「指殺人」という言葉で思うこと
いわゆるリードオンリーメンバーとして使用していたnoteだったが、くだんの女子プロレスラーの方の自死と報道、そしていわゆる「ネットの反応」というものに対して思うことがあったので、初めて記事を投稿することにした。さきに言ってしまえば、私はここでよく語られる「指殺人」という言葉に対し、抵抗感をおぼえている。このことを訴えたい。
コーティングがはがされた世界で
ネットの普及と拡大は、人類がそれまで経験していなかったコミュニケーションのスタイルを一気に生み出した。・・・そんなことが語られるようになったのが、たぶん20年ぐらい前である。当時は2ちゃんねるでも平気で自分のメアドや携帯番号を知らせ合う、なんてことがあったように記憶しているが、そういう「おおらかさ」はなくなったものの、基本的にインターネットを用いたコミュニケーションの「害」とされるような部分はなくなっていない。たぶん目の前に相手がいなくて、自分が何者か特に明かす必要もなく、また生の肉声を用いないなら、ひとは攻撃性を簡単に発露してしまうのだろう。
その攻撃性はもともともっていたものなのか。そういった状況が攻撃性をうみだすのか。それはわからない。ただ「ネットには変な奴が常駐している」というよりも、ふだんの生活でコーティングしているものがいくつか剥がれれば(あるいは画面越し・テキストオンリーという別のコーティングをまとえば)、けっこうな確率で私たちは野蛮になれる。
「指殺人」という言葉を聞いたのはいつからだったか。キーボードの一打一打が、スマホをフリックする指の数センチの軌道ひとつひとつが、人の命を奪う威力をもっているというわけだ。この言葉の意味するところを私は理解しているし、そこで示唆されている私たちの潜在的な野蛮さ、残酷さについても認めるところである。だが、それでも私は、この言葉に「抵抗感」を示したい。
SNSなどで悪意の集中砲火を浴びたひとが自死したとして、そのひとを「殺された」といっていいのだろうか。
聖化される自死
社会学の世界などでいわれていることのようだが、ある事件が話題になると被害者は「聖性」を付与されることがあるという。被害者だって当然ふつうの人間なわけだが、おおくのひとが注目する出来事の「被害者」になったとたん、悲劇の登場人物のように扱われ、またそのようにふるまうことが求められたりもする、というわけである。
では「指殺人」によって自死した人物はどうか。確かに先ほど書いたように、私たちは日常生活でまとっているいくつかのコーティング(体裁とか実際的な関係性とか )が剥がれると、途端に野蛮になるようだ。ひとびとのむき出しになった悪意が、ひとりの人間に降り注ぐ。これは想像するだけで恐ろしいことだ。だからこういった暴力の横行は問題にすべき社会的な事象であると私も思う。
そしてこの悪意の嵐にさらされ、耐えきれず自死をしたひとはその暴力の「被害者」となる。実際いま話題になっている女子プロレスラーの方を悼む声は多く上がっているし、SNSにおける誹謗中傷の危険性を訴える声もあがっている。
「もう二度とこういったことが起きないように」と。
私もこの声に同意する。「もう二度と」こういうことが起きてほしくはない。それは有名人だけではない。あらゆるひとにとって、こんな悲しいことは起きてほしくない。
だがそれは、「もう『指殺人』が起きてほしくはない」ということかというと、少し違う。私が願うのは、
「だれであっても『他人の指を苦に死ぬ』などということをしてほしくない」。
そして「だれかの自死を<消費>するようなことが、もうあってほしくない」。このふたつである。
「殺人」と「自死」の違い
無限に続くかのような悪意にさらされ、思い余って死を選ぶという人の気持ちを思えば、いま私が言おうとしていることがどれだけ冷酷な物言いになるか、それなりに自覚しているつもりだ。だが、自死を選んだ人に聖性が付与され、語られることで生じる危険を、私はここで言いたい。
「殺人」と「自死」は違う。
「自死」はだれかに殺されるのではない。自分で命を絶つ行為だ。
「被害者」として語られることで看過されがちだが、このことのもつ意味は大きい。自ら命を絶つ行為に「被害者」としての「聖性」が付与されるとするなら、それは、社会がどこかで「自死」を許容してしまっているということでもある。そればかりか、「死を選ぶことによってある訴えが通じる」と、とりわけ若い世代のひとびとが認識をもつようになったらどうなるのか。聖化された「自死」が、さらなる「自死」を招かないか。
「私たちは『指』で殺し、殺されもする」
それが常識となった社会は、直接かかわりあいのない人たちの言葉に対し、「自死」という対応をとることが、またそれに対して共感を示すことが、文化的に許容された社会でもある。
そんな社会は、おかしい。私はだれにも自ら命を絶ってほしくない。
暗に「自死」という選択肢があることを示すような社会であってほしくない。
「死に甲斐」などあってはならない
人間が物事を考え言葉にするとき、意識的であるなしにかかわらず、何かの影響を受けている。ここで私が主張していることも、ある学問世界の中で論じられていることに大きく影響を受けていることを断っておこう。
私がこの考えに強く依拠するのは、人の死は、とりわけ自死は、ほかの多くの不幸な出来事と違って、どうあっても「今となってはそれが起きてよかったのだ」などとなりえない、取り返しのつかない不幸であるということだからだ。個人的なことなのでつまびらかに書くことはしないが、私もまたそんな不幸を、目にしたり、聞いたり、味わったりした。
ところがメディアでは、悲劇的な自死は、聖性を帯びて<消費>されてしまう。
そのさまは、自死を考えるひとの目には「死に甲斐」があるようにさえみえてしまうかもしれない。苦しみを訴え、共感を得て、自身を傷つけた人々に復讐さえしてもらえるかもしれない。そんな風に感じるひとが、きっといるはずだ。
だが、そんなのはまちがっている。
「死に甲斐」なんてあってならない。
彼女の肉親でもない私たちは、なおのこと冷酷に言わなければならないのではないか。
「他人の『指』で死ぬなんておかしいよ」