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サマーウォーズ考② 栄と健二 モロサカタカミ

この記事は「サマーウォーズ考① 朝顔の譲渡 モロサカタカミ」の続きです。未読の方は併せて読んでいただければ幸いです。


3.周縁の存在である健二

かりそめのアイデンティティ


最後に健二について考えていきたい。ヒロインである夏希は、栄に「私の彼氏連れてくるまで死んじゃダメよ」という約束をして健二を陣内家に紹介する。夏希は、侘助の特徴である「東大・旧家・アメリカ帰り」という設定で健二に彼氏役をお願いするが、ここでいう彼氏役とは、ほぼ侘助役だと考えられる。この行動は、侘助への恋心と、侘助を家族に戻そうという夏希の複雑な想いの表れではないだろうか。健二は侘助の代替として陣内家へ招かれるわけだが、肝心の侘助が栄の誕生日前に帰ってきたため、侘助のふりをする健二はアイデンティティがなくなり、逮捕という形で家から追い出される。健二の指名手配と逮捕については、現実的にあり得ないという指摘が多いが、かりそめのアイデンティティを失った健二が、再び陣内家に迎え入れられるために必要なプロセスだったと考えることもできる。

一度目の陣内家への訪問は夏希の彼氏(仮)としての姿であり、渋滞の影響で陣内家に戻ってきたときは、本来の自分である小磯健二として再訪してきたのだと捉えることができる。これ以降、健二は持ち前の数学の能力を駆使し、OZの混乱の収束に努めるが、このように、現実社会でも、アバターのように自分とは異なる自分を演じる場面がいくつかあり、『サマーウォーズ』では現実の虚構性のようなものも描いているように思う。歴史学者の阿部謹也も、以下のように述べている。

私たちは個人と個人の付き合いに慣れていない。日本の個人はすべて世間の中に位置を持っているから、初対面の人の場合でもいったいどういう人なのかをまず探らなければ付き合いがはじまらない。どういう人なのか性格なども問題にはなるが、それよりもどういう世間に属している人なのかが問題なのである (23)

阿部謹也、『「世間」とは何か』、講談社現代新書、2021年

最初の宴会のシーンを思い浮かべればわかるだろう。夏希は陣内家の人々を健二に紹介するときに、本家の~さん、~さんちの~、といった形で紹介している。それぞれに個性はあるものの、皆が陣内家という「世間」のなかでどのような位置を占めているかが重要であるのだ。健二自身、「東大卒・旧家出身・アメリカ帰り」の夏希の婿という、かりそめのアイデンティティを持たなければ家に入ることはできなかった。陣内家という「世間」に接続されているからこそ、健二は迎え入れられたのだ。

栄と健二


何度も言うようだが、『サマーウォーズ』は「家族」の物語である。AIの暴走や、仮想現実と現実世界の対比など、現代的なテーマを扱いつつも、その中心には家族関係という普遍的な問題を描いている。陣内家のような、歴史と伝統があり全国に親類のいる名家であれば、規模が大きくなる分、人間関係も複雑化し、不和や軋轢も生まれやすくなる。『サマーウォーズ』では本家と分家の対立や、男女の対立などが分かりやすいだろう。今作の場合、代々女系家族である陣内家において、上位のカテゴリーに分類されるのが本家と女性であり、下位のカテゴリーにいるのが分家と男性だといえる。

そう考えると陣内家の人間ではなく、かつ男性の健二は、周縁的な存在にならざるを得ない。実際、栄の死の直後、ラブマシーンを倒そうという健二の意見は女性陣の猛反対にあい、退けられている。逆に、当主である栄の権力は絶対的なものである。最初の宴会のシーン、夏希の結婚に納得がいっていない翔太に対し、栄の長女である万里子は、「何だっていいの。母さんが認めれば。ウチはそうやって回ってるの。」(p.73)と淡々と述べており、翔太以外は誰も反論をしない。栄は絶対権力者として陣内家を取り仕切っており、その権力は家族だけでなく政財界にも影響を及ぼしている。二人は都市の人間と地方の人間、若者と老人という違いもあり、両者はこの映画において、まるで正反対な存在だといえる。家族というテーマに戻ると、この物語は都会に住む核家族の少年が、陣内家との交流を通して家族の繋がりを再認識する話だとも考えられる。

『サマーウォーズ』と敗戦


最後に、タイトルである『サマーウォーズ』について考えていきたい。『サマーウォーズ』のキャッチコピーは「これは新しい戦争だ。」であり、作中では徳川氏との上田合戦と、ラブマシーンとの戦いが比較されるが、夏の戦争と言われてまず思い浮かぶのは、やはり太平洋戦争だろう。主題歌である山下達郎の「僕らの夏の夢」では「零戦」という言葉が出てきており、作中でも理一が自衛隊員であることは、この物語が敗戦後だということをそれとなく意識させる。

『サマーウォーズ』の敵は暴走したAIだ。しかし、それは突然発生する自然災害ではなく、侘助が先祖代々の土地を売って得た金で作り、アメリカ国防省に売却したという経緯がある。別に陰暴論めいたことを言うつもりはないが、一見ニュートラルな物語の裏に、私たちの歴史が抱える問題点が隠されているかもしれないことは、自覚してもいいかもしれない。2024年のいまもそうだが、アメリカの影響は、私たちの生活に深く浸透している。作中ではiPhoneを持つのは侘助のみだが、現在はiPhoneの国内シェア率は約7割にまでのぼっている。スマホの普及により、グローバル化は加速の一途をたどっているといえる。

また、ラブマシーンが健二のアバターを取り込んだ姿は、ミッキーマウスを想起させる。AIの脅威は、グローバル化が引き起こした問題であり、ディズニー映画はグローバル化によって世界中に普及している。世界に混乱をもたらすAIが、グローバル化の象徴であるミッキーマウスとよく似たキャラクターというのは、グローバル化の功と罪を端的に表していると言える。

グローバル化と対をなす形で現れるのが、栄の家紋や、夏希のアバターに見られる日本的な要素である。批評家の東浩紀は、『動物化するポストモダン』のなかで、サブカルチャーにおける日本的要素について以下のように論じている。

オタク系文化の根底には、敗戦でいちど古き良き日本が滅びたあと、アメリカ産の材料でふたたび疑似的な日本を作り上げようとする複雑な欲望が潜んでいるわけだ (24)

オタク系文化の日本への執着は、伝統のうえに成立したものではなく、むしろその伝統が消滅したあとに成立している。言い換えれば、オタク系文化の存在の背後には、敗戦という心的外傷、すなわち、私たちが伝統的なアイデンティティを決定的に失ってしまったという残酷な事実が隠れている (25)

『サマーウォーズ』で描かれる田舎の夏は、非常に美しい。陣内家の宴会も、都会にはない人と人との密な交流がある。が、こうした景色をアニメーションでしか私たちは味わえないのではないだろうか。『サマーウォーズ』に懐かしさを覚えることは、すなわち、私たちが伝統的なものから遠ざかっていることを意味しているのではないだろうか。

『サマーウォーズ』でもっとも日本的な要素が出てくるのが、最後の花札での決戦の場面だろう。巫女のような姿のアバターで、花札という日本的な遊戯で勝負をして勝利したことは、グローバリズムに対する日本文化の特異性を誇示する結果のように見えるかもしれない。しかし、決戦の場自体がOZというグローバリズムの場であり、どこか地に足のついていない場である。アバターという存在も、数ある要素の組み合わせにすぎず、オタク的なデータベース消費の対象ともいえる。「日本的なもの」への回帰とグローバリズム、その両端で揺れ動いているのが『サマーウォーズ』であり、2024年の私たちも、その揺れの真っただ中にいる。だが、真に重要なことは日本対世界という対立軸で考えることではなく、私たちの固有の歴史とは何なのか、私たちのアイデンティティについて考えることだろう。陣内家が自分たちの家族の歴史について語ることは、自分たちのアイデンティティが同じであることを皆で共有し、結束を強める意味合いがあるだろう。こうした振る舞いが気に入るか入らないかが、この作品に対する評価の分かれ目だといえる。

おわりに


私は生まれも育ちも東京で、健二と同じく両親が共働きの家で育った。『サマーウォーズ』で描かれる家族の在り方に多少憧れもあるが、地方出身者の人間が見れば、また違う見方もあると思う。『サマーウォーズ』で描かれる大家族のしがらみを嫌う視聴者も一定数いただろうし、夏希と健二をくっつけようとする親類たちのおせっかいさに、不快感を覚えた人もいるだろう。また、プロットの問題点を指摘するレビューもいくつかあり、それらに私も別に反論するつもりはない。ただ、デジタル空間での見知らぬ人からの無償の協力や、栄の「あんたならできる」といういくらか無根拠な、けれどどこか人を安心させる励ましに、私は素直に感動した。それは私が年の割にナイーブすぎるだけかもしれない。しかし、私は『サマーウォーズ』が、その不完全さゆえに愛されているのだと思うし、ノスタルジアを超えたなにかが、この作品にあるように思えてならない。

参考文献:
東浩紀、『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』、講談社現代新書、2024年
アニメスタイル編集部編、『サマーウォーズ 絵コンテ 細田守』、メディアパル、2015年
阿部謹也、『「世間」とは何か』、講談社現代新書、2021年

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