか?
私が何を語りたいのかと言えば、作品を享受するのは簡単な話である。作品がそこにあれば、我々は大抵のものは楽しめるだろう。私は生まれてこの方チャンバラ映画を見た事ないが、今から2週間程度見れば多分好きになるだろうし、様々な作品を語れるだろう。だが、ここにおいて、享受をする身体と私をもっと別の文脈から見るべきではないか?もし仮に我々と作品の関係が享楽をするためで全て語れるのならばそもそもメンタルヘルスの問題をサブカルチャーの上で持ち出すべきでは無い。メンタルヘルスの問題とサブカルチャーは一見妙な取り合わせと思うかもしれないが、サブカルチャーはそもそもこのメンタルヘルスの問題と切り離せない。あらゆるカルチャーがこの手の問題と接続していて、日本ならばオウムと酒鬼薔薇事件におけるサブカルチャーの関係性が強く念じられたことを思い出し、サブカルチャーが全く影響を与えなかったと断言することは不可能であることをよく考えるべきだ。これは例えばブラックメタルの一連の事件などでも示すことができそうだが、先を急ぐ。
影響を与えたかどうか、これに対して完全に言い切ることはそもそも不可能であり、同時に重要なことは「彼ら」が「サブカルチャーを摂取していた」という事実が重要である。仮に、サブカルチャーの享楽を受けたかという点において絞れば、彼らが最後に選んだLast Resortがサブカルチャーであったことは注目に値する。反対に、多くの人々が実際に、サブカルチャーのおかげで自殺をやめたり、暴力をしなかったこともあるかもしれない。しかし我々はこう問うべきだ。「ふーん、で?」我々は想像した方がいい、暗いホコリだらけの部屋で、精液或いは経血に塗れ、腐った食べ物の放つ悪臭と洗わない服から漂う人間の精神的腐臭、その中で行われる一連の消費行動(。また私が指摘したいのは、これらの行為が必ずしも自発的なものでは無いということだ。彼らは「逃避場所」を選ばなければならなかった。必ずそこにレゾンデートルがある。我々はここにおいて、現実的な貧困の問題とメンタルヘルスの問題に直面を少なくともして自覚するべきだ。我々は確かに人生の意義も分からないままきっと死ぬだろうし宇宙は破裂し全て消えるかもしれない。だが、「楽しむ」ことは出来る、しかし我々は「楽しむ」ことはむしろ強いられた逃避場所として捉えるべきだ。虚構を楽しむ裏腹、本当にしたかった欠如を抱え、最後に陥る「虚無」と「後悔」という現場、これを回避するための「楽しむ者同盟」としての「オタクサークル」。彼らは無論生成するだろうが、それは東浩紀の「一般意志2.0」モデルを超えることはあまりないだろう。多くのサブカルチャーはまず、何かしらの形式を前提とする。当然であるが、ここを逸脱する素晴らしい作品が出る可能性は当然あるだろう。しかし重要なことは、我々は如何に生きるべきか、という極めて実存的な問題に最後は帰るのではないか。
ボードレールは『パリの憂鬱』で私と似た視点を持ち出している。彼は近代と現代を比較して、全くその差異を認めなかっただろう。現代においても、売春婦を見て、売春婦にもし君が素朴で美しい世界に生きていたらと想定しただろうし、汚い部屋の中で想像と緊張のまま詩を書いただろう。想像の中においては、確かにほとんどの人間が差異を消失するだろう。バーチャルな世界はリアルの世界を覆い隠す。だが、我々は単純にハイパーリアルの世界で生きているのではない。今も、現実の世界で生きている。我々は現代における問題をサブカルチャーに「逃避」するとして、それは解決ではないだろうし、また現実の問題は解決しないだろう。しかしサブカルチャーは現実の文化に所属し、文脈を持つし、現実に影響を与える。我々の思う「好き」がもし、作られたものだったら?オタクと思う君が、もし単に運動ができず、家にいるのを余儀なくされた結果、最終的に行き着く場所がアニメだったとしたら?我々はそもそもそんなに主体的にサブカルチャーを選んで消費してきたのか?この問は間違いなく「分裂症」を引き起こす。しかし、これは「正当」かつ「誠実」だと考える。我々は資本主義に対して「分裂症」的意匠(ドゥルーズ=ガタリ)を覆い隠すために、あらゆる幻想を用いるだろう。だがよく考えてみたらその幻想も資本主義が提供したものであろう。我々にテレビを与えたのは?我々に電波を与えたのは?そもそも、我々が戦争と貧困から逃れ、単に消費することを肯定して貰えてるのは一体どういう文脈であったか?我々の世界はメイヤスーの指摘するように不動のものでは無いかもしれないし、マルクスの語るように階級闘争はあるのかもしれない。最も重要なことは「生成途中」であるということだ。宇宙が内部から破壊された時、或いは我々が死んだ時、実の所宇宙の外には過去に死んでいた人間がいて「おめでとう!あそこは地獄で、君は今ようやく生まれ直したんだ」と言われたら?我々は幻想を「与えられている」し、「作ること」もできる、問題はそれを意図的に見極め、場合によっては闘争し、逃走すること、初めのテーゼに戻るが、我々の世代ほどストア派的な世界観はなかった。
作品を楽しむことほど簡単なことは無い。もっと楽しむこともできるだろう。しかし我々は「ふーん、で?」の一言に耐えられない。耐えられないから自殺をするのだ。しかし私はこの自殺の意志に一縷の望みをかけたい。我々は自殺をする、我々はあらゆる消費に耐えられない、最後まで消費を信じることはできないかもしれない、しかし、他人の用意した綺麗事の幻想のうちで死ぬより、自分で「観察」する「現実」を覗いて、その衝撃に死にたいものだ。あらゆるインテリとプロレタリアート(この奇妙な時代錯誤な対比!)は消費において団結する、皮肉なことに。しかし、前者が比較的綺麗な部屋(そう出ないかもしれないが)で、しかし教養的な岩波文庫を読みながら楽しむアニメ作品と、後者が貧困とパンくずと少ない下着、ほんの少しの収入と、無教養な頭でスマートフォンで「なんとなく、クリスタル」な世界を覗き見ながら楽しむアニメ作品。本質的にサブカルチャーから見た時、残酷にここには差異はない。しかし、もし仮に今すぐ日本国国家に大量の核弾頭が落ち、しかもそれが偶然サブカルチャーの全てを破壊し、我々が命のみをもって生存したら?我々が貧困と現実の実存的不安にいつしか気づき、その階級と資本主義の欺瞞性に気づいたとしたら?今さっきまで、挿入したいと思っていたヴァギナ、或いはアナルが実の所おじさんが手間隙かけて生成した「プラスチック」で、おじさんとおばさんがペンから生み出した「幻想」だったとしたら?考えてみたら、我々はそれでいいかもしれない、資本主義万歳!なんとも綺麗に格差を消し去ってくれたか!アニメ万歳!ゲーム万歳!資本主義!万歳!
しかし外を見てみろ!もう真昼では無いか?
現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実(())現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実どこを見ても現実現実現実現実現現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実なのだ、さあ早くそのパソコンを消して幻想を消して外に出よう!雪を浴びて、少し考えてみよう。よく考えたら我々の世界ほど「考察」に値する世界はない。子供と遊ぶのはどうやって?うんこれを使うんだ、そう父親が持ち出した……。しかし私には父親がいなかった。そのため何も浮かばなかった。私は時折幻想としての「家族」を夢見る、しかし還元的に現実が現れる。詩とは、批評である。これは何故か?現実と空想の緊張によってもたらされる一つのリズムだからだ。我々は腕にサルトル的眼差しを送ってリストカットをすることはできない。我々は腕と、ナイフを意識してのみリストカットをすることが出来る。我々はサブカルチャーの暗黒と幻想を夢見て、そこに行くために自殺をするのではない。我々は現実が嫌だから自殺をするのだ。若きウェルテルのように、教養があっても死ぬだろう!しかし、オタクは自殺を否定する。何故か、教養がないから?違う、現実が見えないからだ。ウェルテルは現実の坩堝に直面した結果死んだ。ロマン主義者はウェルテルを真似て死んだが、ウェルテルはあくまで現実を見て死んだ。我々はひとつ考えるべきだ、現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実としての、自分自身を。さあ描写して見なさい、君自身を。そして願わくば、その身体から逃れんことを!