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冒頭を変えただけで、2次選考突破(作品比較)

(両作品の冒頭10枚を掲載します。作品内容は、ほぼ同じで書き出しを変えただけです。詳細は上記記事で)


「勝ち組」(「第34回すばる文学賞」(2010年)2次予選通過)


 そこを訪ねたのは、日本からのラジオ放送を直接聴けると、聞いたからだ。
 短波放送を受信できるラジオがあれば、日本の状況がはっきりと分かる。口伝えに聞いているだけでは、人の希望的観測まで入り込んでしまい雑音が多すぎる。日本が勝ったか、負けたか、ラジオであれば分かるはず。

  そこは、ジャバクワーラ区パラカツー街九八番、日本が勝ったと信じる「勝ち組」の総本山、臣道聯盟の極秘アジトだった場所だ。聯盟が解散してからは、幹部であった根津良太郎の寓居となっているようだ。外見は住宅街にあるごく普通の一軒家だった。

 根津とは面識はなかったが、バストス日本人会、山本会長の紹介状を添えて手紙を渡しておいた。面会が叶ってラジオを聞かせてもらえるかどうかは、五分五分か、それ以下か。

 どうせ駄目でもともとだ。

 呼び鈴を鳴らすと、年配の女性が現れてすんなり室内に案内された。

 二十畳ほどの居間であった。出入り口のドア以外はすべて壁に囲まれている。壁はもともと白だったのだろうが、薄汚れて鼠色に近い。所どころヒビまで走っていた。

 目を引いたのは正面奥の壁であった。

 壁が大きくくり抜かれ、中に祭壇が収まっている。紫紺のたれ幕が吊ってあり、その後ろには、日の丸と軍旗が並んでいた。その両旗の間に、陛下の軍服姿の御写真が掛かっている。祭壇の横には「臣道聯盟本部」と赤い字で大書したのぼりが掲げてあり、その字の上方には、桜花に白く「臣」と染めぬいた徽章が付いていた。聯盟の全盛期には同胞社会の会員十万人が、この徽章に頭を垂れたと聞いている。

 右側の壁にはサンパウロ州の大きな地図が貼られ、聯盟支部を表しているであろう赤い丸印で埋め尽くされている。左側には、「八紘一宇の精神をもとに、正々堂々と行動する」と直接壁に墨書きされている。ところどころ墨が垂れており、それがまた文字に勢いをつけていた。

 その墨書きを背にして、白髪で角刈り、着流し姿の男が椅子に座っていた。まるで、書の一部のように微動だにしない。

 根津だ。元臣道聯盟幹部であり、「白刃の根津」と恐れられた人物だ。椅子に深く身体を預け、節くれだった指を腹の前で組んでいる。その背後に、湯気が漂っているように思えた。彼の後ろに火鉢でもあるのかと、確かめたほどである。ただならぬ気迫だ。修羅場を体験してきた者のみが備えている空気を纏っていた。

「おはんが益田さんな」

 根津は背を正したまま言った。

「はじめまして。日本からのラジオ放送が、根津さんの所で直接聞けると聞いたものですから、ぜひ聞かせて頂きたいと思いまして」

「山本さんの紹介じゃ無碍にはでけん。山本さんにゃ、昔いろいろ便宜ばはかってもろたじなぁ」

「何卒、よろしくお願い致します」

 もう一度頭を下げると、根津は立ち上がる。

「こっちに」と手招かれた。

 いかにも剣の使い手といった摺足で部屋の奥に入っていく。一撃必殺を極意とする示現流の達人だという噂はデタラメではないだろう。根津から湧き出す気のようなものにどうしても圧倒されてしまう。

 根津の後を追って中庭を抜け、離れの小屋に入った。

 部屋中央のテーブルには謄写版の印刷機があり、宛名の書かれた大量の封筒が載せられている。新聞紙や宣伝用のちらしがテーブルから溢れ、床にまで散らばっていた。

「ここでちらしば刷って、各支部に配っちょったが、近頃はそげんな配っちょらん。そいに、ラジオば聞きに来る人も減った。邦字新聞の記者なんかもよう来て、こんラジオの情報ば記事にしよったもんじゃ」

 何も尋ねていないのに、根津は喋る。話し終えると、散乱したちらしを避けながら壁際に向かった。

 壁際には事務用の机があり、布を掛けた四角い物が置いてある。陽に焼けて黄ばんでいるその布を根津は丁寧に取った。

 飴色に磨かれた裁縫箱ほどの四角い箱が現れた。ラジオだ。回転盤に周波数の目盛りが刻まれており、その下に二つ小さなつまみがある。

 根津は、女体にでも触れるかのようにその箱を撫で回した。

「こらぁ日本から船で持ってきた特別製じゃ。外地用に生産された製品で、四バンド聞っがなっ、すごかもんじゃ。真空管が四本、そんうえにゃ高周波増幅器まで入っちょっじなぁ」

 風貌に似合わず機械に強いようだ。

 その薀蓄によれば、季節や時間帯によって大気の状態が違い、放送が聞こえるときや、聞こえないときがあるという。日本からの放送の場合、冬場や夜間の方が電波が届きやすいらしい。

「おいは、毎晩七時ちょうどに、日本の放送に合わせっラジオば聞いちょっが、こん時間にゃ、大本営の放送は流れちょらん。じゃっどん、大陸や民間の電波もあっじ、ちょっち聞きにっかが、どっかん電波が入ってくっが」

 根津は左のつまみを回した。

 真空管がヒィーと唸り、数秒間隔でヒィーが続く。回路が繋がったのか、甲高い音は間遠になったが、その代わりにガーという雑音が鳴り出した。

 根津は目盛りを少しずつ動かしているが、いくら待っても雑音ばかりだった。言葉らしきものは何も聞き取れない。

 それでも、真顔で言う。

「おー、ここじゃ。はっきい聞こゆっど。たぶん満州からじゃ」

「自分にはさっぱり聞こえませんが……」

 訝しく思いながら口にすると、根津はじろりとその眼光でこちらを睨む。右のつまみをぐっと回した。音量調節のつまみだ。音が跳ね上がった。

 甲高い音が辺りの空気を切り裂く。身体を曲げて耳を押さえた。黒板を爪で引っ掻くような音が、突き刺さってくる。

「音を……下げて……」

「ばかが!」

 一喝された。響き渡っている雑音以上の声量であった。

「おはんな、そいでん日本人な? 信念が足らんがぁ。信念が。やっじ聞こえんたっが。分かっか? おいが言ったこっが」

「音が……」

 さらに根津は、つまみを一杯にまで上げた。ガッーという雑音が響く。女の悲鳴のようなヒィーという音が鼓膜を突き抜いた。耳を押さえる。ガラス窓が振動している。スピーカーの振動に合わせてラジオの箱さえもガタガタと動き出した。

 それでも、根津は動じない。

「おー、そげんか」

 したり顔でしきりに頷いている。

「ほんのこっ。じゃっど、じゃっど」

 平然とラジオの前に座って、耳を傾けている。

 身を屈めた。部屋から逃げ出したかったが、根津の気迫がそれを許さない。白刃で真っ二つにされる光景がどうしても脳裏を掠めてしまう。ただ、身をちぢめて拷問のような時間を耐え抜くだけだった。

 数秒、数十秒、数分――

 根津がつまみを戻すと、やっと女の悲鳴は止んだ。

 根津はこちらを睨みつけ口を開いていたが、自分には聞こえない。頭の中に耳鳴りが充満していた。黙ったまま根津の様子を窺う。

 その様子から、「おまえ、今度は分かっただろう。今の放送」と言っているように思えた。

 その間も、ガーという雑音だけは低く部屋を覆っている。

「あー、はーいー」

 自分の声の大きさすら分からない。「あー」、「うー」などと呟きながら、側頭部を軽く叩いていると、徐々に、回復してきた。

「聞こえんち言わんがったが、おはんにもちいっとは聞こえたごっやなぁ。まだまだ信念が足りんじ、はっきぃ聞こえんたっど。しょうがねなぁ、今ん放送ばおいが説明すっじなぁ。いっどしか言わんど」

 まだぼんやりしている頭に、言葉を詰め込まれた。

 根津によれば、大日本帝国が開発した秘密兵器「高周波爆弾」は、通常爆弾の一千倍の威力があり、この「高周波爆弾」で近々日本近海に米艦隊を引き寄せて殲滅戦をやるという。その予定地は極秘事項であるが、根津の推測によれば犬吠岬沖あたりが有力であるらしい。今のハルピンからの放送では、犬吠岬沖を裏付ける情報があった。関東軍参謀の談話として出てきた「日本列島の太平洋側に注目すべき」といった言葉が、その予定地を示唆しているという。

「高周波爆弾。これこそ『神風』じゃ」

 念を押すように繰り返す。

「高周波爆弾じゃ」

「自分は……原子爆弾のことを耳にしていますが……」

 やっと口にできた言葉だったが、一蹴された。

「原子爆弾? そげんなたぁ出まかせじゃ」

「おいにゃ東京帝大出の学士様の知り合いがおっが、原子っちゅうのは全宇宙における最低の微粒物で、その原子ば破壊するなんち、そげんなこちゃ認められんち、言っちょったど。そいよか高周波じゃ。こんラジオにも入っちょっ高周波増幅器を、日本の技術がありゃぁ、巨大な増幅器でん作るっじゃろ。そいで周波数ば極限まで上ぐっ。こいなら、おいもおはんもピンとくる」

「分かったや」

 斬りつけるような声である。

 まるで白刃を突き付けられて、返事を求められているようである。なにか反論したなら、また音責めに遭いそうな勢いだ。

――黙って頷くしかない。

「ご教授を、ありがとうございました」

 弱々しく言うと、根津は不気味に笑った。そして言う。

「宮様がブラジルにおいでじゃ。お会いしてみるとよか」

 あとは、背中を向けてラジオを磨き始めた。

 頭の中で、ラジオの悲鳴のような音がいつまでも鳴り響いている。ただ、「宮様」という語だけは意味を持った言葉として光を放っていた。



「伯剌西爾(ぶらじる)の偽宮」 (「第21回小説すばる新人賞」(2008年)で予選落ち)


――間違いない。やはり、大日本帝国は勝っている。

 ついに、宮様との謁見が叶うのだから、間違いない。
 御簾の後に影が映り、益田稔はゆっくりと平伏した。
 影が低くなる。宮様がお座りになった。側近の川崎三蔵が恭しく立ち振る舞い、御簾を巻き上げた。

 益田は恐る恐る頭を上げ、上目づかいに正面の宮様のお姿を見た。
 仙台平の馬乗り袴、黒羽二重の羽織、紋所は四枚の葉を添えた菊。白扇を手に背筋を伸ばし、微動だにしない。そして表情は、能面のように動かない。

「麻香宮殿下です」

 川崎が声を出すと、宮様は黙って頷かれた。

 悠然とした物腰。匂い立つような気品。

――なんと。まさしく、貴人だ。

 益田は、宮様と視線が合いそうになったため、慌てて目を伏せ、額を床に擦りつけた。

「ブラジルに宮様が来られる」という噂は数年前から聞いていた。

「宮様が、海外移民への慰問使節団の団長としてブラジルに来られる。いや、使節団の団長は表向きのことで、本当の目的は、共産ユダヤ人と敗戦を喧伝する日本人八十三人を処分するため」といった内容だった。

 さらに噂は一人歩きして、「その処分に従わない場合は、日本軍四個師団が上陸、北パラナ州の守備としておよそ二百名がロンドリーナ市に駐屯する。その指揮官は麻香宮様だ」、「宮様が日本人移民を守るため、軍艦でやって来る」といったものになっていた。益田は、その軍艦を一目見ようとサントス港やリオ・デ・ジャネイロ港を行き来したこともあった。つい一カ月ほど前の九月八日にも、「七回目の戦勝記念日にあたるから」と囁かれていたため、サントス港に行ったが、軍艦を見つけることはできなかった。

 その宮様が、ついに来られたのだ。

 やはり、日本は勝っている。自分の信念は間違っていなかった。陛下の名代である宮様が来られることこそが戦勝の動かぬ証拠ではないかと、益田は確信した。

 川崎が奏上する。淀みがない。

「こちらの御方は益田様と申しまして、昭和七年にらぷらた丸で渡伯され、齢三十五歳、バストス市で生活なさっております。益田様は、農場を経営するかたわら、愛国の志士でありまして、『バストス臣道会』の幹部でもあられます。昨今、伯剌西爾の日本人社会においては、なんと嘆かわしいことに、それが敵国の作戦であるにもかかわらず、『日本が負けた』と言いふらす非国民どもが跋扈しております。しかし、益田様らは、そんな敵に魂を売り渡した輩に天誅を下し、同胞の愛国心を呼び戻す活動をなさっているのです」

 益田は頭を垂れたまま、その場の空気を感じ取っていた。

 宮様は、静かに聞き入っているご様子だ。きっと高貴な微笑みをたたえて、頷いておられるに違いない。ついに、自分たちの活動が、宮様にまで認められた。自分たちが正義なのだ。錦旗を掲げているこちらが、絶対に正しいはずだ。そう考えると、指が震えてきた。その震えを抑えようと、もう一方の手で押さえたが、収まらない。震えは伝染して両腕まで広がっていく。

「益田様」

 喝を入れるように川崎に呼ばれた。

 頭を上げると、いつの間にか目の前に三方が置かれてあった。

 ああ、ここに載せるのかと、先ほど川崎から説明されたことを思い出した。

「お持ちになってこられた献上品は、こちらから指示しますので、そのときにお渡し下さい。そのとき、ただ黙ってお渡しするのです。よく、自分が持ってきた物や、献金額などの自慢をなさる人がいるのですが、見苦しいだけですし、無知をさらけ出しているようなものですよ。いいですか、高貴な方に対して、こちらから質問したり話しかけたりするのは、大変な無礼にあたります。それをしっかりと肝に銘じておいて下さい。ただし、尋ねられたことには、答える必要があります。それも、簡潔にですよ」

 益田は無言で、懐から封筒を取り出して、目の前に置かれた三方に載せた。

 二十コント入れてある。

 少ない額ではない。事務員一カ月分の給与が一コントほどである。二十コントは、益田がどうにか用意できた精一杯の金額だった。それでも、この額の多寡が気になってしかたなかった。宮様に献金したことなどないし、ましてやその相場など全く見当が付かなかったからである。

 床から軽快な振動が伝わってきて、益田の狭い視界に白い足袋が入ってきた。背後に御殿女中が控えていたのだろう。三方を丁寧に下げていった。

 その白足袋が前方に消えて行くと、封筒が川崎に手渡される気配がした。

 益田は少しだけ頭を上げ、様子を確かめる。

 川崎の燕尾服が見え、白い手袋がせわしなく動いていた。

 その動きが止まると、頭の上の方から声がした。先ほどよりも、声音が低い。

「殿下がブラジルにいらっしゃることは、軍部の極秘事項でありますし、本国からの資金援助は得ておりません。ブラジル国内のことは、ブラジルに在住する同胞の貢献によって賄うのが当然だと考えるからです。本国での軍事費を、国民による血税で賄うのと同じで、我々は日本人としての義務を果たさなければならないのです。益田様は、敵国であるブラジルに税金を納めておきながら、本国に対しては支払っていないのですよ」

 川崎の口調には、相手を押し潰すような気迫が込められていた。

「恐れながら……」

 弁明しようとしたが、それが声にならない。「高貴な人に対して話しかけてはいけない」、川崎の戒めが呪縛となっていた。

 川崎は容赦なく畳み掛ける。

「これまで他の方も相当な金品を献上なさっております。皆様が不動産や車などを売ってまでも、報国のために頑張っていらっしゃいます。所有地を売却して、二百コントを献上された方もおられました。あくまで献金ですので金額の多寡ではないのですが、身分相応の金額を献上して頂きたいのです。益田様はバストスに農地を持っておられるはずです。それが、この金額では、誠意が伝わりません」

 益田は床に頭を付けたまま、ただただ恐れ入っていた。

 川崎の強い語気が、重石のように背中に載せられる。川崎の叱責は、宮様の意向なのだろうが、どうしても殿下の様子を自分の眼で確かめたかった。

 益田は、お顔を盗み見た。

 殿下の表情は変わらない。が、演者の優れた技によって能面が微妙に表情を変えるがごとく、そのお顔は立腹なさっているように見えた。

 その宮様のお口が開かれる。

「報国のため、何ができるのですか?」

 そのお声は、澄んでいた。川崎の口調とは違って、責めている感じではなかった。

――ああ、殿下はお許し下さるのだ。

 背中の重石が消えていく。

 しかし、もっと大きな重石をくくり付けられた気がした。何ができるのか。一刻も早く、簡潔に返答しなければ。叱責の重石であれば、ひたすら耐え続けることができたが、これには猶予がない。まるで、それを付けられたまま水中に放り込まれたようなものだ。早く答えて取り除かなければ、底へ底へと沈んでしまう。

「何をなさるのですか?」

 川崎が強い調子で尋ねてくる。

 何ができるか。自分ができること。それは破壊活動。負け組の連中に対して、天誅を下すこと。咄嗟に思いつくことといえば、これまで自分が信じてきた活動だけだが。いや、そんなことをこの場で、高貴な殿下に対して申し上げてもよいのか。焦れば焦るほど、重石の紐が絡まってくる。

「益田様、殿下がお尋ねになっているのです。答えなさい」

 責め立ててくる。

 早く答えなければ。いったい祖国のために、何ができる。自分は……ブラジルに来たため出征できなかった。それを悔やんでいる。小学校の同級生からの手紙で「海軍に入隊しました」、「飛行機に乗っています」、「村の誰それが、陸士(陸軍士官学校)に入学した」などと書かれていたときには、いったい自分はブラジルで何をしているのか、焦燥感に苛まれていた……そんな気持ちをこの場で口にすれば良いのか。

 いや、違う。もうだめだ。あと数秒も保てない。紐を切らなければ。

 そうか、自刃だ。

 刃物から自決を連想し、そこでやっと、言葉が出せた。

「お国のためなら、この命を」

 硬直していたこの場の雰囲気が、溶けていくようだった。

 間違いない。いまの返答は、正解だった。そっと顔を上げると、殿下は黙って頷かれていた。どこか笑みを浮かべているようにも思えた。

――助かった。

 水中からやっと出て、息を吸い込んだときのように、大きく胸を膨らませた。

 川崎が言う。その声は弾んでいた。

「さすが、益田様です。祖国のために命を捧げられるのですね。そのお覚悟ならば、殿下も喜んでおられますよ」

「ありがたき幸せです」

 頭を低くした。

「ところで、益田様。負け組の首領の一人、脇坂甚三郎。ご存じですか? あれは売国奴ですね。退役陸軍大佐でありながら、『終戦伝達趣意書』なるものに署名して、日本が負けたなどと触れ回っているそうですよ」

 上からの言葉ではなく、耳元で囁くような口ぶりだった。

――そうか。そういうことか。

「この命を」と言ったあの返答は、もちろん本心であるが、いわば苦し紛れの発言でもあった。それでも、御前で言ってしまった以上、撤回できないのだ。命を賭けなければならない。

「不埒者がのさばっていること、どう思われます?」

 窺うような川崎の問いかけに、

「天誅が下るはずだと」

 益田は言わざるを得なかった。

 ポンという白扇を叩く軽い音がした。

 人が立ち動く気配が感じられ、御簾が擦れる音、さらに衣擦れの音が聞き取れた。


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