栄養不足で家族崩壊
どうして家庭が崩壊したか。今、2024.10/4これを書いてますが、結果的に私まるこは私のことをいつも心配してくれていた父を見捨てました。母と兄から暴力と暴言を浴びせられてもそれでも家族の幸せを願って大切に思い続けていた父を見捨てました。そして実家の母と兄も見捨てました。私は私の人生と幸せを取りました。きっとここから先を読まれたら賛否両論あると思います。いい意見もそうでない意見も読まれた方の判断にお任せします。
崩壊するまでの私の家庭での生活
加工品、惣菜、冷凍食品や餃子などがよく食卓に上がる。食パンや菓子パン、袋ラーメンやカップ麺をよく食べる。味の素大好きな母。砂糖をたくさん使った甘めな食事が普通。
私自身は小学生からの母のストレスの捌け口にされ、母からの愛をもらえず絶えず比較されて貶され落とされて育ち、人は利用するものだという感覚の中で育つ。ストレスの捌け口で家にストックしている置き菓子を見つけて食べ続ける。何度も母に怒られて取り上げられたりお菓子を買ってもらえなくなったら今度は母がコーヒーに入れていた角砂糖を食べる。角砂糖を食べられて困った母は白砂糖を買うのをやめたら、料理用に使っていた白砂糖を一気に大量に食べたり怒られたら見つからないように食べる。だけど何度も頻繁に怒られて家から追い出されるようになるので身の危険を感じて砂糖を食べるのをやめる。どのくらいの期間食べたのか分からないけど1ヶ月は砂糖を食べていたと思う。
家族の雰囲気とか
父も母も兄もいつもカリカリカリカリ。人にあたる。何かあればすぶちギレる。母は何やかんやと悲観的、依存的、他責思考ばかり。愚痴文句不満のオンパレード。幸せを口にすることはなく自分の機嫌で人を動かすが、自分はその意識はなく。70歳を過ぎた今でも自分がしていることの自覚がない。人に迷惑をかけてもかけている意識がなく、何かある度にどうすればいいかな~と悩む。悩むが答えは出ず、悩むこと困ることが趣味のような人。
兄も子供の頃からとても依存的でそんな母を歪んだ形で大切にしてなあなあにしたり母に反対意見を持つことはなく甘えさせている。暴力的だけど人前では強く出ない。母も強く出ない。人の目をとても気にしていて自分がよく見られること、かわいそうな自分、頑張っている自分として見られることをとても好んでいる。
父は愉快で豪快な人。豪快すぎて出来ないのに出来ると言って自分も他人も困らせる人だったり。だけどちゃんと謝ってちゃんと感謝が出来る人だった。バカにされることがあってもそれでも人が大好きな人だった。タバコは吸っていたけど酒は飲まない人だった。ヘビースモーカー。タバコが息抜きだった。父は脂っこい食事を好む人だった。
要約すると、母と兄は依存的で批判否定的な傾向がある人。物事を悪く考え自分はやらなくて人にやらせるタイプなのにうまくいかなかったら人を責めるタイプ。父はお人好しで頼られたらするタイプ。豪快。
お互いに共依存ですね。すごく後になってからこの三人は共依存だったなと分かりました。そして私も含めて家族みんなが共依存状態でした。父は暴力と暴言を受けていたのになぜかずっと母がかわいそうだと言っていました。
どうして私がみんなを見捨てたのかその①
父は病気で無職になりました。そのとき60歳。すぐに仕事は見つかるだろうと思っていました。特別な資格もなく手に職を持っているわけじゃなかったけど、自分がここまで私達を追い込んだと、そしてもう本当に取り返しがつかないんだと悟って離婚しました。今とあまり変わらず。20年前の当時でも再就職が簡単にいくわけはなく。再就職への道はとても厳しく、体を悪くして退院して間もない父に対して再就職を要求し、この期間までに再就職できないなら離婚だという流れでその後父と母は離婚しました。
仕事が決まっていない父、どんどん心が弱っていく父、体を悪くして同じような仕事も出来なかったり働いても労働制限を伴う父と一緒に私は暮らせなかった。例えもし一緒に暮らしたとしても、世帯は別になっても母の家に行く用事や接触することを考えると母と兄の圧に耐えきれなかった。そして当時私の給料は13万円だった。様々なことで父と一緒に住む選択肢はなかった。
私は父との生活を選んだけど母と兄との生活を選んだことでそれもそれでキツかった。小学生のとき以来の辛さだった。むしろ大人になったいたからよけいに苦しかった。感情も感覚も全て奪われていく。やること全部に口出し、気付かなければ気付かなかったで怒られるし気付いたら気付いたで怒られる。自分達にとって都合の悪いこと、機嫌で人にあたってくる。イヤな人と分かれて心機一転、頑張るぞ!という心はあっという間に消え去った母と兄でした。
どうして私がみんなを見捨てたのかその②
弁当を作りたくないと言われたから自分で作っていたら水道代ガス代が勿体ない。勝手に食材を使われると困ると言うから買って冷蔵庫に入れていたら外に出される。冷蔵庫が壊れたとき、多めに私が出して購入したのに兄が全部出したと話しが変わっている。私がしたことは兄がしたことになり、兄がしたことは私がしたことになり。都合の悪いこと全部を私の責任にされ、家の中がガチャガチャふるのは全部私の責任にされる。
ストレスフルで子供のときの砂糖を食べる生活に戻り、ジュース1Lや菓子パン、スナック菓子などあらゆるものを貪る生活を繰り返す。そんな生活をしていたら体も心も壊していったのでやめました。病院に通うことはなかったけどそのときはすぐキレたり集中力もなかったり、本当にひどい人でした。
これだと前と同じことになる。大人になった今だから自分で自分の人生を選ぶと決め、これだとあの二人と同じになるかもしれないと思うと本気で恐くなり一念発起しました。
父が亡くなったと書きましたが、両親が離婚して1年以内に亡くなるとは思ってもいませんでした。もし私が父と一緒に暮らしていたらきっと私は今生きていないと思います。私は父の人生を背負いきれませんでした。深い悲しみと孤独を私には背負いきれない。半分分けあうこともとても難しかった。私の人生は終わっていたと思います。
母と兄と暮らしていても同じだったと思います。むしろもっとひどいことになっていたと思います。本当に精神的虐待が酷すぎました。今でいうモラハラですね。父にしていたことを今度はまるまる私にしてきた2人。自分達がしていることに全く気付いていない。自分達は正しい、何も間違っていないという意識。大人になって知恵がついた私は本当に毎日毎日家に帰るのがしんどかった。だけど自由を与えてもらっているようで与えてもらえてない環境、その見えない中から抜けるということがとても難しくて1人で家を出るという選択肢さえありませんでした。
夫と結婚するまでの間、本当に辛すぎて苦しすぎて、だけどそれを話しても誰にも分かってもらえなくて。私のわがまま、親を大切にするものだという考え、でき損ないだからとあちこちから批判を受けていた私。考えちゃいけないことを何度も考えてしまうことが普通にありました。いつも限界でした。ギリギリのところで生きていた私。プツンと糸がいつ切れてもおかしくない状況でした。それを頑張って踏み止まっていました。夫と出会わなければ私はきっとTVで報道されて牢屋の中に入っていたと思います。
夫に出会えてご縁に恵まれて結婚できて家から遠い場所に住まいを構えることができたことで私の人生はようやく私自身のものになりました。自分で選んで自分で決めれる。選択肢を自分で選べることができました。
母と兄は今も共依存状態で仲良くしてます。お互いを庇いあって助け合い。私は2人に何の援助もしていません。兄1人の給料と母の年金で生活をし、母は末期の乳癌なのでその治療費は兄が会社から借りて捻出しているようですが。貯金もあまりないと数年前に聞いたことがありますがそれでも私は2人に支援をするつもりはありません。私が結婚した数年は少しだけ支援をしていましたが後先考えずお金を使う人だったので。それは母が離婚する前からお金の使い方は変わらずなので。計画性はありません。全て目の前のことをどうにかすることだけで一生懸命です。
でもそれはそうなるのは当然。栄養のないもの、加工品をせっせと食べているから。タンパク質よりも糖質多めのものばかり食べているから。口に入るものの重要性を考えていないから。40年以上前はサプリなんてなかったかもしれませんね。だけど食事はやっぱりとても重要だったはず。その食事さえまともじゃなかったら体の健康はもちろん心の健康もあたりまえに保てませんね。
私以外の家族は自分以外の他人を大切にしすぎたり、自分を間違った形で大切にすることばかり専念しすぎたためこの結果になったととても思います。
話しがとても長くなりましたが、ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。私の話しを単純に長い話しと思わず、何か拾えて何か気付けるポイントが少しでもあったらいいな~と思います。
機能不全家庭、機能不全家庭から完全脱出できて自分の人生を生きることができた私、食事の問題、栄養問題、親子関係、依存、執着など、見る角度によって得られることは多いんじゃないかなと思います。
今後の私のブログでは分子栄養学を話題にしたブログを書いていく予定です。今後もよろしくお願いします✨