なぜ人は創作をするのか 漱石の態度から読み解く 二島大和 ~漱石の『文芸と道徳』を読む~
こちらは前文です🖊
以下、本文となります↓↓
我々は同人誌という場で小説や詩、俳句を書いたりしている。創作を通して何かを語ることを試みているという点では、出来においては遠く及ばずとも漱石と同じである。ただ、そもそも、私たちはなんのために創作をするのか。世界をより良くしたいという誇大妄想があるからだろうか。それとも美しいものをこの世に顕現させたいという芸術的信念があるからだろうか。私なりの結論を先に述べると、人を創作に導くものは大きく二つ。手を動かしたいという衝動からくる喜び、そして曖昧模糊とした自己を解体し整理して知りたいという欲求であろう。
手からくる衝動を最も反映させたものを「詩」。これは意味以前のリズム感などが表現の主な要素となるだろう。そして整理の欲求を反映させたものを「散文」としよう。多くの場合、出発点があり変化を経て進行する。そのため詩と比べより理知的、構成的に作られる。そして必ずしも結論がないこともあるが物語の流れを通して答えを探す。或いはなぜそのように答えを求めてしまうのかということ自体の意味を問う。どちらにせよ読者に答えや意味といった成果を伝えるという側面が大いにある。そういった成果は作者が物語を動かす根幹、主題(テーマ)ともいわれたりする。リレーエッセイの中で、モロサカくんが詩の優位を論じてくれたが、漱石の場合多くは散文の側に立つ芸術家と考えるため、今回の場合は散文における問題と捉えて話を進める。
課題である「文芸と道徳」という講演においては散文の二つの側面である「浪漫」と「自然」が定義され、両者のバランスで健全な「道徳」を伝えるのが理想的文芸であるとされる。しかしどうだろうか。読んで見ると理路整然とした口調に半分は納得しつつも、半分は疑念が浮かぶ。それは口調から漱石の困惑が読み取れるからだ。漱石は初め、時代の変化と連動する道徳の変化を語り、自然が許されるようになった近代化を一先ず歓迎する。そして文芸の話へと移ると自然派を一度は擁護する。なぜなら自然派は時代的制約から解き放たれた個人がありのままに生きることに対して寛容であり、人間的弱点に自然という点である種の価値を付与するからだ。しかし、かといって自然派一辺倒では露悪的・利己的な側面が誇張されるにすぎず、それだけでは健全な道徳を伝えるには十分でない。反動として浪漫派的なものが必要であると漱石は転回する。何やらあっち行ったりこっち行ったりのあやふやささで、ハッキリとしないというのが正直な印象だが、時代的な変化に葛藤していたのだから当然とも言える。
個人が自由に個人の考えに基づいて主義主張することができる、或いはそう生きていかなければならない時代になった。かつての権威はなくなり、もはや個人的利益を恥ずべき必要などない。自己を正当化しても何ら差し支えない。その変化は一面気が楽で、心地の良いものである。だが自然であることにはエゴイスティックな面があると漱石は気がついた。自然で自由であることはそう簡単ではない。時代の要請に対し、自分の中に一種のやましさのようなものがどうしてもまとわりついて離れなかった。そこで漱石は苦し紛れに道徳、健全性という自然派でありつつも目指すべき目的というものを設定してみせたのだろう。だからこそ講演において「道徳」というものが、悪に落ちないための安全弁のように語られるのだ。しかしそれが一体どういったものなのか、私の読解力ではわからなかった。健全な目的というところで、漱石は自然のなかにある正しさといったものを仮定しているようだ。その正しさはかつてのように目指すべき模範的人間として描写することは叶わないが、人間の弱さを描写することで、少なくともあってはいけない姿を造形することができる。「これではいけない」「悲しいかな、人間は弱い」を通して、ある自然の中にある自ずとあらわれる道徳的態度を目指したのだろうか。どうも納得がいかない。なぜなら自然ということが罪や利己といった点でしか語られておらず、そのためにこそ自然を補う理知的かつ理想的な浪漫が必要だったと漱石は語っているようだからだ。自然に善は存在しないのだろうか。
講演における漱石の結論を私なりに言葉にすると次のようになる。文芸においては何をもってしても自然体の人間の経験的なことから動機(モチーフ)を得て着想しなければならないが、そこにはエゴが潜む。エゴはあるべきではないけれども自然の最も顕著な姿だ。エゴを暴走させないためにもテーマ(浪漫)という人間的文化的なもので両者のバランスをとり、あるべき道徳的姿を提示せよ、と。
冒頭でテーマは意味的側面が強いと述べたが、漱石はやはりテーマの前提に意味以前の自然を重視している。それ自体には概ね同意する。一方で、自然にはエゴがあるという。ありのままに生き自分の快を追求することは誰かの不快になる。社会にはそういった側面がもちろんある。しかし、芸術家が自然に物作りに着手する時、そうした意味でのエゴは見当たらない(ことが本来正しい)。なぜなら自己完結的な快だからだ。そうした物作りの動機となる快をモチーフと言い換える。モチーフはテーマよりも目に見えて、目に見えない。物語の軸となるものではなく、むしろ細部の描写に宿っている。
本来ならば漱石の作品の中にモチーフを探すべきだが、不勉強で漱石の作品はほとんど目を通していない。そのため自分の関心ごとに引き寄せて考える。といっても素人の領域だが、ゴシック建築という様式がある。中世のフランスで花開いた建築様式で、主に教会などに採用されている。空に突き刺さるようにして伸びる尖頭アーチや光を取り込むガラス窓や広い天井などが特徴で、神の偉大さが空間を通して伝わってくる仕組みがされている。内的な不安を埋めるための崇高さと巨大さが表現されたここには「超越」への志向がテーマとしてある。ならばゴシック様式のモチーフはというと、それは森の表現であった。超越というテーマはキリスト教が持ち込んだものだ、しかし本来そこに生きた人々、ゴシックのもととなったゴート人たちは本来自然由来のアニミズムの宗教を信じていた。そのためにゴシック様式の細部にはキリスト教では悪魔とされる怪物が彫刻として残っている。また、建築の広い天井も超越といった意味が付与される一方で、彼らがかつて生きた自然、つまり高い針葉樹が覆うようにして聳える黒い森の表現でもあった。
そこには明確な目的や意図とは別個に、或いは以前に自然に対する敬愛。悪(自然のエゴ)を含めた秩序感への信頼があった。ありのままを忘れずにいたいという気持ちが反映されているとも言える。人々はそれをキリスト教的な意味に回収されないよう細部に宿らせたのだ。
漱石が「道徳」といってしまったものも、自然に対する信頼感なのではないだろうか。しかし、それが忘れ去られてしまったがゆえに、道徳という少々人工的な言葉を通してしか語ることができなかった。そう見ることもできる。人は創作する。衝動の喜びとエゴに対する自己整理があるために。どちらも人間の自然な一面で、両者があるからこそ、葛藤も生まれそれを記したいとなる。自然に正直であればこそ、人工的な理念に頼らずとも漱石のいう道徳は自ずと生まれるだろうし、そうであると信じたい。
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