三昧力の重要性


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道元禅師は正法眼蔵の中で


「参見知識のはじめより、さらに焼香、礼拝、念仏、修懴、看経をもちいず、只管打坐して身心脱落することを得よ」


と坐禅の心得を伝えている。


これを「只ひたすらに坐禅をすればよい」という解釈で

捉えられていることがほとんどである。


まずはそれが土台となるのであるが、それだけでは

「マインドフルネスの領域」である。

それはそれで、素晴らしい効果があるが、禅はもっと深い。


道元禅師曰く


「自受用三昧その標準なり、この三昧に遊戯(ゆげ)するに

端坐参禅を正門とせり」


と言っている。

ここを合わせて理解していないと、

禅の修行の道は半ばで終わってしまう。


自受用とは「自ら受け入れる」

三昧とは「我を忘れてその場のことになり切る」

遊戯とは「遊ぶこと」


「三昧に遊戯する」とは

「我を忘れて遊びに没頭する」という状態である。


子供がゲームを何時間でも没頭しているのは、

「三昧に遊戯している」状態である。


あのコントローラー捌きは

三昧に遊戯した修行の賜物である。

相当に、間脳が鍛えられている。


「端坐参禅を正門せり」ここが重要である。

「参禅」とは、「師家(しけ)」について、坐禅をすることである。

師家とは禅の印可証明をもつ、指導者である。


師家の傍に坐り、師家からの言葉や知識ではない

印可証明をもつ覚者の波動を受け、合わせ、

音叉が共鳴するように同一化することで、

覚醒する坐禅ができるようになるということである。


子供が遊びに没頭するように、

「三昧に遊戯する」ゾーンのような状態で師家の傍らに

坐ることで師家の波動を受け入れられ、同一化することが可能となる。


只管打座という「ただひたすらに座ればいい」という信仰に

おぼれては悟りへは近づけない。


釈迦の有名な説法「拈華微笑」でも、多くの弟子たちがいる中で

釈迦の悟りを受け、同一化したのは魔訶迦葉のみ。

師の傍にいても、それを受け「同一化」できなければ何も起きない。


どんな事でもその道を究めるには、

1、師家がいること

2、その師のそばで修行すること

3、目に見えないものを受けるとる「三昧力」があること


我を忘れるほど、没頭できる「三昧」する力が

あることが真理を受け取る大きな鍵となる。


現代人は我を忘れて何かをする「三昧」には、

ブレーキを掛けがちな人が多いと思う。

「ほどほどにして、勉強をしなさい!」というような

環境が多いからかと思う。


一流のスポーツ選手などは、必ず、このステップを

踏んでいるのはあきらかであろう。


覚醒した傑出した人物が生まれるためには

「三昧力」

が必須である。


戦後教育で作った記憶力勝負に勝った人が勝利する

時代は一瞬だったが、完全に終了した。


傍からみたら、わけわからないことに

我を忘れて没頭している人が、師家と出会い

覚者となり新世代のロールモデルとなると思う。


師家と出会えるかどうかは、禅でいえば

遊戯三昧に坐り続けることが第一歩である。

それ以外のことでも、同じことだと思う。


「もう、ほどほどにしなさい」


と三昧に遊戯している人を止めてはいけない。

いつか素晴らしい師家に出会い、覚者になる可能性がある。

合掌















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